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09年10月29日 山岸先生の新共著と石黒真吾さんの『潮流』論文



 なんか鳩山総理がいいことを言えば言うほど、それが全部景気と道連れになって崩壊してしまう将来を予想して暗澹としてくるこのごろです。今度当選した金子洋一議員には、そうならないために是非がんばってもらいたいです。
 さて今回もまた『痛快明解経済学史』をご紹介下さったブログへのお礼から。
飯田泰之さんの記事。大活躍でお忙しい中のご検討、ありがとうございます。コメントへのご丁寧な返答にも感謝。
はてなid:WATERMANさんの記事。基本的主張を正確にご紹介いただき、ありがとうございます。
それから、田中秀臣さんにもまたお取り上げいただいたのでした。そう。ケインズ『一般理論』と言えば、17章と19章ですよ。19章はid:eliyaさんがまとめて下さっています。「賃金硬直だから失業がでる」ってのがケインズの考えだと思ってた人は刮目して読むべし

※若田部昌澄さんが、『エコノミスト』11月3日特大号で、『痛快明快経済学史』のご書評を書いて下さっていたことに気づきました。過分なお誉めにあずかり、本当にありがとうございます。拙著の経済学進歩史観を肯定いただいて心強いです。幽霊の敵役のマンチェスター学派やバスティアの評価が慎重さを欠いているとのご指摘は全くおっしゃる通りです。敵役は総じて、生前の言動をデフォルメした幽霊の一方的証言で断じられていて、本人のテキストをあたって書いているわけではありません。お話はそうでないとおもしろくないと思いますが、どこか最初か最後でその旨一言入れるべきだったかもしれません。──10月29日即日追記


 ところで、日経の例の日本経済学会会員への意識調査結果。「オレは聞かれてない!!」と叫びたくなりますが、先日学会大会に行かなかった引け目もあるので文句も言えないか...。会場校の野口旭さんたちがせっかく一生懸命運営した大会でしたけど、当日は中三の息子と高校見学に行く日だったのです。すみません。
 それにしても、自由貿易賛成が大多数とかいうのは予想される通りの結果だし、実際ボクもそう思うけど、やっぱり金融政策だけは意見がわかれていますね。金融緩和派は多数ではない……うーむ、まだまだ道は遠いか、と思い知った次第。

 それで思い出したというか、確信が深まったのですが、ひょっとしたら、景気の「学説史循環」とでも言うべき長期波動があるのかもしれない。何度も紹介している若田部さんの『危機の経済政策』を読んで思いついたネタですけどね。
 1930年代の失業いっぱいの大不況をなんとかしようというのでケインズ革命が起こったけど、最初は学界でもなかなか受け入れられませんでした。それが世代交代も進んで学界の多数派になって、マスコミも世論も獲得して、とうとう国家的スローガンになったころには、黄金の60年代。もう失業問題なんてない成長時代です。
 そんな中でケインズ政策で景気拡大路線をとってたら、当然大インフレ!の70年代だ。そりゃ大変だってんで、反ケインズ革命が起こる。これも学界で受け入れられるには時間がかかりました。アメリカでは80年代には決着ついたかな。でも日本では戦後大物世代が第一線を退いた90年代はじめぐらいですね、新古典派が学界制覇したのは。ソ連東欧崩壊のインパクトもあって、その後マスコミや世間の認知が進んでいって、やがてとうとう国家的スローガンになったころには、なんと長期停滞でデフレの真ん中というタイミング。そんな中で、反ケインズ派の供給力強化路線をとったので、ますますデフレ不況がひどくなっちゃいました。
 それで、こんなデフレ不況は、クビ切りだの就職難だの大変だってんで、今度はリフレ論が登場したわけですね。でもまだなかなか学界を制するまでにはいかない。この調子だと、マスコミや世論を獲得して、官僚、政治家に受け入れられて、とうとう政策スローガンになるころって、いったいいつになるのでしょう。少子高齢化が進んで、労働力不足が大変だっていう超完全雇用時代にあたっちゃうような気がしてなりません。ボクの勝手な妄想だったらいいのですが。


