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 02年11月25日 中学校時代の歴史観


荒唐無稽な唯物史観
 僕が唯物史観に最初に目覚めたのは中学3年生の頃だった。1979年から80年の話だ。
 「目覚めた」とは言っても、知ったのは全く伝統的な俗流「唯物史観」だったし、しかもそれを荒唐無稽に自己流解釈していた。
 荒唐無稽には違いないのだが、思い出してみるとホラ話としてはなかなか笑えておもしろいので、ここに初めて公にしようと思う。

俗流「唯物史観」の説明
 普通、マルクス・レーニン主義の教科書に書いてある俗流「唯物史観」の説明は次のようなものである。

中学生の僕が納得したところ
 これを知って僕はこの理論の説明力の強さに大感激した。
 この理論は、ヨーロッパ中世の封建社会の中から商工業ブルジョワ経済が少しずつ成長していき、やがてそれが十分発展したところで、その支配階級であるブルジョワジーが立ち上がって市民革命を起こし、封建勢力の政治支配を打倒して立憲自由主義体制を作り上げた過程をみごと説明していた。
 それだけではない。ローマ帝国の大土地所有奴隷制の中に、解放奴隷を小作人として使うコロナトゥス制と言われる地主制度が新しい生産関係として生まれ、それが従来の大土地所有奴隷制をおしのけて発展していき、その過程でローマの大土地所有貴族の勢力が衰え、新興の地主の勢力が強まり、やがてそれがいきついたところでローマ帝国が崩壊した歴史にもよくあてはまった。
 マルクスがよく知らないはずの東洋史にもよくあてはまった。唐帝国の律令制の中で、新興の地主制が生まれて発展し、その過程で大都市の門閥貴族の勢力が衰えて新興の地主勢力が強まり、やがてそれがいきついたところで唐帝国が崩壊した。
 絶対にマルクスが知るよしもない日本の中世にもあてはまった。京都の大土地所有貴族の支配のもとで、田舎で現地支配を行う新興の地主経営が現れ成長してくる。その地主階級が武士で、やがて貴族の勢力が衰え、武士の勢力が十分強まったところで、源頼朝が旗揚げして鎌倉に武士の政権を作った。ぴったりである。
 実はちょうどNHKの大河ドラマで、頼朝の妻北条政子を主人公にした「草燃える」をやっていた頃で、俳優達にそれぞれの霊がとりついているかというくらいの名演だったのだが、そこに描かれた貴族階級対武士階級の虚々実々の闘いを見て、唯物史観への確信を大いに強めたのだった。

中学生の僕が納得できなかったところ
 しかしこうして「唯物史観」の公式を理解すると、マルクス・レーニン主義の教科書の説く説明にはどうしても納得できない点があった。

 最たるものは、なぜ資本主義社会を打倒して次の社会を作る主体が労働者階級なのかという点である。窮乏化するからと言われても、しいたげられているからと言われても納得できなかった。
 奴隷制社会にも奴隷主と奴隷の階級闘争があった。奴隷は窮乏のもとでしいたげられていた。しかし、奴隷制社会を倒し次の社会を作った主体は奴隷ではなかった。奴隷制の生産関係とは全く別の生産関係を担う、中間階級的な新興の支配階級だった。つまり現地経営の地主、日本では武士である。
 封建社会にも領主と農奴の階級闘争があった。農奴は窮乏のもとでしいたげられていた。しかし、封建社会を倒し次の社会を作った主体は農奴ではなかった。封建制の生産関係とは全く別の生産関係を担う、中間階級的な新興の支配階級だった。つまり商工ブルジョワジーである。
 だとしたら、資本主義社会を倒し次の社会を作る主体を労働者とすることは、奴隷制を倒し封建制を作る主体を奴隷とするのと同様、封建制を倒し資本主義を作る主体を農奴とするのと同様、誤りではないか。資本主義を倒し次の社会を作る主体もまた、従来の生産関係の一方を担う被支配階級ではなくて、資本主義の生産関係とは全く別の生産関係を担う、中間階級的な新興階級なのではないか。

