松尾匡のページ
10年10月4日 実は共著が出ていた

 前回のエッセーで災難話をしましたけど、その後もあいかわらずですわ。
 一日のうちに冗談にならないストレスフルな事件が二つもあって晩に下痢をおこした日もあったし、こないだの木曜は移籍後三年目にしてついに新幹線の中にリュックを置き忘れたし。まあこれは博多駅だったから、翌日すぐ取りにいけて問題なかったのだけど。
 今一番困っているのは、いつも持ち運んでいるノートパソコンが、ちょうつがいが壊れてしまって「30度に傾けられない冷蔵庫」状態になってしまっていること。それでもしばらく何かをつっかえにして使っていたのですが、とうとうここ数日画面がときどき乱れるようになってしまいました。それで昨日、これを買った家電店に修理を頼みに持っていったら、担当の外商の人が休みで、「あした来てくれ」と言われてスゴスゴ引き返す...。
 自動車免許持ってないので、カミさんに車で送ってもらったんですけど、カミさん曰く「骨折り損」だったって...。ボクはこれくらいいつも普通の人生なんですけど。巻き込んでごめん。

 さて、前回近著が出るという話をしたのですが、実はその前に、最近共著書が出ていたのでした。

基礎経済科学研究所編『未来社会を展望する──甦るマルクス』大月書店、2800円+税
未来社会を展望する表紙

 この第2章「未来社会の条件としての普遍的人間の形成」を書いています。
 いやこれ、A5版の本で23ページ分書いたのですけどね。けっこうな分量でしょう。京大の大西広さんから加われと言われて承知したのですが、すっかり忘れていて、締め切りをはるかに過ぎてから催促されてやっと思い出し、二日ほどで無から書き上げなければならなくなって切羽詰まりも大詰まり。
 「引用すればいい!」
と思いついて、『資本論』からの引用だらけでページ数をかせいだ原稿になりました。
 それで何とか間に合ってほっとしたのですが、その後ほかの人の原稿の調整や出版社との交渉でかなり手間取ったみたい。大西さんのお骨折りは大変だったと思いますが、あんなに急いで書く必要はなかったじゃーんというその後の進み具合でした。

 まあでも、出来上がってみるとこれはこれでいい仕事をしたと思います。
 マルクスは、工場制手工業に対しては、職人が分業に特化するのを階級支配の基礎としてとてもネガティブに評価しているけど、機械化大工業に対しては、労働者が単純労働者になっていろいろな仕事をさせられるようになることをプラスに評価している。それが階級支配なく労働者が共同経営できるようになる条件とみなされているからだ。──こういう話で、ボクは今までいろんな本や論文でこのことを述べてきましたが、通説の言っていないことを主張しているわりには、これまでちゃんと引用して証拠を見せたことはなかったです。
 まあ、たいていは入門書だからということもありますけど、専門書である『近代の復権』でも、多くの箇所ではマルクス、エンゲルスのテキストの該当箇所を註でページ指示しただけです。
 そういうわけで、一度はきっちり引用して見せる必要はあったわけで、いい機会だったと思います。

 この本、けっこうその筋では有名どころの個性の強い人たちを集めたにしては、すごくかっちりと体系だった本に仕上がっていて、びっくりします。
 まあ、もちろん、大西さんが一人でかなり強引に編集している成果なのですけど、でも、大西さん個人の考えにみんなが利用されたというわけでもなくて、大西さんの主張からもある程度自立して、ひとつの体系に組み上がっているところが、おもしろいところです。

 マルクスは、資本主義の発展の中に、次にきたるべき未来社会の条件が作られることを見ていました。それが何か、資本主義のどういう点がそれを作るのかというのがこの本のテーマです。伝統的なマルクス解釈なら「生産力の発展」の一言でしたけど、そんな単純な話じゃないぞということです。
 つまり、未来社会を運営できる人間とその営みが資本主義のもとで作られるという展望です。

