04年8月27日 今日は、久留米藩宝暦大一揆第一次弾圧250年忌
ちょうど250年前の3月、久留米藩が極度の財政難の中、領民に過酷な人頭税(八歳以上全員への人別銀)を課したことに反発し、日本史上有数の全藩的大一揆が発生した。藩の農民人口約14万人中、4万8000人という説も10万人以上という説もある農民が参加した大規模なものである。その勢いの前に藩士達は総崩れし、3月末に人頭税の全面撤回が約束された。
ところが農閑期が終わり一揆がおさまると、藩は約束を反故にして炎天の旧暦6月から各地の一揆リーダー層の検挙に乗り出し、7月には300人が牢中に満ちた。そして8月27日、第一次の処刑が行われる。死罪18名を含む149名にのぼる大弾圧であった。首謀者は見せしめとしてさらし首にされた。
第二次処刑は、10月27日、19名が死刑になった。その年、久留米藩は一揆への報復として過去最高の年貢を取り立てた。
詳しくは、シニアネットのサイトの中の「宝暦一揆」のページ
あるいは、こちらも参照のこと。
私は、領主を滅ぼした一向一揆の地に生まれ、さらに今この偉大な闘いの歴史があるまちに生きていることを誇りに思う。
しかし今の久留米の人達の多くはこんな事件があったことを全然知らないのではないか。私が生まれた石川県も、久留米に負けず劣らず保守的なところだが、一向一揆の勝利五百周年のときから、鳥越村では毎年行列をしたてて観光名物にしている。それくらいしたたかになってもいいのではないか。
個人的には、宝暦大一揆のときの、商品作物や加工品の流通自由化要求が、初期の藩側の敗北局面の中にあっても、厳しく拒否されていることが興味深い。全く官僚と言うのは昔から…という感じである。このような要求がでるということは、それだけ農民社会の中に商品生産が浸透していたということだろう。目先の利益に捕われずにこれを自由化していたならば、藩経済はどれほど発展していただろうかと思う。おそらく久留米市民の気質もずいぶんちがっていたのではないか。