【書評:『ネット評判社会』】
 さて今日は、前回のエッセーでちょっとご紹介した、山岸俊男さんと吉開範章さんの共著『ネット評判社会』(NTT出版)の書評をしたいと思います。
ネット評判社会表紙
amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン
 この本は大きく三つの部分からなります。
・最初の部分(第1章、第2章)は、社会心理学者である山岸さんがこれまでずっとおっしゃってきたことの簡潔なおさらいです。
・真ん中の部分(第3章、第4章)は、新たに、ネットオークション実験とか、現実のネットの仕組みを作る分野でこれまでにわかったことなどを紹介して、ネット社会における「評判」の機能を考察しています。
・最後の部分(第5章)では、これをふまえ、最初の部分で確認したこれまでの山岸さんの社会心理学的知見が、どのように再評価されるかを検討しています。

個人主義的秩序と集団主義的秩序
 それで、最初の、山岸さんのご議論のおさらいの部分ですが、拙著『商人道ノスヽメ』で紹介し、おおいに依拠させていただいている通りの次のようなお話です。
・人間の秩序には、集団主義的秩序と個人主義的秩序がある。
・集団主義的秩序の中では、裏切ったら「村八分」などの制裁があるので、安心して他者とつきあえるが、集団の外は危険とみなして避けておくことになる。また、自分は集団を裏切らないと周囲にアピールするために気を遣うことが重要になる。しかし、集団主義的秩序では集団の外にある有利な取引を逃す機会費用がかかる。
・個人主義的秩序では、その機会費用はかからないが、その代わり、司法制度などのコストがかかる。また、人間一般を信頼したうえで、例外的な悪意の人を見抜く社会的知性が必要になる。みんながそのように信頼性を見極めあっているので、各自は誰にでも公平で誠実な振る舞いに努めることになる。

二種類の倫理──「武士道」と「商人道」
 ここに、ジェイコブズ『市場の倫理統治の倫理』や拙著を引いて、二種類の倫理の説明が入ります。集団主義的秩序の中では、集団内部に対しては自分の利益を抑えて利他的に尽くす忠誠心が求められますが、集団の外に対する利他は求められません。拙著に言う「武士道」です。それに対して、個人主義的秩序の中では、誰にでもわけへだてない普遍的行動基準が、身内集団びいきよりも優先します。正直な取引で自己利益を求めることは、他人の役にも立つ倫理的なことだとみなされます。拙著に言う「商人道」です。
 拙著でも紹介しましたが、この本でも、日本人の人間一般に対する信頼感は、アメリカ人のそれを大幅に下回っているという山岸さんの研究成果が披露されています。そして、現代日本のいわゆる「倫理観の崩壊」なるものは、利己主義の蔓延ととらえるべきでなく、「武士道」型倫理を裏付けていた集団主義的秩序が維持できなくなったせいであって、この場合必要なのは自己利益を悪とみなさない「商人道」型倫理の確立である。倫理教育の徹底などという方策は、「五〇年後の日本に、ほとんど回復不可能なダメージを与えることになってしまうだろう」と言っています。全く拙著の見立てと同じですね。

ネットオークション実験で見る評判の機能
 さてここで問題が浮かびます。集団主義的秩序の中では、他人を裏切る行動をとった者は仲間の間で知れ渡り、効果的に排除されることになります。ここでは「評判」の役割は明白です。しかし、匿名の個人主義的秩序──今私たちが直面しつつある市場社会もそう──では、公的な司法制度など以外に、自然発生的な評判によって人々の行動を規制する機能は働かないのでしょうか。他人に信頼されるように公正に振る舞うというところには、何らかの評判の機能が働いているように思えるのですが。
 そこでこの本では、究極の開放個人主義社会とも言えるインターネットの世界において、評判がどのように秩序維持機能を果たすのかを検討しています。
 ボクもどこかで目にしたことがあるのですが、ネットオークションなどの世界では、「悪いことをした」というネガティブ評判はあまり機能しないが、「良い取引相手である」というポジティブ評判が、効果的に機能するのだと言います。第3章では、そのことをネットオークション実験で確認した研究成果が紹介されています。
 それによれば、全く評判の働かない匿名の市場では、不正の蔓延を防ぐことができない。id名が固定されるケース──集団主義的秩序に相当──では、ネガティブ評判が秩序維持に効果的に役立つ。id名が変えられるケース──匿名の開放個人主義的秩序に相当──では、時間がたつにつれて、ネガティブ評判よりも、ポジティブ評判が、不正防止のために機能するようになる。……と言うものでした。
 この最後のケースでは、ネガティブ評判は、id名を変えるだけで、きれいに清算することができます。だから不正を防ぐためには役立ちません。ところが、ポジティブ評判は、取引を重ねることによって少しずつ高まっていく、一種の資産のようなものになるので、公正な取引に努めるインセンティブになるというわけです。

