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 04年9月9日 羽入−折原論争を読んだ


 羽入辰郎という人が『マックス・ウェーバーの犯罪』(bk1amazonYahoo!)という刺激的なタイトルの著書を出してデビューしたのを受けて、ベテランのウェーバリアンの折原浩が『ウェーバー学のすすめ』(bk1amazonYahoo!)という批判本を出した。北大の橋本努氏は、羽生−折原論争のホームページまで作っていて、この論争への参加者達の論評を掲載している。

 まあ、私などは、ウェーバーについては大塚訳の『プロ倫』を岩波文庫でざっと通読しただけで、あとは山之内靖や佐久間孝正の解説を読んでいるだけのド素人なので、両著とも野次馬的に「へぇー、へぇー」と言いながらずいぶん楽しませてもらった。
 羽入が言っていることは、「犯罪」とか「詐欺師」とかの挑発用のレトリックを全部除いて簡単に言えば、「『プロ倫』でウェーバーは、ルターが本当はBeruffと訳してない語を、ルターの原文にあたらずに普及版聖書だけ見てBeruffと訳したとして論じている。また、ウェーバーのフランクリン像にあわないフランクリンの叙述を、強引に原意と違えて解釈したり、意図的に引用しなかったりしている」ということである。
 これは、文献学的事実の指摘としては、周到緻密な一つの業績なのだと思う。もっとも、マルクスなんか扱っている身としては、この程度で「犯罪者」扱いかよという感じだ。なにしろマルクスなど、論敵の論旨を強引にねじ曲げる不当なわら人形攻撃は毎度の手口。どうでもいい表現に過剰な政治的意味をかぎとっていちいち噛み付くし、明らかに他人からヒントをもらった議論でも名前をあげないし、こんな人間にだけはなりたくないといつも思う。人格的欠陥を笑い飛ばしながらその思想の側で研究対象にしているのは私だけではあるまい。
 で、この羽入本への折原の反論は、要するにそれがどうしたということだ。ルターは『プロ倫』全体の文脈からすると些末な論点なので、いちいち原文にあたるほどの研究エネルギーをかけるまでもなかっただけの話。フランクリンについても、フランクリン研究をしているわけではないのだから、全体としてウェーバーのフランクリン像がおおむねあてはまっていればいい。それから一見ズレていそうな細かな叙述については、触れて釈明してもいいけど、いちいちそんなことしてたら論旨が不明瞭になるだけだから、とりあえずは捨象してわかりやすいところだけとってきただけの話。こういうわけだ。
 ともかく、これで双方とも高度な文献研究をくり出し、ずいぶん学問の発展には寄与したのではないか。

 で、ド素人の感想なのですけど。
 羽入は自分のした批判によって『プロ倫』の重要な論理展開が崩れたと言っている。折原はそんなことはあるもんかと言う。
 たしかに羽入が描くような、自分の着想の奇抜さに溺れて論文を書くウェーバーはあまりに戯画的だ。いくらなんでもウェーバーがそんな軽々しい問題意識じゃないだろうと言うことになれば、羽入の指摘は『プロ倫』全体にとってたいしたことはないように思われる。
 だが羽入がこだわるのは、例えばどうもウェーバーはあとからルター原文でBeruffとはなってないことに気付いて予防線を張って誤魔化そうとしたふしがあるという点である。たいしたことのない論点ならばズバり正直に言えばいい。フランクリンについても注釈なりなんなりで釈明すればいいじゃないか。なぜしないのか。実はよほど論理展開全体にとって致命的なのだろう、と言うわけである。
 私もたしかに、「犯罪」とまでは言わなくても、かなり強引に自分の論理に資料の側をあてはめようとしているとは感じている。こんな強引な展開をしなければならない事情はたしかにあったのではないかと思う。
 いったいそれはどういう事情だろうか。

