松尾匡のページ

09年6月8日 Mixiコミュで書き込んだ拙文



 やすいゆたか先生が、この八月あたりに「疎外論再評価をめぐるシンポジウム」を実施しようと企画されていて、協力せよと声をかけられている。あまり役に立ちそうにないのだが、お声をかけていただけたことは光栄な話である。
 ところで、やすい先生からは以前ミクシーに誘われて、「マルクス研究」というコミュニティに入れていただいたのだが、忙しすぎて滅多に書き込むこともなかった。
 それが、シンポジウムも近づいたからということで、その準備のために議論を始めよということで、先生から話をふられて、投稿を促された。
 なぜ私松尾が、疎外と言えば「観念の自立」ばかりを問題にするのか。マルクスは生産物の労働者からの自立を「疎外」として取り上げたのではないのかというお題であった。
 それで、おこたえを書き込んだのだが、かなり時間がかかって、ちょっとした文章になったので、もったいないから、ここにも掲載して公開しておく。こんな時間のかかる書き込みをするチャンスは、今後あまり期待できないけれど、やすい先生にはご了解いただきたい。

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 やすい先生、お取り上げいただきましてありがとうございます。
 以下、やすい先生にとっては「釈迦に説法」のような説明を多々すると思いますが、読者の理解をいただくためということで、失礼をお許し下さい。

 ヘーゲルの「観念論」に対して、フォイエルバッハが「唯物論」を打ち出したというとき、単に「宗教を批判した」という意味で理解しているむきが一般にあるとしたら、それは私の理解とは違っています。
 哲学の素人の私がこんなことを言うのはおこがましいと思うのですが、カント、ヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクス、それから特にマルクス、エンゲルスが高く評価した労働者哲学者のディーツゲンなどの著作をかじって思いますのは、この時代のドイツ哲学の常識では、どうやら、ものごとを分けるのに、脳の中の主観と、その外の実在的物体との間で線を引いて分類しているわけではないようです。

 「感性」と「観念」という二項分類をしているようなのですが、「感性」と言うのは、主観的な感情のようなものも、客観的な実在の物体も、共に同じカテゴリーの中に含めている概念のようです。「自然、物質、現象、経験、感覚、本能、欲求、肉体、快・不快、喜怒哀楽、生活、労働現場…」といったことが、すべて「感性」とされているようです。カントの「傾向」という用語も、本能的欲望が引っ張る方向のようなことを指すようですが、この一種だと思います。
 例えばマルクスの「使用価値」という概念は、「感性」側の概念の一種ですが、みなさんご承知の通り、財の主観的な効用のことも指しますが、同時に、財の生身の客観的物体のことも指します。

 カントやヘーゲルのドイツ観念論の問題意識では、こういう「感性」というものは、個々人のそれぞれ特殊な肉体的物質的制約を受けた狭い存在で、まあ、ぶっちゃけて言えば、「下等」で「下劣」なことととらえられていたようです。そしてこのような制約を乗り越えて、人間に無限の普遍性を与えるものが「観念」とされているようです。
 だから「観念」と言えば、何か主観的個人的なイメージがあるかもしれませんが、ドイツ哲学ではむしろ、本当は人間の頭脳の中にあるものでも、客観的で広く多人数に共有されるようなものを指して「観念」と言っているようです。
 例えば、「理性、神学、哲学、法律、国家…」といったものが「観念」です。ドイツ観念論は、こうしたものが、あたかも客観的実在として厳然と存在するかのように言って、物質的肉体的制約を負った個人個人の「感性」をこれに従わせようとしたわけだと思います。

 一般には「唯物論」と言えば、理性主義的イメージがあるかもしれませんが、これは全くレーニンがそう誤解して以来の歴史的に新しい立場で、もともとは大陸合理主義に反対するイギリス経験論のような立場が「唯物論」だったことはみなさんご承知の通りでしょう。すなわち、理性優位の主張に反対して、個々人の経験する感覚の優位を主張してきたのが「唯物論」だったのです。
 フォイエルバッハの唯物論も、ドイツ観念論の理性優位の主張に反対して、「感性」すなわち、「自然、物質、現象、経験、感覚、本能、欲求、肉体、快・不快、喜怒哀楽、生活、労働現場…」といったものの本源性、主性を唱えたという点に唯物論と呼ばれるゆえんがあると思っています。

