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 03年10月6日 競争概念に二種類あり


 先日、本学経済学部の編入学試験が行われ、「小論文」で、次のような問題が出た。
 
 

次のA、Bの文章を読んで、以下の問に答えなさい。


 戦後の日本社会はこれまで、激烈な競争社会であった。たしかに戦争で荒廃しきった我が国が、国土も狭く資源も持たない中で欧米に追い付くためには、この競争社会は非常に有効だっただろう。こうして激しい競争の中でがむしゃらに働くことによって、我が国は高度成長をとげ、経済大国を築き上げることに成功した。
 しかし、この過程で私達が失ってしまったものも多かったのではないだろうか。人と人との助け合い関係、豊かな自然、心のゆとり…。お互いの激しい競争の中で、このような本当に人間にとって大事なものが壊されてしまった。
 欧米に経済で追い付いてしまい、もうこれ以上経済成長する必要がなくなった今、私達はこうした失われたものを取り戻すために、これまでの競争社会のあり方を考え直し、もっとのんびりとゆとりのある社会を目指さなければならない。それが真の豊かさというものだろう。


 戦後の日本社会はこれまで、あまりにも競争が押さえられていた。たしかに戦争で荒廃しきった我が国が、国土も狭く資源も持たない中で欧米に追い付くためには、集団の団結を重視する考え方は有効だったかもしれない。そこでは、お手本となる欧米を目指して一丸となって進めばよかったからである。こうして我が国は高度成長をとげ、経済大国を築き上げることに成功した。
 しかし、欧米に経済で追い付いてしまい、高度経済成長が終わった今、これまでのやり方では通用しない時代がやってきた。規制で守られて競争がないぬるま湯の体質が続いてきたからこそ、無責任で野放図な拡張路線経営や、系列企業どうしの甘えあいが起こり、近年の大企業・銀行の大量破綻につながっているのである。また、創意工夫が押さえられ、企業は世の中の変化のスピードについていけなくなってしまっている。規制で競争が押さえられているから、新規事業も起きにくく、いつまでたっても失業者が減らない原因になっている。  
 いまこそ規制緩和を進め、団結より競争を重視する社会に転換することにより、個人個人のがんばりや創意工夫が報われる世の中にしなければならない。
 

問1 A、Bの両方の論旨にそれぞれそって、各200字以内で議論を続けなさい。その際、下記の語群の語すべてを、A、Bのどちらか片方で必ず使って下さい。
 過労死、年功序列賃金、護送船団方式、受験競争、大店法

問2 600字以内で、A、Bを評論して自分の考えを述べなさい。
 

 一番よく出来ていた答案は、予想通りの内容で「競争がないのもいけないが、過度なのもいけない。適度な競争が必要」というやつ。スジはよく通った文章で試験の答案としてはよい。文句なし。 あとは、なんだかよくわからない文章ばかりだったが、ひとつ「今まで競争が激烈だったというのも、押さえられていたというのも、両方正しい。矛盾していない」というのがあって、「オッ」と思ったけど、そのあと展開しないまま時間切れで終わっていた。

 しかし本当を言えば、「適度な競争を」というのは答になっていないんだよね。どんなのが「適度」なのか判断基準を示さないと。いったい今までの日本は競争が過度だったのか適度だったのか少なかったのか。

 みなさんはどう思われますか。

 私は競争概念に二種類あると思う。マル経の用語では「部門内競争」と「部門間競争」の対概念に相当するのだが、もう少し幅の広いことをイメージしている。
 ひとつは、伊藤元重氏が『市場の法則』という本で、「ランクオーダー・トーナメント」と呼んでいる競争。「部門内競争」はこれなのだが、出世競争も受験競争もそう。つまり、方向が一方向に決まっていて、ただ一つの基準で勝ち負けがはっきり決まる競争である。
 日本語では「競争」も「競走」も発音が同じ「きょうそう」だからなのか、日本では、競争に「競走」のイメージが強い。これは「ランクオーダー・トーナメント」の発想である。
 もうひとつは、「部門間競争」がそのひとつである競争。伊藤さんが『市場の法則』で「競争はランクオーダー・トーナメントだけではない」と一生懸命言っているのだが、じゃあそれは何かを一言でズバり説明しているわけではない。なかなかそれをズバり表現するのは難しいのだが、移動や新規創意の競争とでも言おうか。
 日本語で「競争」と言うとどうしても勝ち負けがある意味にしかとれないのだが、明治時代に「競争」という言葉があてられた原語competitionにはもともと必ずしもそんな意味ばかりがあるわけではない。もうからない部門や場所から撤退して、もうかる部門や場所に自由に移動したり、新製品を開発したり、新規事業を起こしたり、そういうことも「競争」と呼ばれるのである。
 そして、頭のいい本来のブルジョワ経済学者が「競争」「競争」と言って奉っているのは、だいたいはこっちの意味の競争である。「競争」「競争」と言って奉りながら、実は「ランクオーダー・トーナメント」ばかりを指している者がいたら、そいつはブルジョワ経済学者としてはあまり優秀ではないと見て間違いない。

 実は、後者の移動・新規創意の競争が成り立つためには、前者のランクオーダー・トーナメントの競争が必要である。私はそれを肯定しているわけではないが、資本主義の現実はそうである。つまり、ランクオーダー・トーナメントで敗者になって、自分がこの部門・場所に向かないということや、いままでのやり方ではダメだということを悟る結果になって、はじめて、別の部門、別の場所に移ろうとか、今までにない新しいやり方を打ち出そうとかということになるのである。その結果、新しい部門、新しい場所、新しいやり方で、成功をおさめたならば、もはや敗者ではない。
 たとえあらゆる面で優れた人と劣った人がいたとしても、すぐれた人も自分であらゆることをやるわけにはいかない。その中でも特に優れたことだけをやるのが効率的だからだ。だからその人よりもあらゆる面で劣った人がたとえいたとしても、何か必ず人の役に立つことが残っているはずである(資本主義の現実ではそううまくはいかないかもしれないが…)
 だから、ランクオーダー・トーナメントの結果勝者と敗者がでても、それが移動・新規創意の競争を十分うながしたならば、結局敗者は出ない。みなが勝者になると言うことがあり得るのである(しつこいようだが資本主義の現実ではそううまくはいかないかもしれないが…)

 しかし、(資本主義のもとで)ランクオーダー・トーナメントがなければ移動・新規創意の競争がないということは言えても、その逆は言えない。つまり、移動・新規創意の競争がなければランクオーダー・トーナメントがない、なんてことは言えない。移動・新規創意の競争が全くなくても、ランクオーダー・トーナメントはいくらでも成り立つ
 いやむしろ移動・新規創意の競争がなかったならば、ランクオーダー・トーナメントの競争はますます激しくなる。一旦敗者になったら逃げ先がない。今競争させられているその一通りのやり方だけでずっと競争し続けなければならないのだから、もうがむしゃらにやるしかない。

 もう言わんとすることはおわかりだろう。
 戦後の日本は、ランクオーダー・トーナメントという意味での競争はあったが、移動・新規創意の競争は押さえられていたのである。だからこそ、ランクオーダー・トーナメントの競争は極めて激烈だった。
 しかしブルジョワ経済学者の目から見て、資源配分の効率性をゆがめているのは、移動・新規創意の競争の無さである。それが長い目で見た日本経済の停滞をもたらしている主因であるというわけだ。彼らが「もっともっと競争を」と言っているのはこういう意味である。
 ブルジョワ経済学者としては三流以下の者が、その尻馬にのって、ランクオーダー・トーナメントをより一層激烈化するよう提唱しているのである。
 


 

 

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