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08年8月31日 今こんな本を書いてる (08年9月1日追記)


※ 一番下に9月1日の追記があります。

※ 当日の追伸:ああ田中さん、ネタを追記したのですね。まあ、僕はみんなが死んでしまった長期の話はあまりしてなくて、現行の社会体制もとのの、目の前の問題で、ちょっとでも疎外をなくす事業をどう広げるか、そうやって始めた事業がかえって疎外をもたらすことをどう防ぐかということを考えているんですけどね。


 んまあ、秀臣サマったら、小島先生ばっかりかまって、負けないくらい秀臣サマLOVEのボクが書いた本のことを相手にしてくれないのねっ。とスネてたら、やっと書いて下さいました。ありがとうございました。
 しかし、すみません。よくわかりませんでした。まあ、鈴木さんとか、大澤さんとかの本を読んでませんし、秋葉原事件自体もあまり興味なくてフォローしてなかったから、流れが見えづらいということもあるのですが。
 一番イメージしづらいのが、「個々人の生身」や「当事者性」が実は外化でしかなく、疎外になるという話です。「「個々人の生身の都合」も一つの「みじめ」な姿とどう差別できるのでしょうか?」というご批判も、何を批判したいのかよくイメージできません。誰でもみじめなのは不都合じゃないの?と思ってしまうのですが。

 『「はだかの王様」の経済学』では、概念規定はせず、極力日常用語だけで話をしようと努めています。「疎外」という言葉だけは、仕方がないからフォイエルバッハの独特の用語を使うしかありませんでしたけど。
 でも前に書いた『近代の復権』とか、専門の論文では、もちろん、概念規定した専門用語を使って議論しています。実はこっちの方が誤解の余地がなくてクリアーなんでしょうけど、一般書では難しいことです。身近な具体的実例をたくさんあげることで、自然に共通パターンを感知していってもらうという書き方をしました。
 でも、かえってそのために、疎外の図式そのものが、うまく伝わっていないのかもしれないと思いました。
 『近代の復権』などで疎外を説明するときには、次のようにしています。

 普通、世界の基本構造を把握するために概念を分けるときには、「主観/客観」「精神/物質」といった分け方をしますよね。
 ところが、マルクスが育ったヘーゲルとかフォイエルバッハとかの議論の中では、概念の基本的な二分の仕方が、こういうのとは違っているようなのです。「観念/感性」という分け方をしているようなのですが、これは、「主観/客観」とも「精神/物質」とも切り分け方が違います。
 「観念」と「感性」とは、次のようなものです。

観念:抽象的、全体的、普遍的なもの。言語や記号でできているもの。制度、法律、命令、慣習、価値観、宗教、学説、思想など。

感性:具体的、個別的、特殊的なもの。言語や記号で表される対象。感覚、本能、欲求、身体、自然、技能、生産手段、生活条件など。

 学生や一般市民に話すと、たいていこのへんでドン引きされます。さんざんそういう経験をしたもので、最近は「観念/感性」の話は封印しています。
 まあ、「主観/客観」とか「精神/物質」とかの分け方とズレがあるので、わかりにくいと思うのですが、例えば「使用価値」という『資本論』用語がありますね。あれは、「商品の価値が他の商品の使用価値で測られる」などと言う言い方をするときは、商品の客観的な物体を指しているのですが、「商品所有者にとって、自分の商品は使用価値ではない」といった言い方をしているときには、主流派経済学で言う「効用」のような主観的な意味です。この二つの意味が「使用価値」という概念に混在して区別されていないのです。(考えてみれば、「効用」というのも、客観的な効能と主観的な満足度の両義を持っていますよね。)

 この概念分類がわかれば、疎外の定義は一言ですみます。
「観念が感性を抑圧すること。」

 もちろんこれも程度問題で、前にも言いましたように、「禁煙」という観念が「煙草を吸いたい」という感性を抑圧することは、「健康で生きたい」という別のもっと重要な感性のために役立っていると納得される限り、疎外として問題にはされません。
 目的は感性の側にあって、観念はあくまでその手段である。観念は感性から外化して、感性を縛り、自分の似姿を感性に押し付けて変革してきたりするものだけど、それも結局感性のために役立つ限り許す。というのが、疎外論の問題意識になります。
 結局これは、主流派経済学にとっては、非常になじみ深い、当然の立場なんですよね。個々の効用関数や生産関数を基礎にして議論を組み立ててシステムを説明しますが、これはまさに「感性」を基礎にして、そこから「観念」を根拠づけるということです。そして、人々の効用を低めるシステムは悪い、効用を高めるシステムがいいという判断をして、政策提言したりしますが、これは疎外論の立場そのものです。

