松尾匡のページ10年7月19日 「粘着価格」という自己規定は正しいか
『不況は人災です!』、田中秀臣さんと赤間道夫さんからご書評をいただきました。いつもありがとうございます。赤間さんからは、合わせて、前著『痛快明快経済学史』のご紹介もいただいています。前著からの流れの中で位置づけていただけてうれしく思います。
2010-07-16 -Economics Lovers Liveakamac book review 494 新著の資料・補足訂正のブログも、ようやく修正更新が一段落つきました。
Zeroから始める。 さて、ようやく『図解雑学』のマルクス経済学の原稿がすべて出し終わりました。まだ校正が手間取りそうなのですが、とりあえず延々長かった非常事態も終わったかなと。学問的な研究も読書もテレビも手をつけない状態が続いてきましたが、これからぼちぼちリハビリして日常生活に復帰します。
しばらくネットもあまりフォローしていなかったのですが、新刊の評判が気になることもあって、このところ久々にひとのブログ読んだりしていたら、いつの間にか「リフレ派」界隈がごちゃごちゃしているねえ。
そんなところに、ますますごちゃごちゃになりそうなことを持ち出してきて恐縮ですが、ずっと気になっていて、このかん楽になったら書こうと思っていたことがあります。
私は、新著でも、前著『痛快明快経済学史』でも、「総需要不足からたくさんの失業を出して経済が均衡してしまう」とするケインズ理論の本質は、「何も買う予定がなくてもおカネを欲しがる」という「流動性選好」の前提にあると述べています。
一般には、ケインズ理論の前提は、価格がなかなか動かないとみなすことだと思われています
(ここで「価格」と言っているものは「賃金」の場合もあり得る)。これが価格の硬直性とか粘着性とか言われる仮定です。それに対して、対立する「新しい古典派」は価格が伸縮的に動くと仮定していて、それが、資本主義経済が自動均衡してうまくいくという結論をもたらしているのだと考えられています。だから、価格がどの程度伸縮的とみなすかで、論者の立場がケインズ的か「新しい古典派」的かが位置づけられるとされています。
ところが、ケインズ自身は、価格が硬直的などという仮定はおいていませんでした。むしろ伸縮的だったら事態は悪化するとみなしていたのです。
そして、前著でも新著でも、これが現代に復活した「新しいケインズ派」の認識なのだとみなしていました。
しかし、「新しいケインズ派」のモデルは、小野善康さんのモデルにしても、ニューケインジアンの動学的一般均衡のモデルにしても、価格がなんらかの需給不一致を反映して、時間を通じて運動することが仮定されています。つまり、t時点で売れ残りがあれば、t+1時点の価格がt時点よりも下がるというようなことです。これは、価格が粘着的だと仮定しているように見えます。「新しい古典派」のモデルならば、各時点各時点での需要供給が一致するように価格が決まっているからです。
それゆえ、ニューケインジアンの動学的一般均衡モデルを使っている本人たち自身、これが価格の粘着性を仮定しているのだと自己認識している人が多いです。そしてそれを批判する「新しい古典派」の側も、依然としてその点がモデルの本質だと考え、価格調整の素早さの仮定で対抗しているようです。
私はこの認識は違うと思っています。
もちろん、現実は多かれ少なかれ不完全競争があって、多かれ少なかれ価格は粘着的ですので、現実に近づけるためにそれを仮定するのは悪いことではありません。しかしそれがここで表されていることの本質かというとそうではないと思うのです。
「新しい古典派」の動学的一般均衡で価格が伸縮的と言われるのは、それが「ジャンプ変数」と言われる変数だからです。どういうことかと言うと、需要供給を一致させるようにその時点のうちに動くということです。このモデルは、完全予見や合理的期待が仮定されていますので、モデルの中の登場人物はみな、遠い将来からの価格の運動を予見して、そのもとで現時点から将来までの行動計画を建てています。ここで、現時点で突然何か需要が縮小するショックがあったとすると、その時点の価格が一度に下落して、需要供給の一致が回復するのです。
それに対して、ニューケインジアンによく見られる動学的一般均衡のモデルでは、物価なり賃金なり、市場状態を反映して動学的に運動する価格は「ジャンプ」しません。現時点で突然何か需要が縮小するショックがあったならば、それを反映して次の時点の価格が現時点の価格よりも下がるように運動するのです。そして、こうした価格の将来までの運動を予見して、モデルの中の登場人物たちは現時点から将来までの行動計画を建てているのです。
これは、価格の運動の早い遅いを反映した仮定の違いなのでしょうか。
そう思っている人が多いようですが、そうじゃないと思います。
「新しい古典派」のモデルで、需給不一致を反映して価格がその時点のうちにジャンプすることが意味するのは、その価格運動を、モデルの中の登場人物が予見しないということです。需給一致が回復したあと、やおらその後の需給一致状態が続くもとでの価格の動きを予見して行動計画が解かれるのです。
それに対して、新しいケインズ派のモデルでは、需給不一致の結果の価格の運動を、モデルの中の登場人物がみな予見して行動計画を解いています。
つまり、モデルの違いの本質は、需給不一致の結果の価格の変化を、人々が期待に織り込むかどうかということなのです。「新しい古典派」の方がそれを期待に織り込まない仮定をしているのに対して、「新しいケインズ派」はそれを期待に織り込む仮定でモデルを建てているのです。期待に織り込まないならば、変化の過程はモデル上省略して何の不都合もないのでジャンプで表してすむのですが、期待に織り込むのならばその過程を明示的に表さなければならないので、動学方程式で動かすことになるわけです。
だからある意味で、「新しい古典派」では不徹底だった合理的期待革命の精神を、「新しいケインズ派」は徹底させているのだと思います。
だから、動学方程式で表していることが、変化に時間がかかることを意味するのではありません。そもそもこの動学方程式の時間単位が「年」だという必然性は何もありません。
「秒」かもしれません。 だから、ニューケインジアンの動学的一般均衡の多くのモデルだって、物価や賃金がビュンビュン動くことを前提しているとみなしていいのだと思います。小野さんのモデルでは明らかな不完全雇用均衡がありますが、ニューケインジアンの動学的一般均衡にもそういうのはあります。これは価格が粘着的ということが本質的原因なのではないということだと思います。
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