松尾匡のページ

 04年11月1日 春のバッシングを振り返って


 イラクで人質にされた人が残酷な殺され方をするのは、どこの国の人であれ気が滅入るが、今回の犠牲者は実家が同じ県ということもあってとりわけ報道が濃く、関係者の悲しみが伝わって心が痛む。テロリストにも戦争屋にも、それに加担してきた政府にも、改めて怒りがわく。

 それにしても、あいかわらず犠牲者へのひどい悪口はあるにはあるが、春のケースのときの国中何かに取り付かれたようなバッシングの嵐と比べて、今回は政府与党も保守系マスコミもネット右翼も、もともと比較的おとなしかったような印象がある。2ちゃんねるを見ても、まじめな追悼スレが立っていたり、なんだか英雄視までしていたり、報復戦争だといきまいていたり、
ずいぶんおやさしいじゃないかネットウヨ!!
という感じである。
 本当にみんなが春のケースのときの異常さを反省しているならいい。人の命が実際になくなった衝撃もあるのだろう。

 しかしそれだけじゃないような気がする。
 そもそも相手が誰であれ被害者バッシングなどしてはならないことだし、ましてや死者をむち打つつもりは全くない。しかし春のケースは、たとえて言えば、プロのスタントマンとその見習いが失敗して事故にあったようなものである。技術の未熟さを責められこそすれ、そのようなことをやったこと自体を責めるのは筋違いである。それに対して今回のケースは全くのド素人がスタントマンのまねをして事故にあったようなものであって、この場合はそのようなことをやったこと自体を責められてもしかたがない。しかしどうもこの国の保守的心情の人々にはこれが逆に感じられるらしい。
 つまり、NGOや批判的ジャーナリストという種族自体に対する偏見とか敵愾心があるのだろう。その上に、おカミに逆らった者への反感とか、自分にできないような立派なことをやった人へのやっかみとかがあって、春のあの狂態になったのだろう。発展段階論と言われようが近代主義と言われようが、日本の市民社会の未熟さのあらわれと表現するしかない。
 以前もリンクしたこのページで、春にはどんなひどいことが言われていたか少し残っている。永遠に歴史に残して後世の人々の軽蔑を受け続けるべきだ。
http://www.houjin-ombudsman.org/iraq/main.html

 高遠さんはその後アンマンで、ときおりおこる心因性ジンマシンと闘いながら、バクダッドのストリートチルドレンの自立支援活動を後方支援してきたが、最近この活動が実を結びはじめ、少年達がシンナーやドラッグを捨てて理髪師や大工などの訓練にとりくんでいるらしい。
 ネット右翼の間では「プロ市民」という言葉があり、これはどうも人を罵倒する悪口のようだ。春の人質事件のときにも人質バッシングでさんざん使われた。だが「プロ市民」たちのネットワークによってこそ、このような成果があげられたということは否定できない。春の人質事件は「プロ市民」として未熟だったことが責められるべきであって、「プロ市民」になったことが責められるべきなのではない。

 純粋で何の計算もない青年が無惨に殺されたことは本当にかわいそうだ。涙が出る。しかし、岸田秀が日本人の吉田松陰好きをあきれて評しているように、無心の純粋さをもちあげる傾向が、特攻や玉砕につながっていったのである。保守派の人達の中での、春のケースと今回のケースとの扱いの差に、やはりそのような傾向が残っているのを感じ取ってしまうのはうがちすぎなのだろうか。
 
 


 

 

「最近感じること」目次へ

ホームページへもどる