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 02年9月8日 瀋陽事件の結末は右派のヤブヘビ


現代右翼の基本主張は「移民排撃」
 フランスの大統領選挙でルペンが決選投票にまで進出したように、今ヨーロッパでは極右勢力の嵐が吹き荒れている。言うまでもなくその本質はグローバル化への反発にある。グローバル化によって民族の独自性や国の自立性が失われていくことに危機感を覚え、自民族の文化・価値観の純粋さを守ろうとしているわけである。したがって「移民排撃」こそゆるがせにできないその基本主張である。
 90年代に台頭した日本の国粋主義も、同じ根を持つ勢力である。9.11テロへの共感を隠さない小林よしのりなどはその典型であろう。

難民阻止は日本の隠れた国家意思だった
 ところがヨーロッパの極右勢力にとっては、日本はある意味で理想の国として語られてきた。すなわち、従来の厳格な移民阻止政策が評価されているわけだ。
 公然と制限を掲げる通常の移民と異なり、政治難民を受け入れることは表向きは条約上の義務である。しかし現実には、難民もまたできるかぎり受け入れないというのが、これまでの日本の隠れた国家意思だったと言えよう。一人難民を受け入れると、家族、親族一同、知人、その親族とどんどんと亡命対象者が拡大し、事実上まとまった数の移民受け入れにつながる。したがって、この隠れた国家意思は、右派的価値観に立つ限り、当然の判断だったと言えよう。
 瀋陽事件を通じて明らかになったのは、まさにこの隠れた国家意思が、在外外交官全体に貫いていたということだった。亡命者は追い返しなさいというわけだ。実際、別の国の例でも、大使館への亡命打診に対して日本は難民を受け入れないなる虚偽の回答をしたケースがあるらしい。

亡命者受け入れの基本態度の確定
 ところが瀋陽事件をきっかけに領事館側のこうした態度が次々と明るみにでていった結果、激しい世論の批判が起こり、今後は断固として亡命者を受け入れることということが明確な国家意思として確定する結末となった。
 我々左翼にとってはまことにめでたい結末である。
 だがこの結末を導くにあたっては、我々左派勢力というよりは、むしろ右派勢力の側からの政府批判の貢献の方が大きかった気がする。
 瀋陽事件が起こった直後、「2ちゃんねる」に跋扈する右翼どもは、さぞかし「亡命者は追い返せ」といった書込みをしていることだろうと思ってのぞいてみたら、「中国けしからん、領事館けしからん」という書き込みばかりだったので、私は「こいつらも時にはまともなことを言う」とその時は思ったものだ。
 実際はどうもあまりものを考えないまま、中国側に協力する領事館員の態度に屈辱を感じて反発していただけらしい。中国側警官の領事館敷地内侵入が、領事館サイドの容認ないし要請のもと行われたことがバレて、国家主権侵害論が論拠として使えなくなっても、なおも勢いで「中国けしからん、領事館けしからん」と叫び続けていたものだから、「今後は何があっても亡命者を受け入れること」という結末になったのは当然である。
 こっちからすれば「しめしめ」だが、俺が右翼なら怒りまくっているぞ。右派にとって最も大事な原則、領事館不可侵などよりもずっと大事な原則を崩す穴があいたのだから。

右派がバカなのは喜ぶべきことか
 では右派側がこんなに愚かなことは、我々左翼勢力にとっては「しめしめ」と喜ぶべきことなのか。
 いや、その点に関しては、我が陣営も、常々敵側に輪をかけた水準にある。
 それに、我々が彼らにとって主要な対抗勢力ででもあるのならばそう喜んでいてもいいだろう。しかし、現実には我々は歯牙にもかけられない勢力にすぎない。むしろ敵にとっての主敵はもっと別にある。そして敵の敵は味方とは言えないのだ。バカの巻き添えくってこっちの頭上にも原爆が落ちてきたらかなわない。
 今回はたまたま望ましい結末になったが、目先の屈辱感などに短絡的に反応する思考様式が蔓延することはやはり望ましいことではない。
 
 
 
 


 

 

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