松尾匡のページ

 04年1月4日 年頭言 戦後民主主義は最終防衛線


 戦争に負けてよかった。ソ連圏に入らなくてよかった。

 この二点で同意するすべての者は結集すべき時である。
 一方で保守勢力の背後にアナクロ反動派を見て恐怖し、他方で革新勢力の背後に東側少数独裁体制を見ておののいて、同じ志向を持つ者どうしが敵味方に分かれて争っていた時代は終わりにすべきだ。
 社会主義など望外のぜいたく。福祉も労働保護も今は棚上げしていい。
 さんざんぶざまな敗走を重ねてきた我々にとっては、今や、戦後民主主義をこそ最終防衛線とすべき年である。

 国粋主義的潮流を指して、こんな時代錯誤が力を持つことはあるまいとたかをくくっている者は夢を見ている。石原慎太郎が暴言を重ねながら高支持率で首都の知事を続けている事実を直視すべきだ。問題意識と正義感を持った学生が、続々と小林よしのり信者になっている事実を直視すべきだ。

 大正時代から昭和の初めにかけて、都市文明がどんなに爛熟していたことか。どんなに利己主義がはびこっていたことか。猟奇的な事件がどんなに頻発していたことか。当時の状況を知れば知るほど、この同じ人々が、自らすすんで特攻をかけ、バンザイ突撃をし、敵に助けられる前に自爆したり絶壁から飛び下りたりするようになることが信じられなくなる。
 しかし、これが同じ人間の行動だったのだということを忘れてはならない。

 このような狂信的自己犠牲をいとわなかった軍国日本人が、シベリアに抑留されるとコロっとスターリンを礼讃したのだ。ソ連はこの「洗脳」の成功に味をしめ、ドイツ人やイタリア人の捕虜でも同じことを試みたのだが、全く成功しなかったという。
 そしてマッカーサーが厚木に降り立ってから横浜に向かう沿道で、三万名の日本兵が直立不動で肅然と護衛し、あまつさえ道筋で土下座して迎える者までいた。
 そして多くの軍幹部が、戦後のどさくさで軍の物資を横流しし、それを元手に実業家として財を成していった。
 全部同じ日本人だったのである。

 今我々はどれくらいこの時代から変わっていると言うのか。
 特攻や自決をした日本人も、シベリアでスターリン礼讃した日本人も、決して面従腹背でやっていたわけではない。本気だったのである。スターリン礼讃していた者が、故郷に帰ってしばらくすると、たちまち元に戻るのも本気だったのである。まわりの人目にどのように映るかが命よりも大事なだけである。だからまわりが軍国主義なら懸命に軍国主義者になり、まわりがスターリン礼讃なら懸命にスターリンを礼讃する。
 それゆえ戦後も企業戦士が陸続と生まれ、連合赤軍だのオウムだの、集団のために自分も他人も犠牲にして恥じない人々が絶えないのだ。
 そして人目に見られていないというとき、彼らはゴリゴリの利己主義を追求できるのである。

 今の若者が利己的な腰抜けだと思って安心している者は夢を見ている。集団の単位が二、三人の仲間集団になっているだけで、内部の人目ばかり気にして集団の外への配慮は何もないという構造は全く同じである。彼らが仲間の非行について口を割らないために、別に脅されているわけでもないのに、どんなにがんばるか。「もうやめよう」と言ったら仲間から弱腰に見られてかっこ悪いと互いに思って、とうとう他人をリンチ死させてしまう事件が今でもよく起こるではないか。

 だから革命家気取りの戦後民主主義批判はもうたくさんだ。我々はそんなことが言えるほどの者なのか。
 個人の尊厳と自立、自由、民主主義、人権…どんなに手あかにまみれて見えようが、我々にはこれらがまだ真に実現すべき課題である。
 これを欧米原理の押し付けと言わば言え。そのように言う者が、これらの原理を欧米社会自身が侵犯してきた事実を言いたてるとき、そのことは、これらの原理が欧米地域を離れた人類普遍の課題であることを証明しているだけである。

 それゆえ、戦争に負けてよかった、ソ連圏に入らないでよかったと思うすべての者は、日本の草の根を今覆う地響きに聞き耳を立てよ。国粋主義運動、歴史の改ざん、ジェンダーフリーへの攻撃、性教育への攻撃、人権教育への攻撃…。自民党は憲法も教育基本法も変えると明言しているのだ。
 今攻撃にさらされているのは戦後民主主義そのものである。これを突破されると後はないのだ。

 

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