03年8月20日 冷戦後日本政治を図表で解く
はじめに:
政局の焦点は、自民党総裁選と民主・自由合併に移り、ただでさえぐちゃぐちゃになっていた冷戦後日本政治の連携・対抗関係図式が、ますます混迷を極めるみたいに見える。いったいどのような切り口で見たら、これらの動きがすっきり説明できるのだろうか。
混迷の原因は、一見55年体制の対決軸が崩壊したように見えながら、実はそうではなくて、旧来の対決図式が頑固に残り、それに基づく限り政策矛盾が起こってしまうことにある。政策整合的な対決軸が出来ていたならばただの綱引きですんだところが、それができていないために、旧来の対決軸の枠内で離合集散しながら政策調整が行われなければならないことが問題なのである。
保守政界の政策表:
次の表を見ていただきたい。
政治・安保観
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親米ハト派自由主義
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タカ派ナショナリズム
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経済政策
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グローバリズム
「小さな政府」 |
A
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B
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日本型経済残せ
「大きな政府」 |
C
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D
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従来の保守政界は、BかCかというところに対決軸があった。現在、Bには小沢自由党や小泉指導部が属する。Cはいわゆる保守本流で、野中広務を典型とする自民党主流派がこれである。
しかし、これらの立場はいずれも政策矛盾を起こすようになっている。小さな政府路線で規制緩和はじめ市場自由化を進め、アメリカ主導のグローバル市場への一体化を進めると、国民経済の自立や国家の独自性はどんどんと失われていく。雇用の流動化やIT革命の推進、新しい消費の開拓は確実に日本の伝統的価値観を突き崩していく。これがいやならば国家権力で市場を押さえ込まなければならない。
したがって政策整合性があるのはAかDかという対決軸である。
Aにあてはまるのは、旧さきがけや加藤紘一がいたが、いずれも現在つぶれていて、まとまった勢力はない。Dは西部邁や小林よしのりを極とするが、石原慎太郎が最も有力なくらいで、やはりまとまった勢力にはなっていない。保守系各党の中に近い傾向の政治家は数多くいるが。
しかし、現代資本主義経済が必要としている政治はAにほかならない。そして、保守世界の中でそれに対抗しようとしたら、Dによるほかない。だから本来ならばAとDとの間で綱引きしながら、Aに向けて進んでいくというのが現代資本主義経済の流れにそった方向なのだが、AとDにまとまった勢力がなくて、主要な勢力がBとCであるがために、現代経済はその課題を果たすためにBとCを「利用」するほかなく、そのために実にもってまわった混乱が必要だったわけである。
BC連携によるA路線とその息切れ(細川内閣):
55年体制崩壊をもたらした最初の非自民内閣、細川内閣は、Bの小沢派、C方向の社会党を両翼とする諸派の連合により、全体としてAに重心がくるようにできていた。Aそのものをかかげたグループは、さきがけなど少数勢力だったが、諸勢力の引き合いの中でこの路線が実現したのである。規制緩和とグローバル化を推進する「新前川リポート」の策定や、アジア諸国での日本資本の活動をやりやすくするための「侵略の反省」などがこの路線にあたる。
しかし、そこまでが限界だった。規制緩和にはC方向の社会党などは不満だし、侵略の反省にはBの小沢派は不満である。Aプロパーの勢力が少ない以上、やがてこの路線が行き詰まってBとCに分かれるのは当然だった。
B路線vsC路線(新進党対村山内閣):
羽田政権を経て、自民・社会・さきがけ連立の村山内閣と小沢ら新進党との対抗図式ができあがったのは、BとCがそれぞれ旧保革図式を越えて総勢力を結集したものにほかならない。その中で自社さ内閣は総選挙を切り抜けて残り、結局新進党は瓦解する結末になった。すなわち、C路線が続いたのである。これは、現代資本主義の土台が本来望むA路線の上部構造のうち、経済自由化の進展についてはとりあえず一服感があり、政治・社会の自由化の方が当面の課題となっていたからだろう。