 また、資本主義の次の社会が階級の無い社会主義社会であるというのも、すぐには納得はいかなかった。いったい何を根拠にそんなことが言えるのか。原始共産社会→階級社会→高次の無階級社会という「否定の否定」の法則は理解するが、やがて未来にはいつか無階級社会が復活するにしても、それが資本主義の次という根拠はないだろう。

 僕はその時マルクスは間違っていたと考えた。僕だって、資本主義を倒し次の社会を作るのが、資本主義のもとでしいたげられ、不屈に闘っている労働者階級であるならばどれほどいいだろうと思った。しかもその暁に築き上げられるのが階級の無い社会主義社会ならば、どんなにいいだろうと思った。でもそれを理論的に正当化する根拠は、唯物史観からは与えられないと思っていた。マルクスは僕自身にもある正義感に目がくらんでしまったのだと思った。
 仮に、封建社会ができたばかりのときに生まれた人が唯物史観を把握できたとして、その人がまだブルジョワ経済がろくに生まれもしていないときに、次の社会を作るのがブルジョワジーで次の社会は資本主義だと予言できるだろうか。できるはずがない。目の前で現実に苦しんでいる農奴の階級闘争に期待して、封建制を倒すのは農奴であってその暁には解放された農民による共和国がやってくると予言してしまって当然ではないか。マルクスもそれと同じだったのだ。そう僕は思った。

 実は、資本制を打倒する変革主体が労働者階級で、その変革によって無階級社会が作られるというマルクスの命題は、十分な根拠を持っていた。それに気付くのは実にその7年後、大学4年生のときである。その内容については僕の著作の「近代の復権」か本サイトの「研究内容2」をご覧いただきたい。

やっぱり次は無階級社会と考えた荒唐無稽な根拠
 でもそのとき結局、やはり資本主義社会の次は無階級社会になるのだと考えた。
 その根拠が荒唐無稽で傑作である。
 ここで僕は、支配−被支配関係に、「契約的」なものと「一方的」なもの、さらにモノとして扱われる奴隷的なものを区別する概念区分を作り出した。「契約的」という意味は、選挙などで支配を依託したり、主従契約に基づいて支配−被支配関係が発生するものであり、「一方的」とはそのようなものなしに当然のように支配−被支配関係が発生するものである。
 さて、奴隷制社会は、契約的支配階級である支配的有力市民と、契約的被支配階級である奴隷主大衆と、一方的被支配階級である自由民の庶民と、奴隷的被支配階級である奴隷の四階級からなっていた。
 封建制社会は、契約的支配階級である王侯と、契約的被支配階級の小領主である騎士・一般御家人と、一方的被支配階級である農奴の三階級からなっていた。
 資本主義社会は、契約的支配階級である資本家と、契約的被支配階級である労働者の二階級からなっている。
 四、三、二ときたから次は一だ。だから必然的に次は無階級の社会主義になるのだ。生産力が発展するにつれて、一方的で厳しい被支配の形態から順に一つずつ階級がなくなっていくのだ。
 よくこんな理屈で自分を納得できたと思うが、まあまだ若かったし、やっぱり願望が強かったのだな。