 第I部「未来社会と人間発達」は、マルクスの展望した未来社会がどのようなもので、資本主義のどのような点がそれを可能にする人間を作るのかということを、総論的に論じたものです。
 まず第1章は、大谷禎之介さんが書いていらっしゃいます。「アソシエートした諸個人の生成と発展」ということで、マルクスの未来社会を、自由、対等な諸個人による水平で意識的な結合と見極めた上、それを担う主体が資本主義的生産そのものによって、さらに過渡期を通じて形成されていくとするマルクスの展望を明らかにされています。
 ボクの第2章はそれを受けたもので、資本主義の発展による、労働者の共同経営能力の形成という点から、『資本論』第1巻の11〜13章を説いたものです。
 第3章の神山義治さんの「世界市場のなかでの人間の発達」がまたすごい。一語も無駄のない濃厚に凝縮された文章で、まあ読みにくいことこの上なくて、筑摩のIさんに編集させたら発狂しそうですけど(笑)。
 でもおっしゃっていることは全く正しい。資本主義市場経済が個人を自立させ、欲求を多様化し、人権意識を作り、民主主義を深化させる。特にグローバル市場経済は、普遍が個人から一人歩きする疎外の極致なんだけど、諸個人がこれをコントロールしようとしては失敗する試みを繰り返すことが、諸個人の力量を鍛えていく。だからグローバリズムと新自由主義は、諸個人に対する敵対の極致であると同時に、進歩の極致であって、これをコントロールせんがために、グローバルに連帯する国際主義が不可欠になることによって、まさに「世界史的諸個人」が作られるのだ。──すばらしい。拙著『近代の復権』で言いたかったことの要約ですな。

 そうした上で、資本主義の発展の中にマルクスが見た未来社会の具体的萌芽を、本書では、「協同組合」と「株式会社」の二者にまとめます。ここで「協同組合」というのは、今で言う「労働者協同組合」。つまり、労働者が自分たちで民主的に企業経営をする試みのことで、マルクス以後の時代には失敗してしまって流行らなくなった時代が続いたのですが、マルクスの生きていた時代には少なからぬ試みが見られました。マルクスは、協同組合を「積極的な」、株式会社を「消極的な」、資本主義の乗り越えとみなしていたのです。

 第II部「未来社会と非営利協同セクター」では、このうち「協同組合」の方を、現代的なNPOなども含めて位置づけたものです。
 第4章「マルクスと生産協同組合」は、小松善雄さんと、増田和夫さんと、荒木一彰さんの共著になっています。小松さんは、資本主義のもとで労働者協同組合を下から発展させていくという変革路線を、これまでマルクスに基づいて根拠づけてきた第一人者です。今回も、国家主導の国有指令経済ではないマルクスの社会変革像がコンパクトにまとめられています。
 第5章「未来社会と人間発達のための民間非営利組織」では、非営利協同セクター論の第一人者である富沢賢治さんが、現代における労働者協同組合などの発展の現状を、日本と欧米の事例からまとめておられます。

 第6章は日本における協同組合研究の第一人者である的場信樹さんが「企業形態論からみた協同組合と株式会社──社会制度の進化についての一考察」と題する論文を書いておられます。
 これは、この本の要になるような論文です。的場さんは現実の協同組合のいろいろな深刻な課題を熟知した立場からこの章に臨んでおられるのだと思いましたが、「『協同組合か株式会社か』という二者択一的な議論を克服することを課題」とすると位置づけておられます。そして、マルクスの未来社会呼称と同じ「アソシエーション」が、協同組合、株式会社共通の起源であったことを指摘し、両者は同じものから同形的進化を遂げた共通点の多い企業形態であるとしています。
 そして、その両者ともに、規模の拡大と制度化の進行にともなって、当初の「自由な個人の共同性」を失うと言います。特に協同組合の場合、共益組織としての閉鎖性のために社会にむけて組織を開くことに失敗し、1970年代には多くの協同組合が、株式会社に転換するか倒産するかしたということです。その後の、NPOや新しい協同組合の試みは、この点を克服する試みと位置づけられるようです。
 また、株式会社も協同組合もともに、効率化と規模拡大の中で、自由と相互扶助だけでなくて、その裏にあった個人の責任を希薄化させていると言います。そのために、「登記」を第一歩とし、監視や告発の手段などに至る、社会制度への依存=「団体民主主義の民主主義一般への包摂」がもたらされるということです。そして、協同組合から株式会社へ、株式会社から協同組合へという企業形態の循環も「不可避」であるとされています。