 したがって、ヘーゲル観念論の疎外論と、フォイエルバッハ唯物論の疎外論は、同じ「疎外論」と称しながら、問題意識が全く正反対の対立しあう立場になります。どちらも、本来従であるべき帰結物が、それ自身に根拠があるように称して、本来主であるべき本源の手を離れて主人面することを「疎外」と呼んで批判しているわけですが、ヘーゲルは、本来理性が主、感性が従となるべきとする立場で、フォイエルバッハは、本来感性が主、理性が従となるべきとする立場ということになります。これは全く非和解的対立です。

 このとき、観念論者が、観念の支配を正当化するための常套手段は、その観念があたかも確固とした客観的な実在物であるかのように言うことです。「神はいる」「個々の国民から独立した国家という実体がある」等々。そして、それらが客観的現実であるからこそ、個々人はそれに従えと言って抑圧してきます。
 それに対する唯物論者の批判は、まずは、それらが観念にすぎないことの指摘から始まらざるを得ません。「神は観念だ」「国家は観念だ」等々。
 ところがレーニン以来の実在論的唯物論のイメージがあると、客観的実在に個々人が従うことを主張する観念論の方が「唯物論」に、観念の自立を指摘する唯物論の方が「観念論」に見えてしまいます。しかしこれは全く間違ったイメージだと思います。

 それでは、マルクスの『経済学哲学草稿』に見られる、「生産物の労働者からの疎外」の論点は、ヘーゲルの疎外論にしたがって解釈すべきでしょうか、フォイエルバッハの疎外論にしたがって解釈すべきでしょうか。
 大昔、廣松渉とか言う人が、あらゆる労働は生産物を対象化する行為なのだから、生産物が自立すると言って文句をつけるのはおかしいと、青年マルクスの疎外論にケチをつけたそうですけど、これなどはヘーゲルの疎外論でもってこれを解釈しているわけです。
 すなわち、観念を感性界に対象化して作られた物質が、その観念の自由にならない別ものになってしまう。これが疎外だという論理の応用だというわけですね。たしかにその限りでは、マルクスはあたりまえのことに文句をつけていることになってしまいます。
 まあ、ヘーゲル疎外論を敷衍してこのことに適用するならば、職人が技術が未熟なために思った通りの作品を作れなかったこととか、農民が生産技術の低さや天候などの自然的物質的制約を受けて、思った通りに農産物を作ることができなかったこととかの方が、もっと適切な例になるでしょう。
 そういう問題を批判的に指摘することは、それはそれで意義があるかもしれませんが、しかしこういう立場が行き着くと、眠さや苦しさを乗り越えて、計画通りの生産を実現しようとすることの称揚だとか、さらには、生産計画実現の障害になる、個人生活を優先する者への弾圧だとかに至ってしまいます。
 これこそフォイエルバッハの立場からすると、くわばらくわばらですね。恐るべき疎外そのものです。

 でもマルクスが『草稿』で言っているのはそういう話ではないですね。
 じゃあ何を問題にしているのか。労働者の作ったはずの生産物が、労働者のコントロールできないものになる。自由に処分できないぞ、ということですよね。自由に処分できないというのはどういうことかをよく考えてみたら、処分についての決定ができないということです。労働者自身以外のところで決まったことに従って処分されなければならない。
 つまり、生産物の労働者からの疎外というのは、物質の自立化のように一見見えますけど、その正体は、意思決定が労働者の外でなされているということ、要するに「観念」の自立化だったわけです。
 そしてこのことをケシカランと批判して、労働現場の個々人の具体的感性的事情にその意思決定を従わせようとするわけですから、この立場は、全くフォイエルバッハの唯物論的疎外論の立場ということになると思います。