しかし、やがて経済改革はまったなしになってしまう。社民党は連立離脱する。橋本内閣による、規制緩和委員会設置・規制緩和推進計画策定、一連の緊縮財政政策の実施など、A路線への転換が始まる。橋本自身はCの人なのだが、状況に強いられてA路線を進めたのである。その結果、大不況を招き、自民党は参議院選挙に敗北する。
BC連携によるD路線の反撃(小渕自自公内閣):
そうすると、A路線の失敗への反動として、当然D路線がとられることになる。AとDにそれぞれ主要な勢力があるならば、A政党政権が敗北してD政党政権に移るというそれだけである。しかし現実にはAにもDにも主要勢力がないのだから、自民党政権が続きながら、諸勢力の組み合わせで政策の大転換がなされるほかはない。かつてBの小沢派とC方向の社会党の連携の重心としてA路線の細川内閣がもたらされたように、今度はBの小沢派とCの自民党主流派の連携の重心としてD路線がもたらされることになったのである。
宮沢赤字財政政策は典型的な「大きな政府」路線であった。政治政策としては、周辺事態法、在外邦人救出のために自衛隊を派遣できる法律、国旗・国歌法など、戦後のいかなる保守政権もなし得なかった右傾化が実現された。
しかしやがて財政赤字は先進国最悪の水準に膨らみ、経済構造の改革もまったなしの状態に追い込まれる。資本主義は再び「小さな政府」路線への転換を求めて反撃にでるに至った。それが、Bの小沢自由党による連立離脱にほかならない。その後の森政権は置いていかれたD路線だった。当人の資質はどうであれ、もともと崩壊は必然だった。
再びB路線vsC路線(小泉内閣対抵抗勢力):
かくして、再びBとCが分かれ、対抗する図式ができることになる。それがBの小泉内閣と、Cのいわゆる「抵抗勢力」との対抗関係であった。
かつて自社さ連立対新進党のときには、Bの新進党が崩壊してCの連立内閣が勝ったが、それは本来Aを望む現代資本主義が当時、政治・社会の変革を経済の変革よりも優先したためであった。今度は逆に、Cの有力役者である田中真紀子、辻本、大橋が、Aの加藤も含め、次々と舞台を去り、Bの小泉の一人勝ちになっている。これは、今度は政治・社会の自由化には一服感があり、経済改革こそが緊急の課題となっているからだろう。
しかしブッシュ政権自体がアメリカと世界の資本主義経済にとって死荷重となりつつある現在、小泉政権のタカ派姿勢は次第に経済にとって障害になってくるのではないだろうか。中東でスムーズにビジネスするためには、イラクに兵隊を送るよりもカネで復興支援した方がいいに決まっている。
民由合併と総裁選の動き:
さて、以上細川内閣以来の動きは、上の表を左回りに、BC連携によるA、BC対立の中のC、BC連携によるD、BC対立の中のBと巡ってきたのであるが、そうすると次は、再びBC連携によるAになるのだろうか。そう考えると、小沢自由党と民主党との合併や総裁選をめぐる自民党主流派の動きも、意味を持って見えてくる。しかしいずれにせよ、政策整合的な勢力分布がないかぎり、これからも余計なエネルギーを費やし続けることになるだろう。結局今までの動きも、AとDに主要勢力があったならば、AとDで引っ張りあってだんだんAに進んできたというにすぎなかったはずである。
革新勢力も含めると:
ところで以上の話は、主に保守勢力内部での関係を整理したものである。革新側も考慮に入れるときには、もうひとつ、保革の軸も必要になる。だから、下の図のような三次元の図が必要になる。
そうすると、既存の主要政治勢力は、原点と、タカ派市場派の端点と、保革軸の革新側の端点との三点を結ぶ三角形の平面の上に、すべて位置することになる。こう見てみると、かつての自社連立はそれほど奇異な野合ではなかったことがわかるし、小沢自由党と民主党の合併もおかしくないことがわかる。
そしてこの三角形の平面がいまや政策整合的でなくなり、整合的な政策パッケージであるAとDは、この三角形で隔てられた前上と後下に存することになる。
それは革新側にとっても言えることである。弱者配慮やヒューマニズムの価値観と国家主導経済とはもはや相容れない。複雑化した現代社会においては、一人一人の多様性を重視して弱者庶民に福祉を実現することは、役所の官僚機構をもってしては不可能である。もし国家主導経済モデルを維持するならば、その恩恵にあずかる人々は一律の国民類型にあてはまる者だけに限られ、それからはずれる人々は切り捨てざるを得なくなる。一人一人の多様性を重視するならば、国家主導モデルは放棄し、NPOやNGO、協同組合などの自由な活動に依拠せざるを得ない。
よって革新側にとっても、政策整合的な政策パッケージの存在領域は三角形で隔てられた二空間上に存する。ひとつは三角形の前上、社共民主党のあたりの上方の空間に、NPO・NGO・協同組合自由主義派として存在するだろうし、もうひとつは三角形の後側にあり、石原慎太郎らのナショナリストに近付いていくだろう。