現実のネット設計での攻防
 しかし現実のネットの世界では、それだけでうまくいくわけではないということが、第4章で検討されています。まあそうでしょうね。池のつく師匠と同じ呼び方の人とか、ネガティブ評判がポジティブ評判の数倍はありそうですけど、それなりの信者がいるからポジティブ評判だけ数えて結構な数になる。
 実際には、小口の廉価良質品をたくさん売って評判を稼いでおいて、十分それが高まったところで、高額の詐欺をしかける手口があるそうです。また、評判が高いがゆえにますます人を呼んで評判が高くなる「カスケード現象」という問題もあるそうです。「はだかの王様」のメカニズムですね。
 こういった様々な問題に対して、またいろいろな対処法が考案されているようです。そんな中でも、この本では、評価者を評価する「メタレビュー」の重要性が指摘されています。例えばアマゾンのブックレビューで、「このレビューが役に立ちましたか」という問いへの回答数を表示しているあれなんかがそれです。役に立ったというのが多い人は、「ベストレビューアー」に選ばれる仕組みになっていて、レビューの信頼性を保証する機能になっています。
 もっとも、現実のアマゾンのこの仕組みはうまくいっているのかなあ。師匠と同じ呼び方の人の本とか五つ星いくつもついてるし。ボクの『商人道』本、出て間もなくベストレビューアーの人が非常に好意的な五つ星レビューをつけてくださったのですが、山形さんの罵倒が出たとたん、たぶん本を読みもしてない信者の人が何人もリンクで飛んできたのでしょう、「このレビューが役に立った」という比率が一気に下がったもので、じきレビュー自体が撤回されてしまった。まあレビューアーの評判を維持するためには当然の合理的行動ですね。レビューもメタレビューも、その本をそのネット書店で買った人だけができるようにした方がいいんじゃないかな。
 それか、レビューを書こうとしたら、まず、文体やテーマが類似した他の本の文章に当該の本の文章が一割ぐらい混ざったものがランダムに画面に現れてきて、それが当該の本の文章かどうかを20秒以内に答えるというのを、数十ページ分クリアしなければならないようにするとか(笑)。

日本人の他者信頼がアジアでも低いという調査と実験
 さて、最後の章では、これまで「個人主義的秩序のために必要な他者信頼と、それができるための社会的知性を持て」と、延々日本人に呼びかけてきた山岸さんでしたけれども、ネットはじめ現代のテクノロジーがあれば、今のままの日本人でも個人主義的秩序は可能かもしれないという話をされています。ここまでくると、いささかSF的で話についていけない感があるのですが。
 ただ、最終章で示されていた調査や実験結果はとても衝撃的で興味深かったです。これまで、日本人とアメリカ人で人間への信頼度を調査したら、アメリカ人の方が人間を信頼するという結果が出るということは聞いていました。しかしもっと多くの国々を対象とした、様々な国際調査結果でも、やはり共通して同じ傾向が観察されたのです。いやそれどころか、日本人の他者信頼は、アジア最低であり、「紛争の絶えないアフリカや東欧の国々並みに低くなっている」と言うのです!
 さらに目を引いたのが、中国人の他者信頼度がとても高く、スウェーデンとかカナダ並みということです。しかもこれは、アンケート調査だけから言えることではありません。実験でも言えたことなのです。