 なお、「観念/感性」の概念分類は、問題によっては相対的なものです。
 例えば、「資本」というものは、「労働」と対比するときには、資本は観念側、労働は感性側です。でも、同じ資本の中を分析するときには、抽象的全体的な貨幣資本は観念側、個別具体的な実業をやっている機能資本は感性側と分類できます。貨幣というものは、一般商品と対比するときには、貨幣は観念側、一般商品は感性側ですが、戦後の国際通貨制度などでは、同じ貨幣の中を見たら、全体的一般的なドルは観念側、個別国民経済に制約された他の通貨は感性側と分類できます。

 個別感性から積み上げるこういう図式は、主流派経済学にとってはあまりにもあたりまえで、なぜここであえて「疎外」などという言い方をして批判的な価値評価をこめる意義があるのかと言うと、現実にはこれと全く正反対のことが起こるからです。
 つまり、観念こそが目的で、感性はその手段で、両者が矛盾したときには感性の方が犠牲になってあたりまえだという図式が、まかり通ることが、本当にしばしば起こるのです。典型例が軍国時代の日本ですね。あるいは、文化大革命とか、スターリン体制とか。ここまで行かなくても似たようなことはこの世に多い。
 こういうことはとても深刻なことだし、しかもぼんやりしてたら社会力学的にいつの間にか起こってしまうことですから、そうならないようにするための基本的なものの見方として、疎外論はとても有意義だと自分では思っています。
 そうでなかったら、「統帥権独立」とか「一党独裁」とかの個々の欠陥のせいにされたり、「軍部や財閥の下心」や「スターリンや毛沢東の際限ない物欲」とかの「キタナい」利害のせいにされたりしますが、その結果は、「クリーンで賢い反対派」が権力を握った暁に、いっそうはなはだしい悲劇が起こったりします。
 今でも、「イラク戦争は石油会社の利益のため」といった批判がなされるでしょう。それは一面ではその通りだと思いますが、正義のためなら数多くの人命が犠牲になってもかまわないという姿勢そのものを拒否しないと、いつか同じような過ちに加担してしまうと思います。

 「個々人の生身」とか「当事者性」とか言ったのは、今述べてきた「感性」の日常用語での言い換えです。それ自体が外化して疎外態になることはありません。「個々人の生身」や「当事者性」の有様を言語化した言説が、ひとり歩きして疎外態になってしまうことはありますが。

 田中さんが、ネットという「虚構のコミュニケーション」が外化して疎外態となることを指摘されたのは、その通りだと思います。これは、疎外論の図式からは当然導かれることです。なぜなら、依存関係にある人々が互いにばらばらなときに、観念が自立して各自の感性に君臨するのがなぜかと言えば、観念というものがもともと媒介物だからです。ネットなどはその地位につきやすい筆頭だと思います。
 私が疎外の原因としてあげた「ばらばら」というのは、マルクスに対する私の個人的な解釈としては、協力ゲーム解を合意したり、パレート優位なナッシュ均衡に移るためにコーディネートしたりすることができない状態ということだと思います。これができるようになることは容易なことではないことは、私の本で重々強調したつもりです。実質的にそこまで交流調整ができない状態で、中途半端に媒介手段があれば、それがネットであれ何であれ、自立して君臨することは必然だと思います。
(もちろんネットができたおかげで、以前より調整がとても簡単になり、疎外解消に貢献していることは言うまでもないと思います。──追記)
 まあ、それゆえ、疎外をなくすためのコミュニケーションと言っても、そのとたんコミュニケーションなるものが外化して疎外になりますよ、というのが田中さんのおっしゃりたいことでしょうから、その点に関してはもうおっしゃる通りで、みなさん気をつけましょうというほかないと思います。(これは、田中さんの主張ではなかった。下記9月1日の追記を参照のこと)
 それはまあ、戦術の問題としては工夫を重ねていくとして、こういう媒介観念は一人歩きしがちだから危険ですよということ自体が、疎外論の図式があれば導けることですので、やっぱり疎外論の意義はあると思っています。