 第7章、李炳炎さんの「中国における自主連合労働経済制度の実験」は、中国で進行している国有企業改革で、お金持ちに株式を売って民営化する普通のやり方ではなくて、従業員が株を取得して赤字脱却にも成功した「南京発動機部品会社」のケースを紹介し、これを「自主連合労働経済制度」と名付けて分析しています。

 第III部「未来社会と株式会社」は、今度は株式会社を未来社会の萌芽と位置づけた考察です。
 第8章「マルクス株式会社論における人間性の陶冶」は、有井行夫さんが、この問題についてのマルクスの文献考証を行ったものです。有井さんの文章は、易しく書くための暴力的競争に傷ついた心をいつもいやしてくれますが(笑)、今回も期待にたがわぬ重厚さでいやされる(笑)ものの、いつもよりは画期的にわかりやすかったと思います。理解できたといいきる自信はさらさらありませんが。
 有井さんのマルクス解釈に異議を唱えられるはずはありませんが、ここで明らかにされたマルクス自身の考えは、その後の20世紀の現実からは裏切られたと言えるのではないかと思いました。「所有と機能の分離」の結果、経営者の所得は「監督労働」の熟練賃金になったわけではなく、「ストックオプション」にせよ、日本の大企業の場合のように会社財産を地位に応じて私用できる特権によるにせよ、資本蓄積の成否と直接に結びついた、利潤以上に利潤的なものになり、対する株主配当はただの定額のあてがいぶちとして「費用」と化したのではなかったかと思います。生産手段が経営者にとって他人の所有として疎外されるのではなくて、むしろ法的所有者のはずの株主の方からこそ生産手段が疎外されて、事実上経営者の手の元に自由にされるようになったのではないかと思います。経営者による搾取は、「労働者による労働者の搾取」ではなく、ここにこそ、資本家階級と労働者階級との線引きがなされるようになったのではないかと思います。

 芦田文夫さんの第9章「市場をつうじた社会主義と「株式会社」の役割」では、ローマーらのいわゆる「市場社会主義」の構想における株式会社の位置づけを議論しています。高田好章の第10章「未来社会論における株式会社の現状と可能性」では、現実の資本主義からの社会変革の方向性における、いわば「株式会社を通じる道」を探っています。たとえば、認証制度や、公的な投資育成会社による株取得、従業員持ち株、株主オンブズマン等々があげられています。

 終章の「「能力に応じて働く」原理実現のための「共産主義的人間」の問題について」は、編者の大西さんの章で、歴史的には、まず一旦、お金のためにこそ働く資本主義的人間を形成することを通じて、はじめて、次の段階として、他者に役立つために働く「共産主義的人間」ができると論じています。

 ソ連・東欧体制の崩壊後、「国有中央計画経済」という社会主義モデルは否定されましたが、それに替わる社会主義的変革像としては、当面は資本主義的政治体制には手をつけず、労働者協同組合などの自主事業を下から広げる路線と、社会主義政権を樹立した上で株式会社を大幅に認める路線とが対立してきたように思います。両者はお互い自分たちこそがソ連・東欧崩壊の教訓をふまえていると考えて根本的に対立してきました。
 この本は、この両者を架橋する試みだと言えるでしょう。

 ボクは、労働者協同組合などの路線を提唱し、株式会社に社会主義への萌芽を見る見方には、労働者が経営の決定から排除されている限り懐疑的だったのですが、しかし、たとえ経営者独断だったとしても、経営判断の誤りで事故が起きたり、赤字や倒産になったりしたときに、みんな十分な保障がなされて、賃下げも失業もなく働き続けられるというのであれば、労働者はみなどうぞ勝手に決定して下さいと、よろこんで決定をゆだねると思うのです。
 実際に、従業者なり利用者なりにどのようなリスクがふりかかるかを、できるだけ正確に切り分けて、リスクに応じて決定参加ができるようにすればいいのだと思います。たいして従業者にリスクがかからないような決定は、経営効率のために必要ならば、たしかに経営者の独断にゆだねてもかまわないと思います。
 また、労働者協同組合では閉鎖的になってしまう問題は、株式制度を使ってオープンなものにしていくことは一つの解決方法だと思いますし、既存の株式会社を、社会的責任投資などの株の力を使って社会的なものに変革していく道は重要だと思っています。
 その意味で、株式会社路線との架橋の試みは、今後も必要なことだと思っています。


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