松尾匡のページ

09年11月11日 商人まつり再燃か!



 我々やろーどもが長年何を言っても世間から見向きもされなかったリフレ論でしたが、勝間さんが立ち上がっただけで一挙注目。ああ女王様一生ついていきます。リフレ論争が盛り上がって、ネット上では「天王山」とか「関ヶ原」とか言われているときに、webちくまの連載の掲載がちょうど終わったのは残念ムネン。一応出版の予定はあるのですが、できたころには決戦も終わっちゃってるかも...。

 今日は、そんなマクロ論争を尻目に、ひっそりと「商人まつり」再燃かという話なのですが...。
 まず、最近ブログで『商人道ノスヽメ』をご紹介下さった記事への感謝から。
梶谷懐さんの記事。ラビア・カーディルさんの行動原理を説明する際に拙著名を記して下さいました。ラビアさんの自伝注文しました。是非読もうと思います。
福家金蔵さんの記事。詳しくご紹介下さいまして本当にありがとうございます。「商売人の子」として「感銘できる」、とおっしゃっていただけることが、一番心強くありがたく思います。

 さて、知人からの知らせで、荒井一博さんの近著『自由だけではなぜいけないのか──経済学を考え直す』(講談社選書メチエ)で、荒井さんの以前のご著書への『商人道ノスヽメ』での批判に対する、反批判をお書きいただいていることを、本日はじめて知りました。反応が遅れましてすみません。
 本来でしたら、拙著ご検討、ご批判いただき、ありがとうございますと申し上げるべきところですが、実はひとつ看過できない誤認がおありで当惑しております。私個人に対する批判はどのようなものでも基本的に歓迎したいと思っておるのですが、他人に対してご迷惑をおかけする事態になっており、荒井さんにも読者のみなさんにも、是非ご理解をいただきたいと思っております。
 拙著での荒井さんへの批判は、荒井さんによる山岸俊男さんへの批判についての批判です。これについて、荒井さんは、次のようにおっしゃっています。

 松尾氏は山岸氏が『商人道ノスヽメ』の原稿を読んだことを明記しているので、当該の問題に関心のある普通の読者であれば、この「反論」は山岸氏の指示または依頼によるものか、あるいは山岸・松尾両氏の合作である「可能性」に思い至るでしょう。少なくとも、山岸氏がその「反論」を同書に掲載することに反対しなかったことは確実です。また彼が私の批判(荒井、2001・2006)を読んでいることも確認されました。同書で引用されているからです。
 私が山岸氏の立場にあって、自分の著書に対する本格的・全面的な批判に対して他者が反論しようとしていることを知れば、それを阻止します。批判された本人の反論することが権利であり義務であると考えるからです。また、批判されている個人より先に率先して、また感情を込めて「反論」する人間も、まずいないのではないでしょうか(自分が批判されていないのに反論するという行為自体も奇妙です)。
 荒井(2006)でもふれましたが、安心社会論者のように日本文化を批判する人たちが日本社会で実際にどう生きているのかについて、私はかねてから関心を抱いてきました。右の記述や松尾(2009)の「はじめに」で漏らしている山岸・松尾両氏の互恵関係(裏事情)から、その関係は親分子分の関係のようで、彼らが著作のなかで蔑視する日本的人間関係そのものに近いと私には推察されます。(240ページ)

