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 07年9月26日 『経済政策形成の研究』ご論評について


 えー、予定通り21日夜公開講義を終えて二等寝台で京都に行き、10時から座長と報告をやって夜帰宅。23日、24日は、大学でのまちづくりフェスティバルの裏方。大盛況のうちに終わりました。その後の懇親会で、学外の人達が三々五々帰って行かれたあと、中堅教員でお互い「いかに研究ができないか」という自慢で大盛り上がりしました。
 某同僚のある一日。大学にいるかぎりは研究なんかできないから、5時には帰って研究しようと思っていたら、その直前に学生が来た。相談にのっていたら9時になり、そこから帰ろうとしたら、今回のイベントのボスのH教授がきて、11時40分まで離してもらえなかったって。僕だったら「カミさんが怒る」という切り札で逃げ出すのだけど、ひとり身はつらいねえ。H教授の電話は「夜討ち朝駆け」と呼ばれて有名で、僕もなるべく携帯番号教えずに粘っていたけど、結局本人に迫られて教えてしまった。別の人など、ずっと教えずに逃げ切ろうとしたところが、学生の実習先から聞き出されてしまったとのこと。
 それで、図書館に行く暇がとんとないという話で共感しあって盛り上がっていたら、ある30代の同僚曰く。出勤して教員休憩室に入ってしまったらおしまいだから、その前に図書館によっていくのだとか。あらかじめ自宅で文献を検索しておいて…。ああ、本当に研究意欲のある人はそこまでするのだ。すみません私は向学心が足りませんでした。いつも大学と地域社会に貢献させていただいて大変幸せです。はい。

 てな感じで夜もふけて、うちに帰ったら、先日出た共著『経済政策形成の研究』の、私の章も含む諸章に対して、bewaadさんのブログでご批判の書評をいただいていたのを発見しました。まあご批判とはいっても、共感していただいているようなので、ありがたいことなのですが。
 詳しくはこちら↓。クリックしてつながりにくくても気長に待つこと。
http://bewaad.com/2007/09/24/280/
(追記:私の章についての論点を自分が理解したなりにまとめれば、拙文が、リフレ政策=「経済学的発想」/構造改革=「反経済学的発想」と図式化をしているとのご理解にたって、個人的には納得してくださったうえで、ここで私が打ち出した「経済学的発想/反経済学的発想」の単純な基準命題でリフレ派、構造改革派をあてはめるのは無理があるのではないか、逆に、リフレ派こそが「反経済学的発想」と言われる余地があるぞ、もっと要件をちゃんと詰めないと、というご指摘だと思います。──9月27日)

 で、リプライなんですが、まずご理解いただきたいことは、浅田さんの章も私の章も含め、この本全体は、「リフレ論こそが経済学的に正しく、それを批判する議論は既得観念によって歪められたトンデモ論である」という立場に立っているのでは全くないということです。もっと一般的に、経済学的にまっとうなはずの議論が、政策に移される時にまっとうでないものになってしまうのはなぜかということがテーマです。その際、リフレ論ではない議論にも経済学的にまっとうなものはもちろんたくさんあるし、リフレ論にも経済学的にまっとうでないものは十分あり得るわけです。
 例えば浅田さんが名をあげて検討されている斎藤先生への批判は、反経済学的トンデモ論であるとの批判では全くなくて、ひとつの経済学のまっとうな学説であることを前提した学理的批判だと思います。ましてや名前もあがっていない林先生や青木先生を浅田さんがトンデモ扱いしておられるはずはないと思うし、私自身もこれらの人々を一流の経済学者であると尊敬しています。浅田さんが本当に理論外扱いしている人々は、「日銀周辺のエコノミスト」などと、あえて名前をあげて引用するに値しない扱いをされています。
 これは私もそうなのであって、反リフレ派であれ、構造改革への肯定的コミットメントを持った人であれ、「経済学的発想」でものを論じている人はたくさんいると認識しています。そうであるかぎり、まじめな学理的な批判が可能です。このような人達は、私のあの章で扱っている対象ではありません。
 だから、私はこの本で、「反経済学的発想」の構造改革派に対して、「「構造改革」主義」という表現をあてて、構造改革支持派一般と区別しているのです。実は、初期の原稿では、このへんをあまり厳密に区別しない表現をしていたのですが、ひとつのイデオロギーであることを強調する意味から、「「構造改革」主義」と表現するようにしたのです。多くのまっとうな経済専門家の構造改革支持者は、あそこでの「「構造改革」主義者」には含まれていないのです。
 それゆえ田中さんのブログからご批判を受けた(←コメント欄も読むこと)中では、「反経済学的発想」の諸議論のテキストの検証が勧められましたけど、ここでの対象はちゃんと批判相手として取り上げるに足る人達ではなく、もっと獏たる雰囲気というか、社会現象みたいなものを扱っているのだとご理解下さい。
 構造改革支持者にしろゴリゴリの新しい古典派にしろ、経済学の共通の知見をふまえたまともな学理的批判が可能な人で、例えば、「競争もせずに、財政や規制の力を使って自分の都合のいいように経済を歪め、オレたちを食い物にして利益を得ているヤツを懲らしめろ」などという内容のことを言っている人がいるわけないのは当然です。まともな学理的批判のできる相手はそもそも「反経済学的発想」ではないのです。「反経済学的発想」の議論というのは、あえて取り上げるに値するレベルのものではないと思いますし、名指して引用して本人なり信者なりと論争にでもなったらただの時間の浪費です。
 だから、たしかに「反経済学的発想」の人達は経済学の専門家ではない人々が多く、従来野口旭さんは「専門知/世間知」という言い方をしてきたわけです。もちろん本当は、大学の経済学部スタッフでも「反経済学的発想」の人達はいるので、この「世間知」という言い方は適当ではないです。だとしてもまともに名指しでとりあげなければならないものではないと思います。
 もちろん、「反経済学的発想」という言葉が、自分と意見が違う者に対するレッテルと化してしまう危険性については自覚しておかなければならないと思います。そのことをbewaadさんや田中さんが指摘されたことの意義は大きいと思います。その意味で、「経済学的発想/反経済学的発想」の概念区分を誤解の余地がないまでに精緻化していくべきであるとのご忠告は素直に受けたいと思います。しかし、その道は、田中さんが示唆されたような「反経済学的発想」の議論のテキスト検討という、いささか不毛そう(誰かやってよ)な方法よりは、調査や実験による方が実り多いと思います。(事実をもって根拠付けろということが田中さんのご主旨なので、それでもいいということです。付記)
 例えば、アンケート調査をして、この本にあげた「経済学的発想」の三命題、「反経済学的発想」の三命題のそれぞれの内部での賛意の相関が高いかどうかとか、これら三命題への賛意と、例えば自由貿易への賛否などの経済問題への態度との相関がどうなっているかとかを確かめたらいいと思っています。忙しいのでいつになるかわかりませんが。

