07年2月19日 山形・池田「生産性論争」への今頃のコメント
経済学の世界ではクルーグマンの翻訳で知られる山形浩生さんが、ご自身のブログ「経済のトリセツ」で2月11日に展開した議論
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070211
に対して、翌日、上武大学大学院客員教授の池田信夫先生が、ご自身のブログ「池田信夫blog」で批判を行った。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/cd4e52fd7cca96ac71d0841c5da0cb75
で、そのあと数日ブログで反論の応酬が続き、池田先生のブログに一日百件ものコメントが寄せられたり、これを題材にしたウェブ記事が次々立ったりと、ブログ界が大変盛り上がったようだ。
しかしこれは、山形さんが言いたい本筋とは関係のない部分での超アバウトな表現に、池田さんが噛み付いたという感じですね。
山形さんが本当に言いたかったことは、
「ある産業での国際的な所得格差は、その産業の国際的な生産性格差に起因するものではない」ということだと思われる。これを述べるのにいちいち厳密な数理モデルを立ててもいいが、そんなエネルギーをかけるまでもない。こういうことを考えるには、一番初歩的なド本質モデルとして、生産要素が労働だけで、付加価値が全部労働所得になる想定をするのが定石である。そのほうが、何が結論に効いているのかが初心者にもはっきりしてわかりやすいからである。
とりあえず、まずリカードの比較生産費流の二国二財取り引きの想定をおこう。
日本とベトナムの二国がある。ベトナムでは、一人一日で、スーツなら2着、携帯電話なら1台生産できるとしよう。それに対して、日本では、一人一日で、スーツなら千着、携帯電話なら2千台生産できるとしよう。いずれの財についても、日本の方が生産性が高い。しかし、比較生産費説が示す通り、このような場合にも、ベトナムはスーツ、日本は携帯電話に特化して、貿易を行ったほうが、両国共にトクになる。そこで、「スーツ1着=携帯電話1台」の交換割合で貿易する国際分業がなされているとしよう。
ベトナムの人は、一人一日でスーツ2着を生産し、例えばそのうち1着を携帯電話1台に替えて、スーツ1着+携帯電話1台を入手する。日本の人は、一人一日で携帯電話2千台を生産し、例えばそのうち千台をスーツに替えて、スーツ千着+携帯電話千台を入手する。どちらが幸せかはわからないが、ともかく、両国の人の間で千倍の所得格差があることは明らかである。
「スーツ1着=携帯電話1台」の交換割合が成り立っているのだから、これにしたがって、全部スーツに換算して比較することもできるし、全部携帯電話に換算して比較することもできるのだが、いずれにしても、千倍の所得格差になっている。
ところが個々の産業の生産性を見ると、スーツの生産性格差は500倍、携帯電話の生産性格差は2千倍で、実際の所得格差はその中間になっている。
ここでさらに、非貿易財である「サービス」を考慮に入れることにしよう。
日本とベトナムで、サービスの生産性格差は全くないものとする。どちらも、一人一日で1単位のサービスを生産する。
しかし国内の産業間労働移動がある限り、競争の結果、単位労働当たりの所得はどの産業でも同じになる。したがって、ベトナムのサービス1単位はスーツ2着分にあたることになる。日本のサービス1単位は携帯電話2千台分。「スーツ1着=携帯電話1台」の交換割合が成り立っているのだから、スーツに換算すれば、2千着分である。かくして、サービス産業の人の所得格差も千倍になる。両国で生産性が変わらないのに。
対照のために、絶対生産費による貿易の例を見てみよう。
日本とオーストラリアがある。オーストラリアでは、労働1単位で肉牛2頭または自動車1台が生産できる。日本では、労働1単位で肉牛なら1頭、自動車なら2台が生産できる。ここでオーストラリアが肉牛に、日本が自動車に特化して、肉牛1頭=自動車1台で交換すれば、両国ともトクになる。そうすると、労働1単位の結果の所得は、「肉牛1頭=自動車1台」の交換割合のもとで、何で測っても両国間で同じになる。
ここで、サービスのような非貿易財を考慮に入れると、その生産性が両国で同じであろうとどんなに異なっていようと、そこにおける所得格差も両国間で存在しなくなることは明らかだろう。
山形さんが言っている話は、モデルにすれば以上で尽きている。
これは全く経済学的にまっとうな議論であり、この筋自体には異論を挟む余地はない。
それに対して池田さんは、「賃金は限界生産力で決まるのだ」と言って批判している。
それは全くその通りなのだけど、それがどう批判になっているのか、何が気に入らないのか、未だによくわからないでいる。ひょっとしたら、山形さんがさんざん強調している「賃金は社会の平均的な生産性で決まる」という言葉を、「賃金イコール社会の平均的な生産性」という命題と受け取ったのだろうか。まさかねとは思うが。
しかしまあ「社会の平均的な生産性」という言い方も、超アバウトでミスリーディングだからしょうがないか。
厳密にはどう言えばいいだろうか。「貿易財の平均的な生産性」だろうか。しかし、貿易財にもいろいろ種類があって、単位が違っていて足しあわすことができないから、これもよく考えればミスリーディングだな。
「諸貿易財の生産性格差の加重平均」とでも言えばアタリか。
それに「賃金は・・」というのもホントを言えば厳密でないんだよね。言いたいことは、「国際賃金格差は・・」ということだし、「賃金」というカテゴリー自体もこの論理次元ではホントは適切ではなくて、「所得」のほうがいい。
もっとも、一般の人が読んでイメージしやすいためには「賃金」と言って十分だし、だいたいが生産性が高ければ限界生産力も高く、生産性が低ければ限界生産力も低いので、厳密に労働市場を考慮に入れて「賃金」を表に出して考えても結論にさして違いが出そうにはない。そもそも、新古典派はじめ経済学の世界でおおまかなモデルを立てる時に普通に使われるコブ・ダグラス生産関数で考えれば、実質賃金率が限界生産力に等しい時には、実質賃金率は単位労働投入当たり平均生産性にきれいに比例する。それほど目くじらをたてる必要はないと思う。
それはともかく、山形さんの「賃金は社会の平均的な生産性で決まる」という言葉。揚げ足を取られないように厳密に言えば、「所得の国際的格差は、諸貿易財の生産性の国際的格差を、すべての貿易財について加重平均したものによって規定される」と言うことになる。あーしんど。
余計な一言かもしれないが、池田先生は別だと思うけど、世の中のゴリゴリの新古典派の人の中には、反新古典派の人と言えば「限界原理を使わない」とか、「流動性のわなとか言っているヤツは合理的期待動学的最適化モデルを使わない」とか、そういう1970年代あたりの古臭いイメージで敵を見ている人が今だに多いように思う。少なくとも若い世代の間では、このようなステレオタイプな色眼鏡で短絡的な反応をする人が広まらないようにしなければならないと思う。