 実はまた一冊本を頼まれて書いてます。夏休み中に書き上げる計画だったのですが、全然進んでいません。
 新任校で前期にはじめて経済学史の講義をやったので、その教科書を書けと言われているのです。
 『はだかの王様』は、一般の人にもできるかぎりわかりやすくと努力を重ねたのですが、やっぱり町内のおじさん、おばさんの多くは、最初半分まではおもしろがって読んで下さるのですが、半分からは難しいとおっしゃいました。残念。でも、まあフォイエルバッハとかマルクスとかが出てくる前まででも読んでもらえれば、問題意識は十分伝わると思うのでそれでいいのですけど。
 しかし今度こそはと、リベンジを狙っています。
 そこで、思いついたのが、『エコノミスト降霊!』(仮称)。スミスからフリードマンまでの経済学者が降霊して、霊媒にとり憑いて自説を語るってのはどうだ。
 とりあえず、マルクスの章だけ書きました。そもそもこのアイデア自体出版社に受け入れられるかどうかわからないし、そうでなくても、思わずちょっと長くなってしまったので、削りが入ると思います。15回の講義でスミスから現代までやらなければならないのに、マルクスだけでこんな時間をかける余裕もないだろうし、他の章をこれだけ書ける自信もないのでたぶんやむを得んでしょう。もったいないからアップしておきます。
「第3章 マルクス降霊」
 ご意見、ご批判、わかりやすくするためのアイデアなどがありましたら、是非お聞かせ下さい。
 上に述べた「観念(理性)/感性」は今度は最後の方に出して、疎外概念の説明をしました。今度こそ伝わりやすいのではないかなと思っています。

 この夏休みは、大人数の定期試験採点にとまどいながら、海外ジャーナルから返ってきた英語論文を修正して再提出し、全く別の英語論文を書いて別の海外ジャーナルに送り、10月の学会報告の報告論文(忙しくてまだ新しい証明は結局何もできてない)を作って学会事務局に送り、といったことをやっているうちに、この本の原稿に着手するのがどんどん延びていきました。
 9月13日には大学院のゼミのOB会で報告がありますが、準備をやっていません。9月15日には日本経済学会でコメンテーターをしなければならず、その論文がもう送られてきているのですが、まだ読んでいません。9月15-16日は、久留米大学のゼミ生を立命館につれていって、合同ゼミをするのですが、そのときのゼミ生の研究報告の指導をしなければならないのが、まだ何も考えていません。
 9月下旬からは、マル経の原論と、経済変動論という今までやったことのない講義が始まるのですが、とても準備する暇がありません。ああそういえば、新任校の事務仕事がちょっとだけあったな。
 こんな中、よせばいいのに8月下旬に家族旅行に行ったのですが、そのときついでに藤原書店の編集者さんと会ったら、河上肇賞奨励賞作品を出版するから2〜3カ月で修正せよとのお話。こっちは来年の8月出版くらいの予定でいたもんだから目が白黒です。スローガンとしては承りましたが…。冬にはまた別の出版社の本の原稿を書く予定があるので、さあどうなるか。
 前任校にいたころは、毎月のようにシンポジウムの企画運営に追われていましたが、そういうのがなくなったらその分、いろいろ仕事が舞い込むものですね。
 まあ、子供の夏休みの宿題も見ないといけないし、こんなホームページを書いてる余裕は本来はないことだけは確かだわ。


 田中さんから、リプライのエントリーをいただきました。

 鈴木さんの議論の説明を田中さんの考えのように誤読したのはすみませんでした。撤回します。
 ご指摘の件についての返答ですが、
(イ) 最も皮相な返答:ソ連や中国では疎外論は異端思想であって、弾圧されていた。ましてフォイエルバッハ流疎外論が理解されていたとは思えない。
(ロ) 二番目に皮相な返答:弾圧の犠牲者の大半は普通の労働者。あるいは、経済的カテゴリーではプチブルに分類されるかもしれないが、普通の農民である。
(ハ) 真っ当なつもりの返答:被害を受ける当人の中では、別の感性の満足によって補償され得ないのだから、これを感性に合致するものとして自発的に受け入れる可能性が最初からない。思想の名においてのこのような一方的抑圧は疎外論からは正当化されない。

 まあしかし、(ハ)の問題は難しくて、これを突き詰めれば、パレート改善になることしかできなくなります。それも一つの答だと思いますが、でも僕は、チャウシェスク一人を殺したら他の全員の境遇が改善されるというとき、チャウシェスクを殺したことは正当化できた気もします。ところがこれがチャウシェスクではなくて、被差別の弱者なら正当化できない。では庶民である重犯罪者ならどうか。といったことを、根拠を突き詰めて考えると難しいです。これは、『マルクスの使いみち』の鼎談で提起したけどあまり盛り上がらなくて、結局削除になった論点なんですけどね。
 今後考える難しい課題はいろいろ多いですが、規範理論の人達が一生懸命考えていることはこういうことだと思います。こういうことを、最初から「国家」とか「正義」とかから天下りに議論するのではなく、あくまで個々人の感性への帰結を根拠に議論できることが、疎外論の意義だと思います。
 とりあえず僕は、すべての個人は(本来はチャウシェスクも含めて)、少なくとも、猿のころから共通する最もプリミティブな感性的存在として尊厳されなければならないというのは、出発点だと思っています。まあこれは疎外論についての僕の勝手な読み込みですが。


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