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 05年1月25日 左翼による個人主義批判は争点間違い


 最近、イラク戦争以降の反米的時流のせいだろうか、左翼世界の中で反個人主義的な言説が流行りだしているように感じる。そのことが、ただでさえ憂鬱なご時勢をますます憂鬱にしている。

 同じ反福祉主義の主張でも、アメリカ型保守の発想と日本型保守の発想とは違うのだが、みなさんどれほどそのことを認識しておられるだろうか。
 アメリカ型保守の発想は、「大草原の小さな家」である。未墾地を自分の力で耕し、自分の労働で収穫を得た。だからこれはオレのもの。どう使おうがオレの自由だから口出し無用。税金なんて出さないよ。たしかに個人主義なのだ。
 しかし日本型保守の発想は違う。福祉に金を出したくありませんという結論は同じなのだが、発想は正反対とも言える。つまり、「共同体のために貢献した者だけが報酬を受けることができる」という集団主義の発想なのである。だから、アメリカ型保守にとって労働不能者はただの落伍者にすぎないのだが、日本型保守にとっては、国家共同体に迷惑をかけている恥ずかしい二級市民だという発想になる。
 保守派自身の中でも頭のいい人はこの違いに気がついているはずだと思うけど。どうだろうか。一般的には、日本型保守のこういう反福祉主義の発想は、せいぜい飲み屋でオヤジがクダをまくレベルで言語化されているにすぎず、ちょっと智恵をつけた保守派知識人は、たいていアメリカの受け売りをして個人主義思想として理論武装する。だから左翼の中にはめくじら立てて個人主義攻撃する共同体主義者が現れるのだが、はたしてそれが福祉擁護につながるだろうか。

 我々疎外論者が出発点におく個人は、サルのころから共通に持つ個体としての個人である。腕を針で刺したら苦痛を避けて思わずひっこめる個人である。厳然としてここにあり誰も否定することができない生身の個人である。これを「大草原の小さな家」モデルの想定する個人と混同してもらっては、半分迷惑である。アメリカ保守流個人の主体は、自分の身体をも手段にできる「理性」であり、だからこそ格差を理性の強弱として個人の責任にできる。ヒトがヒトとしてここに生きているという、それだけ根拠で、個人に絶対の尊厳を認める…そのレベルまで個人主義が高まってこそ、福祉が根拠づけられるのである。
 それに対して、共同体主義的発想は、人間というものは共同体の価値観や道徳に内面が縛られて生きているものだということを出発点にする。それは、共同体の価値観や道徳を内面化していない人、縛られていない人に直面した時に、それを人間にあらざる者と扱って排除することに簡単に通じる。一見共同体のメンバーへの配慮を規範化して福祉を正当化するように見えながら、実は福祉の対象者を共同体にぶらさがる寄生者として差別する論理を内包している。
 だから、共同体のメンバーとしての資格でもって二級市民として生き長らえさせる、そんな共同体主義の福祉よりは、「大草原の小さな家」の個人主義の方が百万倍もすばらしいのだ。実際、経済や技術の環境条件によっては、生身の生物学的個人から出発する疎外論的個人主義にとっても、「大草原の小さな家」型個人主義のつくり出した「人権」「契約」などの様々な道具立ては、個人を守り、社会を深刻な紛争なく成り立たせるために有用である。

 我々は今、政治闘争の主戦場がどこにあるのか、ちゃんと見極めた方がいい。
 戦争責任問題にせよ、男女平等政策の問題にせよ、内部告発制度の問題も、もともとはみな、少子化の中で企業活動のグローバルな展開で国際競争に勝ち抜くために、財界とエリート官僚がデザインしたものである。彼らはアメリカ型個人主義の発想で制度を作り、『日本経済新聞』でキャンペーンをはり、地方行政におろしていく。その際、左翼知識人が推進役として動員され、人権論による理論武装がなされる。
 おおかたの保守大衆と保守政治家はここまでの間は頭がついていかないために、体制側エリートに言われた通りに「はいはい」と容認している。ところがこれが末端の教育現場などで実地に移されてくると、旧来の集団主義的な価値観との矛盾が感覚レベルで感じられるようになる。そこで反動が始まる。まず地方議会で攻撃が始まり、保守政治家が動きだす。2ちゃんねらーも動き出す。やがてマスコミが同調する。
 そうしたら、最初に言い出したエリートはたいてい逃げて黙んまりを決めるようになり、動員された左翼知識人だけが残されて孤軍奮闘するはめに陥る。もともとブルジョワというものは事業を続けていかなければならない。強い者にまかれる日和見主義は性分である。だが怒り高まる左翼側には、「アメリカ=財界=保守反動勢力」の陰謀同盟という勘違いした解釈が進行していくのである。
 こんな勘違い解釈をしたら見えなくなるのだが、この血へどをはくような深刻な闘争の本当の争点は、集団主義文化を守るのか個人主義文化を根付かせるのかということにある。敵を間違えてはいけない。「大草原の小さな家」派も同盟者と心得るべき重大事態なのである。「エリート逃げるな。『日経』逃げるな。」という批判ならいいが、わざわざこんな強者を相手側に追いやる愚行はさけるべきである。

 1970年代までは、経済学の世界でも、「方法論的個人主義」は右派、「方法論的全体主義」は左派という図式があった。今でもこの図式がしっかりと頭に残り、全然抜け切れていない人が左翼世界にもなんと多いことか。1970年代レベルの新古典派経済学ならば、冷戦下にあって資本主義擁護論に利用されたことも理解できる。個人の選択から議論を積み上げて、調和的均衡として資本主義を描き出す。そこに「うまくいかないのは個人の選択のせい」という解釈を読み込んでしまう。対する左派は、うまくいかないのは個人のせいではなくて社会の仕組みのせいということをいいたいがためには、方法論的全体主義を取らなければならないという事情があった。
 しかしそのような解釈はただのイデオロギー的読み込みであった。その後、今日のレベルの方法論的個人主義による経済学は、個人の選択の合成結果が個人を拘束してしまう事態を分析できるようになっているし、社会を変えればもっとうまくいくという事態を分析することもできるようになっている。
 それに対して、日本の侵略を開き直り男女平等を嫌悪する今日の右派こそ、個人がむき出しの個人ではなく、あらかじめ社会の拘束を受けてこそ存在できるものだということを、本当にいやというほど強調する。自称左翼の反個人主義者は満足かい。彼らの発想はどう考えても新古典派とは相容れない、「方法論的全体主義」の発想である。方法論的個人主義に立つ新古典派ならば、同性愛も代理母出産も個人の選択として受け入れなければ筋が通らない。「方法論的個人主義」は右派、「方法論的全体主義」は左派などという図式はすっかり時代遅れになっており、むしろあべこべになっているということを、みんなもっとよく認識すべきである。
 1970年代左翼のおじさんたちが、80年代、90年代を通じて「方法論的個人主義」の悪口を言い続けてきた、それをまともに受け止めて育った若者が、いまたくさん真正右翼になっている。この事態を少し深刻に受け止めていただきたいものだ。
 
   

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