 それはざっとこんな実験です。ランダムにペアにした被験者Aと被験者Bがいます。Aは二人に確実な少額がもらえる選択肢か、Bが分配する金額がもらえる選択肢かどちらかを選びます。Bは十分大きな一定の金額をAとの間で分配する額を自分の好きに決めます。Aが確実な少額をもらう選択肢を選べば、このBの決定は無意味になり、Aの決定が優先されます。
 このとき、もしAの決定のあと、それを受けてBが決定するという順番だったらどうなるか。実験すると、日本人は中国人に比べて、AがBの分配に任せる選択をする率が有意に低かったそうです。つまり日本人のAは、Bが公平に分けてくれることを信頼しないということです。
 ところが、Aの決定を知らされずにBが独立に決定する場合(しかもBがAの決定を知らずに決定するということをAが最初から承知している場合)はどうなるか。日本人と中国人の差はなくなります。しかも興味深いことに、中国人のAがBの分配に任せる率は、前の実験より低下するのに、日本人のAがBの分配に任せる率は、前の実験より高いのです!
 この本では、このような結果になる原因を次のように見ています。後の実験と違い、前の実験の場合、Aは、Bの分配に任せる選択肢を選ぶことにより、Bに「あなたを信頼している」というメッセージを送ることになります。中国人のAは、そうすることが、Bの好意的なお返しにつながることを期待します。それに対して、日本人のAは、そうすることでBに「こいつはお人好しだからつけこんでやろう」と思われるのを恐れるというわけです。
 アメリカ人で同様な実験をしたら、中国人と同じになるそうです。しかし、中国社会はアメリカ社会のような開放社会ではなくて、日本社会同様の固定的関係を重視する社会ではなかったか……このような疑問に対して、山岸さんは、次のような推測をしています。中国での固定的関係は、同じ固定的関係でも、日本とは違って集団ではなくて、個人対個人のコネ関係である。このコネ関係形成のためには、「あなたを信頼していますよ」というメッセージが重要なのだ、と。

時代が下るほど他者信頼は高まっている
 ところで山岸さんは、この最後の章に載っている調査結果などを見て、かなり日本人の人間信頼感を変えることについて悲観的になり、そこで現代テクノロジーに期待するSFっぽい話になってしまったわけですが、ボクは逆に希望を見いだしたところがあります。
 というのは、そこにはとても多くのデータが載っているのですが、日本人の人間信頼の度合いは、70年代より80年代、80年代より90年代と、ほぼ確実に増えているからです。マスコミや保守オヤジは、時代が下れば下るほど、社会の信頼感が失われてきたかのように言いはやしますが、実は違う。集団主義的システムが後退して、個人主義的システムに取り替えられるにつれて、信頼感もやはりそれに伴う変化をしてきたのだということです。データでは近年その動きが停滞しているように見えますが、たぶんそれは単に景気のせいだと思います。

グライフのモデルでのジェノバ型均衡
 なお、この本の趣旨には何も影響しない些末なことなのですが…。
 この本では、拙著でも取り上げた、グライフさんの「マグリブ商人」と「ジェノバ商人」の話が出てきます。昔の遠隔地貿易では、現地代理人がネコババするリスクをどうするかが大問題でしたけど、中世地中海貿易で栄えたマグリブ商人は、一回雇い主を裏切った代理人は、どの商人からも雇われないという慣行を作ることで、そのリスクを抑えたそうです。ところがこの方法をとったら、取引は固定的な商人・代理人のグループの中で閉じてしまいます。それに対して、後から現れたジェノバ商人は、コストをかけて法律や裁判所を整備することで代理人の裏切りを防ぐ方法をとったために、新しい取引相手や代理人を開拓して市場を広げていくことができ、とうとうマグリブ商人を駆逐して地中海貿易を制覇したそうです。
 これがこの本での説明ですが、実はグライフさんは、ジェノバ商人は司法を整備してネコババに対処したと言葉では言っているのですが、研究のメイン部分であるゲーム理論を使った数理モデル分析では、司法を整備する話は出てきません。この数理モデルには、「ナッシュ均衡」と呼ばれるつじつまの取れた秩序が、二種類でてきて、その一方は「マグリブ型」戦略をとるものですが、もう一方の「ジェノバ型」とされる均衡での戦略は、代理人の雇い賃を高めにすることです。クビになったときにすぐ再雇用先が見つかるわけではないならば、雇い賃が十分高ければ、それをふいにしてまでネコババするインセンティブがなくなるからです。高い雇い賃を払うことが、ジェノバ商人にとってはネコババを防ぐためのコストになっているわけです。