次の社会を作るのは科学技術者?
 で、その、無階級社会という意味での社会主義社会をもたらすのは誰になるのか。
 唯物史観の公式によれば、生産力の発展の結果、資本主義が時代遅れになり、無階級の生産の方が適合するようになるはずである。これは何を意味するのか。当時はITはおろかMEという言葉もなかったが、僕はやはり、コンピュータやロボットが導入されて極端なオートメーションがもたらされることを意味するのだと考えた。それはもはや労働者に命令して働かせて動かす必要はない。人間の仕事はコンピュータをプログラムし、全体システムを設計する仕事だけになる。これは、全体的判断を要する経営的な仕事である。そこに働く人々が民主的に企業を自主管理する生産様式こそがふさわしい。経営する資本家と働かされる労働者に階級が分かれる資本主義的生産様式に変わって、全員が経営する無階級の社会主義社会がやってくる。
 これからオートメーション化が進むにつれて、このような社会主義的生産関係が次第に下から現れて広がっていくだろう。そう考えた。
 だからこの新しい生産関係を担う新しい階級勢力は、科学技術者だ。ちょうど京都の貴族が名目上所有する荘園を現地で実質的に経営する地主が、やがて台頭していったように、これからのオートメーション企業は、名目上は資本家の所有でも、実質はそこで働く科学技術者の共同管理にまかされざるを得なくなり、やがてそれが事実上の所有になっていって、彼らの勢力が台頭していくのだ。この台頭が十分進行したところで、古くなった名目上の所有を正当化する政治・法制度が邪魔になり、科学技術者階級が革命に立ち上がって自分達に都合のいい政治体制を打ち立てるのである。奴隷反乱が奴隷制の崩壊を早め、農民反乱がブルジョワ革命の同盟者となったように、労働者階級の闘いは科学技術者の革命を推進する同盟者となるだろうという点で進歩的である。しかし、奴隷や農奴の場合と同じく、労働者はそれによって政治支配を獲得するわけではない。奴隷が解放されて農奴になり、農奴が解放されて労働者となったように、労働者は解放されて、科学技術者階級に吸収されていくのである。
 このように僕は考えた。
 実はこのように考えるようになったヒントの一つは、チェコスロバキアの68年の「プラハの春」にある。共産党のドプチェク第1書記らが推進したつかの間の自由化、民主化である。ソ連軍の戦車に押しつぶされたとは言え、このときなぜチェコスロバキアで企業の労働者自主管理も含む真に社会主義的な実験が可能になったのだろうか。同国は東欧では唯一戦前から発達した資本主義国で、資本主義的生産力が最も発展していたことが理由に違いない。そう思っていた僕は、「プラハの春」を推進する原動力となった勢力が科学者・知識人であったことを知ったのである。今から思えばかなり「プラハの春」も過大評価していたのだが、これがきっかけとなって、科学技術者を次の社会への変革主体とみなす理論ができあがっていった。
 後年、知識人としての自己への激しい自己嫌悪の時代を経る自分史から見ると、なかなか感慨深い「牧歌的」見解である。

ものすごく暗い近未来観
 しかし、当時の以下のような歴史観はとても「牧歌的」とは言っていられない。
 それは何かと言うと、奴隷制社会と、封建制社会は、それぞれ前半と後半に分けられて、前半は合議的、後半は専制的になるという「法則」を発見したのである。それは、上述の「契約的」支配−被支配という新概念と関係するのだが、前半はその契約関係が比較的機能していて最上位支配階級の支配は一方的でないのだが、後半は契約関係が空洞化して一方的支配になってしまうと言うのである。
 奴隷制社会の場合、前半がギリシャ・ローマの共和制、後半がローマ帝政。日本の場合は前半が氏姓制、後半が律令制だと言う。これはかなり苦しい。さらに中国の場合、前半が周までの諸候「封建」制で後半が律令制というのはさらに苦しいが。
 封建制の場合、西欧では前半が中世の契約的封建制、後半が絶対王政。日本では、前半が鎌倉合議制や室町の守護連合政権、後半が江戸時代の幕藩体制だと言う。
 さてそうすると、当然、資本主義もそうなるという発想になる。現在までの資本主義は資本主義の全時代のうちの前半なのだというわけである。まがりなりにも資本家と労働者の間には契約関係が機能し、基本的人権も政治的民主主義も認められている。しかしこれは、ギリシャ・ローマの共和制がそうだったように、西欧や日本の中世の君主権が諸候の合議と契約の上に成り立っていた時代がそうだったように、永遠ではない。契約関係が形骸化し、労働者が一方的支配を被るようになる時代が、政治的民主主義がなくなり専制政治の支配が続く時代がやがてやってくるのだ。
 しかもその時代は、ローマ帝政や絶対王政や江戸時代のように、200年から400年は続くということになるのだ。
 僕はこれが歴史の必然だと思い込んだ。しかしその当時から僕は自由がなによりも好きだし、筋金入りの民主主義者のつもりだった。そのような自分の価値観と、このような暗い必然法則をどう調和するのか。自分はこのような歴史の必然の中で、どうこれから主体的に振る舞うのか。自分の価値観に基づいて民主主義を追求して行動することは歴史の必然に逆らう無駄なのだろうか。

