松尾匡のページ

 04年6月21日 太田猛さん追悼


 昔神戸にいた時にお世話になった太田猛元兵庫県議会議員が、5月31日に亡くなった。82歳だった。

 私が神戸にいたころは、ちょうど兵庫県の社会党の左右両派の対立が抜き差しならなくなったころで、右派県本部が大会会場に機動隊を導入して反対派を排除する事件が起きたりする最中に、私は左派の牙城扱いされた灘総支部での党活動に巻き込まれる事になった。そんな中で太田さんは、党内対立の激化に心を痛めつつも、ご自身社会主義協会派でもなく、明確な社会主義イデオロギーを信奉されているわけでもないのだが、ただ筋の通らない事は許されないという良識にしたがって行動されているうちに、総支部の人々の精神的支柱となっていった。町中の市民の方々からその人格によって慕われる太田さんが応援してくださったおかげで、総支部は多くの市民の信頼を得て、不当な攻撃に耐え抜くことができた。
 太田さんは、いつまでも労働者としての真っ当な実感を失わず、いつもイデオロギーや学説によってではなく、その労働者の真っ当な実感に基づいて判断された。そしてそれは、僭越ながら、私の目から見ていつも正しいものだった。いつだって戦争を憎み、差別や不正を許さず、必ず一番弱い者の立場に立とうとされた。太田さんは、ご自身が音頭をとって設立して幹部の座にあるはずの医療生協の診療所にかかるときにも、決して順番の優先の申し出を受け入れることはなかった。
 当時若かった私は、「この世で恐いものは置塩師匠だけ、尊敬する人は太田さんだけ」と豪語していた。その後、歳を重ねていくごとに、恐いものは(カミさんはじめ)山のように増えていって、毎日右顧左眄ばかりしているただの日和見おじさんになってしまったが、尊敬できる人の方は、太田さんほどの人にはその後めったににお目にかかれていない。
 その師匠も逝き、太田さんも逝ってしまった。戦争の惨禍を語ることのできる人が一人また一人といなくなり、私をはじめ、比べようもない小者ばかりが残されていく。こんなご時勢の中で…。

 師匠や太田さんだけではなく、このところなんだかひんぱんにあの世代の方々の訃報を聞く。歴史学の網野善彦氏も、「がんばろう」の歌を作った森田ヤエ子さんも…。この国が再びじりじりところげ落ちていっているのを全力で止めていたつっかえ棒が、ボキリ、ボキリと折れていき、なんだかとてもじゃないが手にあまる重さのものが、古木まかせだった我が頭上にいよいよおおいかぶさろうとしているように感じる。
 

7月15日追記:青年時代から師匠の親友にしてライバルであった森嶋通夫氏まで亡くなった。7月13日。80歳だった。森嶋氏もまた、自らの戦争体験から、この愚行をくり返さないためにと、日本社会の根底にある構造的問題を問い続けてきた人であった。あぁ・・・。
 


 
 

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