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 03年10月1日 「してよい」と自由権の本質的違い


 「〜してよい。」という命題と、「〜する権利がある。」という命題とは本質的に違うと思う。

 「〜してよい。」という命題は、すなわち、「『〜をしてはならない』ことはない。」という命題である。規範命題の真偽命題による否定であり、単に禁止された状態が存在していないことを表す。
 すなわち、一見規範命題(ゾレン)のように見えるけど、本質的に真偽命題(ザイン)である。

 しかし、「〜する権利がある。」という命題は、すなわち、「『〜をしてはならない』としてはならない」という命題である。規範命題の規範命題による否定である。「侵害の禁止義務」なのである。
 すなわち、一見真偽命題(ザイン)のような形式をしているが、その実態は規範命題(ゾレン)である。

 保守オヤジばかりでなく、社会主義者の一部までもが、自由を本質的価値とすることは相互侵害を生むなどと言っていることは、全く自由権への無理解だと思う。
 自由権というものが自由侵害の禁止義務という意味ならば、その義務は第一義的にはすべての個人の義務である。

 この禁止義務がとりわけ公権力に向けたものとして理解されるのは、公権力がこの禁止義務を個々人に守らせるための強制力としてのみ正当化されるもので、そうした「手段」が逆に「目的」をふみにじる不合理が起こらないようにするためなのであって、公権力だけにとっての義務の意味と理解してはならない。
 


 

 

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