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私の主張6:世界春闘を実現しよう


 80年代以降、世界中の労働運動が戦闘性を失い、労資協調の傾向を強めてきた。また、西北欧各国でかつて高度な福祉国家を築いてきた社会主義政党が、こぞっていまや市場化改革を推進し、自ら進んで社会保障の後退に手を貸すようになってきている。なぜこのようなことになったのだろうか。

 これまで、重工業を基盤とした国家独占資本主義の時代には、先進国の労働者は主に重工業に従事し、発展途上国の労働者は鉱山やプランテーション、軽工業などで働き、両者の間で代替性がなかった。また、先進国内部でも、独占的大資本のもとの中核的な工程は、高度な熟練を持った複雑労働者にしてはじめて担うことができたので、これらの部門の男性複雑労働者と、周辺の単純労働に従事する女性、外国人を含む単純労働者との間に代替性がなかった。したがって、このような時代には、中核的複雑労働者が産業別労働組合や正社員労働組合を組織して賃上げその他の労働条件の改善を戦闘的に要求すると、資本の側としては替わりを見つけることができないので、しぶしぶ譲歩せざるを得ない。たとえ譲歩したとしても、周辺部門や発展途上国の労働者からの搾取を強化すればその埋め合わせはすぐにつく。また、複雑労働者を基盤とした社会主義政権が、課税その他の企業の負担のもとに福祉国家を作ろうとしたならば、資本の側としては負担を逃れようとしても高度な熟練がどこにでも見つかるわけではないから、その国にとどまって操業を続けざるを得ない。こうしてこのような時代には、資本主義体制を根本的にくつがえさなくても、先進国で労働者が闘えばそれなりに譲歩が勝ち取られ、労働者の厚生を改善させていくことができたのである。

 ところが80年代を通じて進行したME化とそれに伴う国際化によって、このような状況は一変してしまった。いまや鉄鋼にしろ造船にしろ自動車にしろ、家電製品も精密機械も、ラテン‐アメリカや東南アジアや南・東欧の低賃金労働で十分生産可能である。だから、先進国で激しい賃上げを行ったり、時短その他労働条件を改善させると、発展途上国製の安いコストで作った製品にたちまち市場を奪われ、先進国の企業は業績が悪化して倒産や首切りが起こることになる。さらには賃金の安い途上国に向けて企業が移転していって、先進国では工場がなくなって労働者が路頭に迷ってしまう。これに対抗するためには、先進国の労働者も、賃上げを抑え、労働強化に協力しなければならない。ストライキなどやってられない。また、ME化のおかげで、企業は中核労働者がうるさい要求をしてきたならば、周辺の単純労働者を替わりに雇ってきてしまうようになった。正社員が退職した後をパートで埋めることも平気でできるようになった。そうすると、やはり中核労働者は企業の言うことをおとなしくきくしかなくなる。そのうえ、高度な福祉を実現するために企業の負担を増やすと、いまや企業はもっと負担の軽い国へ向けて軽々と逃げ出してしまうようになったので、残された労働者は雇用がなくなって困ってしまう。だから福祉も削減し、企業に国内にとどまってもらわなければならない。同じことは環境保護基準や食品の安全性基準についても言える。少しでも企業にとって負担になるようなことをすると、たちまちこれらの基準が低い国へ企業が逃げ出してしまうので、どこの国も競って基準を緩めなければならなくなる。つまり、ゲーム理論で言う「囚人のジレンマ」の状態にあるのである。

 そこで世界中どこでも労働運動がおとなしくなったのである。日本の「連合」路線もこのようにして出てきたのだ。スペイン社会労働党、イタリア社会党、ニュージーランド労働党、そしてブレアのイギリス労働党など、「赤いサッチャリズム」とでも言うべき新自由主義路線をとる社会主義勢力の存立根拠もここにある。

 それに対して対抗するために、さしあたり読者が思いつくのは、国際化そのものを制限する路線かもしれない。賃金国製品の輸入には関税をかけ、工場の海外移転は制限する。しかし輸入品に関税をかけると対抗関税を招き、海外市場を失うだろう。当面大不況になる上、輸入インフレが起こる。外需産業から輸入代替産業への資本移動が起こればよいのだがそうはいかない。企業はむしろ海外へ移転しようとする。海外移転が制限されても企業は新規設備投資をボイコットし、資金を外国で運用するので、いずれ国内の設備は老朽化していく。それに対して資金の輸出を制限するなら、抜き打ちでやらない限り、駆けこみで資金流出が起こり国内通貨は一挙暴落、ハイパーインフレーションへの道を開く。抜き打ちでやってもヤミの資金流出は続くだろうし、国内通貨の信任は失われ、インフレが進行していく。国有化で対抗すると、だんだんと海外との生産性格差が広がり、海外からの情報が入ってくる限り自国が相対的に貧しくなっていくことに不満が高まるだろう。また、財政支出がかさむので、インフレの悪化か利子率の高騰が起き、残る民間部門では倒産や設備投資の減少が起こる。要するに、グローバル化進む今日、この傾向に背を向ける路線をとると、経済破綻は確実なのである。