【石黒真吾さんの「契約構造の変化と経済発展」論文】
 ところで、司法制度の整備が均衡解として発生することを数理モデルで取り上げたのが、このほど出た日本経済学会の『現代経済学の潮流2009』に載っている、大阪大学の石黒真吾さんの「契約構造の変化と経済発展:動学的一般均衡アプローチ」です(同書第3章、93ページから)。
現代経済学の潮流2009
amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン
 まあ、とはいえ、司法制度の整備に相当するのは、ただ単に、1単位の返済を貸し手に約束するのにλ−1単位の投資を必要とし、λは政府支出Gの減少関数であるというアドホックな仮定にすぎないのですけど。この投資をする均衡が「明示的な契約を書き、裁判所によって履行してもらう」タイプの取引ガバナンスとされています。裁判所やらなんやらの形成をどうやってモデル化するのかと期待した人はごめんなさい。
 しかしこんなこと書いてあるサマリーを読んだら、興味がわくわくわきませんか。

 本論文の目的は、異なる契約の履行形態や組織構造が経済発展のプロセスにおいて内生的に生じてくる様相を動学的一般均衡モデルの枠組みで考察することにある。とくに、第三者機関による契約執行を伴わない「関係依存的ガバナンス」の仕組みから、明示的契約に準拠する市場型システムへの移行過程を動学的に分析し、経済発展の初期段階においては「関係依存型システム」が中心的な役割を担う一方で、資本蓄積の拡大に伴って「市場型システム」が社会に浸透していく発展経路を明らかにする。

 「関係依存型」から「市場型」への移行……なんて『商人道』本・山岸本的テイスト! しかも、結論はモロ「唯物史観」だし(笑)。
 一応モデルの要点を説明します。専門用語になじみがなければ飛ばして読んで下さい。
・人口一定の二期間重複世代モデルである。最大化目的は、自分と子供の老年期になされる最終財消費の割引和。
・家計は最終財部門で雇用されて働く労働者と、独立小生産者の中間財生産者からなる。
・最終財と労働の市場は完全競争。中間財は独占的競争で生産される。
・中間財生産のためには最終財の投資が必要。これは、労働者が賃金の中から出資する資金供給によってファイナンスされる。
・労働者は若年期に働いて賃金を得て、老年期に消費する。中間財生産者は若年期に投資して、老年期に所得を得て消費する。
・取引費用を減らすための政府支出は、労働者の賃金への一定率の課税で得られたものがそっくりまわる。

 話のキモは、労働者が中間財生産者に投資資金を貸す時に、ちゃんと返してくれる保証がないことです。このモデルでは、各中間財生産は一子相伝の家系に万世一系に伝えられることになっていて、ひとつの均衡は、特定労働者家系と特定中間財生産者家系が結びついて、子々孫々貸借と返済を続けるというものになります。ある条件のもとでは、一旦こういう関係に入ると、貸し手も借り手もここから逸脱することが損になるのです。これを「関係的取引」と呼び、上述の「取引費用」λをかけなくていいのがメリットとされています。他方、貸し手と借り手が、取引費用をかけて、開放的市場で貸借する均衡を「市場取引」と呼んでいます。
 そうすると、社会全体に資本蓄積がまだ十分なされていないときには、市場取引は損をするので発生しません。「関係的取引」だけが存続し得ます。ところがそのもとで社会全体の資本蓄積が進んでいくと、どこかで市場取引でもうけが出せるようになり、これまで生産しなかった中間財生産者が生産に乗り出します。そうすると、中間財の種類が増えて生産が増え、ますます資本蓄積が進むとともに、賃金が上がるので税収が増えて、それがまわることで取引コストが低下します。かくして、ますます市場取引がひきあうようになるというわけです。
 この論文のメインのモデルでは、関係的取引をするペアは未来永劫変わらず、ただそれ以外の中間財生産者が、途中でいきなり生産に乗り出して市場取引をするようになるだけなのですが、最後の方で、ある割合のペアが市場取引発生時点の直前で関係を解消する均衡についても検討し、資本蓄積の進行によって、関係的取引をする割合が減少する可能性について言及されています。ボクはこれはとてもおもしろい結論だと思います。しかし、実はまだよく理解できていなくて、将来世代で関係が解消されると予想したら、後ろ向きにゲームを解いたら、結局最初から関係的取引をしないということにならないだろうかという気がします。たぶんボクが何か勘違いしているだけなのでしょうけど。


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