 私は山岸さんにまだお目にかかったこともないし、山岸さんは北海道大学の社会心理学者で、私は主に西日本で活動している理論経済学者で、学派的な共通性も、政治的な共通項も何もないのですが。
 まず、事実関係をご理解いただきたいのですが、『商人道』本の元になった2005年段階の最初の原稿では、荒井さんへの批判の部分(第1章の補論)は全く書いていませんでした。これは、2006年の年賀状代わりに、同稿を簡易印刷したものを広く知人にばらまいていますので、容易に証拠づけられます。
 どういう経緯かわからないのですが、その後山岸さんはこの原稿をどこかで(おそらく私の北大の知人から?)入手され、お誉めのメールを送って下さいました。それが、私にとって、山岸さんとの最初のコンタクトです。
 件の「補論」は、2007年夏締め切りの「河上肇賞」応募原稿段階で付け加えたものです。これは、山岸さんとは何の連絡もなく書いたもので、この段階での原稿は、2008年1月下旬の「河上肇賞奨励賞」受賞後一月余りほどして、はじめて山岸さんに送りました。この段階になって、山岸さんがこれを「阻止」することは、通常できないことだと思います。また、もし私の「引用」によって、山岸さんが荒井さんによる批判を知ったのだとしたら、それはこの時点以降ということになります。
 「はじめに」で山岸さんとの関係について書きましたのは、読んでいただければわかるとおり、山岸さんの2008年2月出版のご著書と『商人道』本の内容に類似点があるために、私が剽窃したものと読者から疑われることを恐れたからです。もし、「河上肇賞」応募原稿をあらかじめ山岸さんに見せていたならば、当然山岸さんは2008年のご著書でそのことを言及されるはず(仮に「親分子分関係」だったとしても!)で、このような説明も不要のところでした。この点からも、荒井さん批判の補論に山岸さんが関与されていないことはご理解いただけると思います。
 私が荒井さんの山岸批判を拙著で取り上げましたのは、拙著の議論がかなり山岸さんの調査・実験研究の成果に依拠していますので、それに対する有名な批判に言及しておくことは、読者も荒井さんご自身も期待するところだと考えたからです。
 そのことが、このような思わぬ形で山岸さんにご迷惑をかけてしまう事態になり、本当にもうしわけなく思っています。前回のエッセーなどで、山岸さんの新著を無邪気に誉めたりしたために、かえって荒井さんの疑いへの人々の同調を強めてしまっていたのではないかと思うと、心苦しくてなりません。

 以上のことを是非ご理解いただいた上で、荒井さんの反批判について、拙著の意図が読者に伝わらない表現をなさっているところがありますので、指摘しておきたいと思います。荒井さんは、次のように書いておられます。

彼(松尾)は「日本でアメリカ並みに組織の縛りがなくなったならば、アメリカをしのぐ他者不信社会がやってくるので、日本型雇用慣行などの従来の集団主義システムを崩すべきでないというのが荒井の持論である」という意味の指摘をしています。私はこのような主張をしたことがありません。/また「組織の縛りがなくなると日本は米国以上に深刻な状態になる」と私が主張していると松尾氏は指摘していますが、私はそのような表現(主張)もしていません。(241ページ)

 これは、おそらく拙著の61ページの次の文章を指しているものと思われます。

山岸のこの調査結果は、日本でアメリカ並みに組織の縛りがなくなったならば、アメリカをしのぐ他者不信社会がやってくるだろうという論拠に使える。そしてここからは、日本型雇用慣行などの従来の集団主義的システムを崩すべきでないという政策的含意が導かれる。これこそまさに荒井の持論にほかならない。

 意味のとりにくい表現をしてしまったのかもしれませんが、ここで「荒井の持論」と言っているのは、「日本型雇用慣行などの従来の集団主義的システムを崩すべきではない」という部分だけを指しているつもりです。山岸さんの調査結果は、この意味での荒井さんの持論をサポートするための論拠のひとつとして使えるのだから、受け入れればいいのにと言いたかったのです。「日本でアメリカ並みに組織の縛りがなくなったならば、アメリカをしのぐ他者不信社会がやってくるだろう」と、この時点でまだ荒井さんがおっしゃっていないことは承知しています。まあ、今度のご本を読んで、これを論拠として採用なさるつもりがないことはよくわかりましたが。
 いずれにせよ、荒井さんは「曲解」とおっしゃっていますが、曲解するつもりは何もなかったこということをご理解下さい。
 今度のご本で荒井さんは、「私(荒井さん)の批判の大部分を形成する理論的・論理的な議論について」私が反論していないとおっしゃっているのですが、基本的にはもともとそのつもりがなかったのです。ことこの補論の中の議論に関して言えば、集団主義的システムの是非自体を正面から論じてはいません。こちらとしては、本論で利用した山岸さんの調査・実験研究の成果が批判から守られればいいので、これらの成果が集団主義システムへの価値評価とは関係がない価値中立的なものであることを示すことができれば十分だったのです。だから、これらの成果は荒井さんの立場からも利用できるものであって、拒絶するのは筋違いですよということを示したかったわけです。拙著の「もったいないことをしている」とか「損をしてしまっている」とかの表現を、荒井さんは、「不要な表現」とおっしゃっていますが、だから決して「不要」ではない本質的な表現のつもりでした。
 読者のみなさんは是非現物をお手にとって確かめてみて下さい。荒井さんの反批判には、そのほか、拙論に対するそれこそ曲解やデフォルメのようなものも散見しますけど、それも両著読み比べていただければおわかりいただけると思います。


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