 ここでも、人間から自立化したものが何か物質的なものと見ることは、レーニン的理解に慣れた目からすると、「唯物論」的に見えますが、それは「神」や「国家」を客観的実在とみなす立場と同じく、本当は観念論の立場だと思います。
 それは観念なのだと見破って、その自立性を批判することこそ、唯物論的な疎外論の立場なのだと思います。

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 このあと、コミュ参加者のかたからこの書き込みに対して、
1) 今現に労働者が直面している状態は、機械という「物」、強ノルマ遂行という「肉体的現実」であり、「物質の自立化」ではないか。
2) 観念を観念と見破るのが解決というフォイエルバッハの解決は、マルクスから批判されたのではないか。
 との二点のコメントをいただいたので、次のリプライをしている。

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 ヘーゲル流の観念論的疎外論の図式の場合ならば、疎外の被害を受けるのは観念の方だと思います。自立した物質である作品が、思った通りにならなかったのは遺憾であると総括するのは、観念の側です。作品そのものは手と自然の内在的傾向によってそうなったまでであって、作品の身になって考えれば、かえってそうなって「幸せ」かもしれません(笑)。

 それに対して、私の解釈するフォイエルバッハ=マルクスの疎外論の場合は、その真逆になるので、自立した観念による抑圧の現場は当然感性界にあります。
 だからまさに、感性的物質的な現実の被害を受ける、だからよくないということこそが、フォイエルバッハ的疎外論の第一の問題意識だと思います。その点を最も強調してきたつもりですが、伝わっていなければすみません。

 極端な例で言えば、国民から自立して天照大神の詔で万世一系の天皇に委ねられた日本という観念は、受け入れたくない個人がいれば、その個人は、屈強な特高警察の肉腕にひっぱられて、角棒でぶたれたり、畳針で爪はがされたりして、痛い目にあうわけでして、これは観念でも何でもない、感性的物質的苦痛です。そうでない個人も、この観念の結果、爆弾が降ってきたり、ひもじい目にあったりしたわけで、これ自体も感性的苦痛です。
 みんな自分の思い通りでない物質的現実の被害を受けてしまうわけですが、ただそのこと自体を取り上げるだけでは、特高と強盗との区別がつかないし、爆弾と地震の区別もつかないことになります。
 強盗や地震の場合と違って、もし、国家が、個々人の感性的都合にあわせて形成され、取り替えられるしろものにすぎなければ、特高も爆弾もなかったわけですよね。日本国家が個々人の感性的事情と無関係に存在価値を持つものとして自立して君臨していたから、こんな物質的抑圧が起こった。そのことを指摘するのが疎外論だと思っています。

 宗教も同じで、自立した観念のせいで、個々人が火あぶりの刑にあったりしたわけですが、たしかに薪なり炎なりは、被害者にとっては自己の外にあって自由にできない物質で、それによって感性的現実的苦痛を受けるわけです。でもやはりそれ自体を問題にするだけでは、火あぶりの刑と火災事故との区別がつきません。

 機械についても、私の記憶では、マルクスもエンゲルスも一貫して、機械それ自体は労働を減らして生産物を増やし、労働者を豊かにするものとみなしたはずだと思います。それが、労働者個々人の感性的都合から切り離されたところで使い方が決められてしまうからこそ、機械の都合に合わせて労働者が苦役にふりまわされる。だからそれを、機械それ自体が悪いととらえるラダイズムに対しては、マルクスはずっと批判してきたと思います。

 後半ご指摘の点は、おっしゃる通り、観念を観念と見破るだけではその支配から逃れられないのでして、観念が勝手に自立することの原因を断つには、現実社会を変えるほかないという認識は、マルクスやエンゲルスがフォイエルバッハから脱却した跳躍点だったと思います。
 その原因が何かということについては、『ドイツ・イデオロギー』の表現では「分業」ですが、要するに、依存関係下の特殊化ということで、拙著『はだかの王様』の中では「依存関係+ばらばら」と敷衍して論じた通りです。


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