現代ルネッサンス論
 そこでひねり出したのが「現代ルネッサンス論」である。
 各社会構成体の前半合議制時代と後半専制時代との間には、ごく短い期間、次の社会構成体を先取りしたような早熟な体制が出現することがあると言うのだ。
 例えば中世封建制と絶対王政の間には、ルネッサンス時代があり、このとき、北イタリアではブルジョワジーが権力を握った共和制自由都市が出現した。同様の自由都市はヨーロッパの各地にも見られた。日本でも、鎌倉・室町の合議制封建社会と江戸幕藩体制の間には、堺や博多はじめ各地でブルジョワジーが権力を握った共和制自由都市が出現した。これは次の資本主義時代のブルジョワ自由主義体制を先取りしたようなものである。
 そうすると、階級社会の各構成体が前半と後半に分かれる理由も説明がつく。前半の合議的体制が本来の体制なのだが、やがてそのもとで新しい生産関係が育ってきて、それをリードする階級が力をつけてくると、彼らは勢いに乗って一時権力まで握り、旧来の支配階級全体に脅威を与える。そこで、上位支配階級が一方的に強権を握る専制的体制によってその脅威を乗り切り、支配階級のうちの下位階級もそれを容認せざるを得なくなるというわけである。
 現代も同じことが起きると言うのだ。現代は資本主義の前半合議制時代の末期にあたり、科学技術者が権力を握った早熟な社会主義体制がこれから登場するだろう。それは研究機関、特に大学が、中世の自由都市のように自治権を獲得し、共和制的自主管理をすることでもたらされるのではないか。政治権力も資本家も、科学技術者の力を認めざるを得なくて、このような自治を許し、そのもとで早熟な完全オートメーションによる自主管理的生産がなされるのではないか。
 この早熟な社会主義はいずれ抑え込まれてしまうのだけれども、それまでに、できるところまで美しく、徹底的に、この社会主義創造を押し進めよう。それが何百年後かの本格的な社会主義への移行に際して、それをスムーズに推進する助けとなるのだから。
 これが僕の主体的スローガンになった。

ソ連体制の位置付け
 さてそうするとどうにもおさまりが悪いのがソ連型体制の存在である。
 僕にとっては当時から、ソ連が社会主義のはずがなかった。だいたい資本主義のもとで生産力の発展がいきついた後で社会主義になるというのが唯物史観の公式なのだから、資本主義的生産力が全く遅れたロシアで社会主義が実現できるなど、唯物史観からしてありえるはずがない。しかもその当時から僕にはソ連に階級があることは明々白々だったのだから。
 だから僕は、ソ連にせよ中国にせよ、「社会主義」と名乗っている国々の体制を、当時からすでに「国家資本主義」と呼んでいた。
 しかし、どうにも前半合議的体制に入れられそうにない専制的な「国家資本主義」体制を、どのようにこの歴史観の中に位置付ければよいのだろうか。
 そこで考え出したのが、「周辺独裁論」である。
 生産力発展の先頭を行く中心諸国が前半合議体制にある時代、その影響を受けながらも、生産力発展に遅れた周辺国では、中心国の合議体制と並行して、早急に中心国に追い付くための独裁体制がとられる。中世西欧の合議制と並んで、ビザンチン帝国やロシア帝国の専制が見られたのはそのためだ。こういうわけである。
 ソ連や中国の体制は、資本主義時代の中心諸国合議体制段階で、その発展に追い付くために周辺諸国でとられる独裁体制なのだ。ビザンチン帝国やロシア帝国が合議的封建制になることなく、中心国の絶対王政段階に同化したように、ソ連型体制も西側同様の民主体制になることなく、西側が独裁化するのに合わせて独裁体制が続くのだろう。
 このようななんとも言えない悲観的な見通しを持っていた。もっとも一旦は「現代ルネッサンス」で革命が起き、短い民主体制を謳歌することは期待したのだが。
 ソ連型体制が市民革命で倒され、西側同様のブルジョワ自由主義体制になるだろうという見方になるのは、大学4年生のときのパラダイム転換に至ってのことである。なんとかぎりぎり間に合ったという感じである。

 まあこんな感じで、僕は「15で世の中を分かってしまった」ような気分になったわけだが、この荒唐無稽の歴史観がどのようにその後変わっていったのか。それはまたの機会にまわそう。
 
 
 


 

 

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