02年8月12日 「構造改革」の長期的帰結
はじめに:
小泉「構造改革」には最初から反対だったけど、「不況にする」と言って選挙に臨んだ正直な姿勢はほめていい。
「不況にする」と公約して本当に公約通り不況にしたのだから、自民党に投票した人達にとっては、文句のつけようはあるまい。テレビでどこかの中小企業の経営者が、「全然景気がよくならないのは改革が進んでないせいだ。期待外れだ」などと言っていたが、もちろん改革が進めばこそ不況になったのである。こういうのを見ると、こんな勘違いオヤジが市場から一掃されるまで、是非構造改革を断行してもらいたいものだという気にさえなってくる。
構造改革は確かに必要。でも…:
もちろん私も、長期的に、供給構造の改革が必要なことくらいわかっている。
需要不足で不況だと言ってもそれはあくまで「短期」の次元。「長期」では、人や機械や土地や技術等の生産資源がどんな産業部門にどれだけ配分されているかが重要になる。
これからは日本も超高齢社会を迎えるのだから、人も機械も土地も、いろいろなものをもっともっと福祉部門に振り向けなければならない。だけど少子化で生産年齢人口が減ってしまう。だから、規制緩和などによって、生産性の低い部門で無駄に使われている労働や土地を吐き出し、不良債権処理によって、担保などで塩漬けになっている土地や建物も吐き出して、これから必要になる福祉部門に向けなければならない。IT革命で旧来部門をさらに効率化して、余った人を福祉にまわすことも必要になる。日本が得意な産業に生産資源を振り向けて、見返りに今まで自給していた物を輸入することによっても、新たに余分な労働や土地を作り出すことができる。
確かにこれはその通りだ。
しかし、こうした話は、経済を大きな目で見たとてもおおざっぱな論理次元で成り立つ議論である。これをストレートに政策として実施したとき、果たして期待通りにいくかどうかはよく吟味してみないといけない。
「短期」は「長期」の帰結に影響しないのか:
現在の経済論壇では、構造改革賛成派も、それに反対する景気重視派も、共に一つの認識を共有しているようである。「構造改革は長期的にはいずれ必要な産業構造転換をもたらし、潜在成長率を上昇させる。しかし短期的には不況を深化させる。」という認識である。ではどこに対立点があるかというと、この短期的な不況が、どれほど長引くのか、どれほど深刻化するかをめぐって論争しているわけである。この試練を乗り越えたあとの未来像は共通していると言って良い。
経済学の専門用語で言うとこういうことだ。構造改革の結果、新古典派的完全雇用均衡経路は新しいものに変わる。たしかに改革によって差し当たりはその均衡からズレたところから出発するので、ケインズ的不況経路に長いことはまり込んでしまうかもしれない。あるいはやがて首尾よく完全雇用均衡に向けて動いていくかもしれない。それは意見が対立しているのだけれども、新古典派的完全雇用均衡経路自体は唯一だと考えられているのである。
だが果たしてそうだろうか。
新古典派的均衡からズレたときにどんな経路をたどったか。その歴史が、新古典派的均衡そのものを変えてしまうということはないのか。
高齢社会の「良い未来像」「悪い未来像」:
高齢化時代にふさわしい産業と一口に言っても、いろいろなものがある。福祉だけではない。温泉リゾートのような新しいレジャー産業も拡大するだろう。福祉といってもいろいろあって、いたれりつくせりの高級お屋敷老人ホームもできるだろう。問題はこうした部門がどのような比率になるかだ。
高齢者にとって必要なのはまず一般的な福祉サービスである。所得が低くともある程度はそれを需要せざるを得ない。だが、その必要性は所得が上がるとやがてすぐに満たされ、需要は頭打ちになる。代わって、所得が低い間は需要がなく、所得が上がっていくとどこかの時点でどんどんと需要が伸びるのが、温泉リゾートや高級老人ホームなどのサービスである。
もし高齢者達の間の所得分配が平等ならば、人々は平等に福祉需要を満たし、余った所得で温泉リゾートなどを需要するだろう。したがって一般福祉中心の資源配分がなされるだろう。これは「良い未来像」と言える。
しかしもし高齢者達の間の所得分配が片寄っていて、一部の富者と多数の貧者に分かれていたらどうなるだろうか。多くの人々は一般福祉サービスを不十分にしか受けることができないのに、一部の富者も決してその所得に比例してたくさんの福祉サービスを需要するわけではない。それは頭打ちになる。代わって、温泉リゾートや高級老人ホームなどをたくさん需要することになる。
したがってこの場合、社会全体では一般福祉に対する需要は比較的少なく、温泉リゾートや高級老人ホームなどに比較的多くの生産資源が配分されることになる。これは「悪い未来像」と言える。
重要なのは、部門間資源配分の新古典派的均衡というのは、このように、人々の平等・不平等の具合によって、様々なバリエーションがあるということである。
改革の「痛み」がもたらすもの:
さて、温泉リゾートや高級老人ホームは、労働に比べて、土地や建物や設備をたくさん使う。それに対して、一般的な福祉部門は極めて労働集約的である。
もし、温泉リゾートや高級老人ホームが世の中にたくさん必要とされて、一般的な福祉部門が比較的需要が少なければどうなるか。比較的に見て、労働よりもむしろ土地や資本に対する需要が高くなる。そうすると、比較的に見て、地代や利子などの財産所得が、賃金所得と比べて高くなる。
すると何が言えるか。
これまで長年「低生産性部門」とされる職場で働いてきた人々が、急に福祉部門に移れるわけではない。不良債権処理で整理される企業の労働者も、IT効率化でリストラされてクビになる人々も、輸入品との競合によって不要にされる人々も、みなそうである。
構造改革によって失業者がたくさん出たとしよう。彼らは十分な資産形成ができないまま高齢者になる。だから再就職して長い間わずかな賃金所得で生活を補うかもしれない。一方で構造改革の結果「勝ち組」に入った人々は、十分な資産を持って高齢者になる。このような格差のために、一般福祉よりもむしろ温泉リゾートや高級老人ホームなどへの資源配分が比較的多い均衡が実現する。
ということは、財産所得が賃金所得に比べて相対的に高くなるということである。よって資産をたくさん持つ富者の所得はますます多く、資産を持たない貧者の所得はますます少なくなる。かくして当初の所得格差は拡大される。よって、一般福祉部門の比率はますます小さく、温泉リゾートや高級老人ホームなどの比率はますます大きくなる。その結果財産所得の賃金所得に比べた比率はますます高まり、以下このプロセスが続く。
しかも、世代が交代すると、現役時代の労働所得の、親からもらう財産から得る所得に比べた比率が低くなっていくので、生涯所得に対する遺産の影響がますます増加していく。よって、資産格差が世代を経るごとに拡大し、均衡的部門配分の偏りも拡大していく。
つまり、改革の「痛み」である不況の状態がどのようなものであるかは、それを乗り越えた後の均衡経路の状態を変えてしまうのである。
今の話は「高齢化」に焦点をあてたものだったが、現実には、さらに歪んだ均衡、例えば改革の一部の現役「勝ち組」を専らの対象とする奢侈部門が比較的大きな割合を占める均衡がもたらされるかもしれない。