 誰が言ったのか忘れたけど、ウェーバーみたいな右翼が左翼にもてはやされる日本はどうかしているという内容の文章を読んだことがある。
 実際そう思う。もともと宗教が経済を作ったという『プロ倫』テーゼが、マルクスの唯物史観をものすごく意識して、それと反対のことを主張したものであることは言うまでもない。
 しかも、山之内靖の解説の受け売りなのだが、ウェーバーは『プロ倫』で「プロテスタンティズムの精神は良い」と言いたかったわけでは決してない。問題意識は逆なのである。現世の坊主ばかりでなく、自分の肉親へのこだわりすら捨てて、ひたすら神の栄光をたたえるために生きるというプロテスタントのあくなき普遍志向が、消費生活を忘れた自己目的的な貨幣蓄蔵、自己の生活や本来の有用性を忘れた自己目的的な職業埋没につながった。要するに、具体的な人間を離れて、いかなる人為も効かない物象が一人歩きしていくという、近代の恐るべき病理がもたらされたと言うわけである。つまり、ウェーバー特有の価値自由論の制約をはずして本音を言えば、「近代の諸悪の根源はプロテスタンティズムにあり」と言うことこそが『プロ倫』の問題意識なのだろう。
 たしかに、この、人間個々人を離れた物象の一人歩きということについては、マルクスもまた強烈な批判的認識を持っている。まさにマルクスの資本主義批判のモチーフそのものと言ってよい。しかし、マルクスの場合は、この物象の一人歩きを、人間諸個人みんなの合意のもとにコントロールすることで解消しようとした。つまり近代のもたらした成果の先にそれを乗り越える道を展望したと言える。
 だがウェーバーの展望した解決は違った。マルクスほどには近代の成果について楽観的になれなかった。彼の展望はむしろ後ろ向きの解決だった。
 つまり、かつてのカリスマの人為が効いた時代への逆戻りである。『プロ倫』の最後では「新たな預言者達」という言葉で、そのことへの期待がほのめかされている。そしてそれがついに「人民大統領制」の提唱へとつながるのである。国民投票で選ばれた大統領に、人民大衆が人格的に服従する社会。血肉の通った人間であるカリスマ大統領が、恣意的でエコひいきもおきかねない反面、人間的融通も効く強腕で、血の通わない物象の一人歩きをおさえつけるというわけである。モムゼンという人がこれを指してナチズムの萌芽とみなしたそうだが、全くその通りと思う。このような近代以前の原理への回顧に基づく近代批判は、まさに右翼と言うほかはない。

 羽入の批判を受けたウェーバーの論理展開は、このような右翼反マルクス主義者ウェーバーの問題意識にとって重要だったのだとしたらどうだろうか。
 たしかに『プロ倫』の論理展開は、折原の見方にしたがって、ルターへの言及なしで、カルビンから始まっても成り立つように見える。しかし、そのようなウェーバーは唯物史観ともなんとか両立可能な範囲内にある。それに対して、カリスマ宗教家がたまたま選んだ一言の訳語によって、やがて宗教史が自己展開し、その結果として資本主義経済世界が作られたなどということになったならば、それはマルキストにとっては大ごとである。
 フランクリンについてもそうである。最初は宗教的啓示から始まったのに、やがてはそれが勝手に自己展開して宗教的意味を失い、宗教的でもなければ功利主義的でもない、ただただ貨幣を増やすことを道徳的正義と心得るグロテスクな人間を生み出したのだとしたら、プロテスタンティズムの恐ろしさにも迫力が出てくるというものだ。

 さてそうだとするとおもしろいことになる。
 羽入のこの本は、日本の筋金入りの右派論客達が選考委員を務める山本七平賞を受賞し、羽入は右翼雑誌『Voice』で谷沢永一と対談したりなんかしているのだが、いったい右派論客達が羽入を持ち上げるのはどういうわけかということになる。
 推測するに、日本の右翼的心情の人々は、『プロ倫』から「プロテスタント諸国の資本主義はまっとうな資本主義、日本の資本主義は二流の資本主義」という含意を引き出し、西欧コンプレックスにまみれた民族主義心情をえらく刺激されてきたのではないだろうか。そしてその『プロ倫』をやっつけてくれたということで喝采して、羽入を持ち上げているのではないだろうか。
 だとしたらお門違いもはなはだしいということになる。
 「プロテスタント諸国の資本主義はまっとうな資本主義、日本の資本主義は二流の資本主義」というウェーバー像は、大塚久雄をはじめとする日本の左翼ウェーバリアンのウェーバー像であって、ウェーバー自身ではない。ウェーバー自身の問題意識からすれば、「プロテスタンティズムの精神に毒されていない日本の資本主義は西欧よりもまっとうだ」などということになるかもしれない。
 しかし羽入の文献的指摘によって傷付くのは、まさにこの右翼反西欧近代のウェーバーなのである。日本の左翼ウェーバリアンのウェーバーは、これによってはいささかも傷付かない。羽入が書いている通り、大塚はウェーバーが引用しなかったフランクリンの文章を見つけて、こんないい文章がある、なんで引用しなかったのだと言っているくらいである。かえって羽入によって強化されるくらいなのだ。
 それゆえ山本七平賞選考委員の紳士諸氏は、七平先生の遺志をひきつぐならば、羽入から山本七平賞を剥奪すべきである。
 
 


 
 

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