 かといってこのままでは、各国各階層の労働者が互いに足の引っぱりあいの競争をして、どんどんと労働条件が切り下がっていってしまうだろう。結局このままの場合笑うのは資本の側だけである。ではどうすればよいのか。世界中の労働者が、従来の中核部門も周辺部門も含めて、みな団結して闘う以外方法はない。たとえば世界春闘を行うなど。このためには、世界的な労働運動のインターナショナル・センターも必要になるだろう。こうすれば、もはや競争相手におびえる必要はない。階級的利益のために思う存分闘うことができる。そうして世界中で賃金その他の労働条件の高位標準化を目指すべきなのである。欧州労働憲章はヨーロッパレベルでのこの試みと評価できるが、EUのブロック化につながる危険を避けるためには、これを全世界に広げていくことが求められるべきであろう。

 だからこそ、昨今のグローバル化や全般的「大競争」は、当面いかに世界の労働者に苦難をもたらしていようと、従来の国家独占資本主義にとどまることと比べて決定的な進歩を意味しているのである。これまでは発展途上国や周辺部門に自分達よりも搾取されて苦しんでいる人々を見ても、先進国の中核労働者にとってそれはせいぜいよくて同情の対象でしかなかった。悪くすると自分達への独占資本の譲歩を容易ならしめるために、その抑圧へのあからさまな荷担や黙認が見られた。しかし、これからは自分達よりも搾取されて苦しんでいる人々がいるならば、それは競争を通じて自分達自身を直接脅かすことになる。ここでは自分よりも苦しんでいるものの条件を引き上げることが自分にとって利益になる。すなわち、すべての労働者の利害が一体化する時代がやってきたのである。ここにおいてこそ、19世紀にマルクスが第1インターナショナルなどで目指した、労働者階級の普遍的利害に則った革命的労働運動が復活できるのである。

 考えてみればもともと、マルクスの時代には社会民主主義と共産主義は同じことだった。繊維産業中心の均質普遍な労働構造においては、労働者の自然な利害に直接訴えながら、なおかつ国を超え部門を超えた全階級的革命性を持った労働運動を展望することができた。しかし、重工業が産業の中核になった20世紀には、中核的複雑労働者と周辺の単純労働者の階層利害の分裂が起こったために、中核的複雑労働者の自然な利害に則っていたならば、周辺部門の犠牲の上に体制側から漸進的譲歩を勝ち取るという方針しか出てこなくなる。これがいわゆる「社会民主主義」の潮流をなす。さもなくば、労働者の普遍的利害に則った革命的方針を打ち出そうとするならば、それは労働者の自然発生的な実感に依拠しては受け入れられず、前衛党の知識人が労働者の外で考え出してあとから労働者に注入しなければならなくなる。これがレーニンらのいわゆる「共産主義」の潮流をなした。したがってこの両潮流共に、マルクス主義の一面を受け継ぎ他面を否定しているのであるが、重工業化に伴う新しい物質的条件へのそれぞれ可能な対応ではあった。この大分裂当時マルクス主義の原則を忠実に受け継いだのはローザ・ルクセンブルクの一派のみであったが、現実には彼女の想定する自然発生的革命性を持った労働者階級はもはや存在せず、彼女らの蜂起は容易に弾圧されてしまったのである。

 その後の両潮流の歩みは、いわゆる「社会民主主義」がますます体制内化を進め、いわゆる「共産主義」が出来合いの自然発生的実感への譲歩を続けていく過程であった。主な先進国共産党は、レーニン主義→一国社会主義→ユーロコミュニズムと、中核的複雑労働者の実感への譲歩を進めた一方、周辺部の単純労働者や農民の実感への譲歩を進めた流れは、レーニン主義→一国社会主義→毛沢東主義→ホーチミン→ポル・ポト→サンディニスタ、パレスチナ→先住民族主義などと、幻滅してはさらなる周辺の出来合いの伝統的実感への依拠を進めるということを繰り返していった。この流れは現在たいていはエコロジズムに合流し、しまいにはユダヤ陰謀論を唱えて事実上のナチスにまで身を落としている者もいる。中にはあくまで自然発生的実感への譲歩を拒否し、労働者階級の普遍的利害を考え続ける一派もあったが、現在トロツキズムなどの潮流の一部で細々と引き継がれているに過ぎない。

 今日、いわゆる「社会民主主義」は「赤いサッチャリズム」(赤くもないか!)路線を進めて、純粋資本主義派と区別がつかなくなりつつあるし、いわゆる「共産主義」やその他のかつての急進左翼勢力は、民族自給を求める路線を進めて保守伝統派と区別がなくなりつつあるが、その行き着くところはいずれも破綻であり、左翼的アイデンティティの喪失であろう。結局、紆余曲折はあるかもしれないが、やがては世界の労働者は互いに傷つけあうことの愚かさを悟り、団結して闘うことを学んでいくであろう。そうしてこそ、20世紀初頭に「社会民主主義」と「共産主義」に分裂したマルクス主義が、高次元で再統合されるのである。

 

 


 

 

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