 なおこれに関しては、第三命題、厚生の絶対基準か他者と比較した相対基準かということについては、すでに実験経済学による知見がかなり積まれています。自分が多少損してもいいから他人の足をひっぱろうとする行動は「スパイト行動」と言うそうで、日本人とアメリカ人で実験したら、日本人の方がスパイト行動をとる率が統計的に有意に高いそうです。これを学問的に意味のある概念として区分することは認められているものと思います。
 個人個人がどのような効用関数を持っていても自由ですが、人類すべからくスパイト的に振る舞うということを暗黙の前提にして政策が作られたりしたら困ります。また、スパイトを選好する効用関数が元来生物学的に合理的だとは思えませんから、これは何らかの社会的環境によって作られたものと見るべきです。私は、市場取引抑制的な社会関係の中で作られるものだと思っています。だとしたら、やはり「経済学的発想」と「反経済学的発想」を分かつ重大な基準になるわけです。このへんを理論的実証的に詰めていくことも今後の課題となると思います。

 ところで、私が現実のイラク戦争を指して米国政府周辺の石油資本の利益にひきずられたものとの見方をしていることに対して、bewaadさんから無根拠の陰謀論の印象とのご批判をいただいています。
 bewaadさんご自身は十分ご理解いただいていることだと思いますが、まだ本を読んでいない人が誤解を受けるかもしれませんので説明しておきますと、あのへんの文脈は、短期的には「反経済学的発想」の陰謀論が成り立つような局面があるけど、長期平均的にはそれは違うのですよという、章全体の筋の一環でして、その中の「短期的にはこうかもしれませんが」という譲歩文の部分の中で言っていることです。だから、私自身が積極的に陰謀論を主張しているようにとられたら、それは誤解です。
 あの本では、浅田さんの章はケインズ派を説得すること、私の章はマルクス派を説得することが一つの目的になっています。したがって、私の章で想定される読者の一団の常識では、ブルジョワジーというものはすべからく戦争を望んで陰謀をめぐらすものだとか、民族自決と内政不干渉は進歩的原則だとかいうことになっているわけです。それを私は批判して、対立する主張を提唱しようとしているわけです。長期的にはサダム・フセインのような独裁者を取り除くことが世界総資本の利益であり、しかもそれは社会の合理的法則にのっとったものなのだとか、しかし現実のイラク戦争は決して総資本の意思ではなくて、アメリカでも多くの資本家が反対していたのだとかいうことです。
 それでそれを言う時に、「たしかにあなたの考えているような現実もありますけどね」と、相手の常識にのっかって譲歩的に認めている内容の文なので、いささか簡単に書いてしまっているわけです。
 「石油会社のために戦争するぐらいなら、なぜバイオエタノールを阻止しない」というbewaadさんのお話は、仮想論敵に成り変わって諌めていただいている文脈であって、ご自身の積極的主張ではないと思いますが、無根拠の推論で恐縮ですけど、周囲の石油会社の利害では「石油が入手困難になって値上がりするのがトク」という思惑で推進していたものが、ブッシュ政権自身では本気で「エネルギー確保が国益」という逆のストーリーで意識されていたものだったのかもしれず、そうだとすると今政権がバイオエタノールを推進していても別に矛盾はないと思います。
 いずれにせよ、政策は利害を直接合理的に反映せずに歪んで反映するのですということ、そして様々なアクターの力が色々に入れ代わって政策というものは変容していき、結局長期平均的には、個々の局面でのアクターの思惑から離れたものに自律的になるのですよというのが、あの本での私の主旨になります。だから、個々の局面でのアクターの思惑と矛盾することをやっていることの指摘は、あの章の主旨にそったものだとも言えると思います。

 なんだか本をお読みになっていない第三者には分かりづらい文章になってしまってすみません。買って下さい、お願いします(笑)。

追記:ちょうど昨日これをアップしたら、たまたまちょうどここで取り上げたことをテーマにしている本が届いていました。藤和彦『石油を読む──地政学的発想を超えて〈第2版〉』です。石油は今や経済原理にのっとって動く典型的な市況商品になっていて、石油問題の専門家にとってはそれは共通理解になっているのに、政治やジャーナリズムの世界には、地政学という、まさに「反経済学的発想」の塊のようなものに取り付かれた人がたくさんいて、本来問題のないところに問題がこじれて困難が増幅されるという話です。でも結局は長い目で見て経済原則が貫くので、それに反するようなことをしても、どうせみんながさんざんな目にあうだけですよという、本当に私が今度の本で言いたかったことそのままが書いてあります。是非お勧め。──9月27日
 

 

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