松尾匡のページ
研究内容2:
マルクスの近代システム認識から見た現代資本主義と非営利・協同ネットワーク
1.マルクスは近代のどこを肯定したのか
2.現代資本主義における「近代の復権」
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逆行の百年=20世紀のはじまり:上記のマルクスの展望は、しかし実現しなかった。それは「労働者は貧しくならなかった」式のマルクス批判よりもはるかに深刻な要因による。
19世紀末「大不況」を通じて進行した重工業化の結果、エンゲルスの死(1895)の直後より、資本主義は全く新しい段階、独占資本主義の段階に入った。経済の中核が繊維産業から重工業に移り変わったため、労働力構造の中心が、それまでの女性、児童を主力とする単純労働者から、重工業部門の単能熟練労働者へと転換したのである。彼らは互いに異質な仕事に従事し、一生のうちに職業を変えることもなくなった。そうした人々が、繊維産業と違って様々な異質な工程がひとつの巨大な協業体の中に有機的に組み合う中で、一緒に組織的に働いていかなければならなくなったのである。また、ホワイトカラーのような事務労働者も必要になる。他方で依然として単純労働も必要である。
このように、互いに理解しあえない全く異質な労働に従事する人々が、巨大な組織的依存関係におかれることになったのである。当然、こうした場合には、疎外発生の公式によって、人々は社会的依存関係を自発的合意に基づいて組織することができなくなり、一部の人の階級支配を受け入れることによって世の中が回るということにならざるを得ない。そこでこの時代、マルクスの時代には不要になっていった資本家の支配が、再び必然になったのである。ただし今度復活した資本家は、専門的経営テクノクラートである。
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近代の本質に反する逆行の長期化:労働構造に限らずどの面を見ても、この段階においては、近代の本質である世界の普遍化は容易には貫かれなくなってしまった。マルクスの時代においても、近代の本質はそれと逆行する資本制的形態を通じて歪曲されて現われ、そうした歪曲を平均した長期においてはじめてその本質の貫徹を見ることができたのだが、独占資本主義段階に入ると、この歪曲が長期化してしまうようになったのだ。
例えば、均衡的な生産配分をもたらす均等利潤率価格は、長期においてもなかなか実現されず、利潤率格差をもたらす独占価格が維持される。また、後進国へ資本主義が拡大しても、現地の前近代的システムの破壊と先進資本主義への同化はなかなか実現されず、逆に地主制や絶対主義などの前近代的システムが先進資本のために利用され、固定されるようになる。そして先進国複雑労働者への資本の譲歩を可能にするために、後進国からの収奪が利用され、双方の労働者の間の格差、異質化が進行してしまう。小農民や自営業者なども資本制の発展によって没落して単純にプロレタリア化するのではなく、かえって没落せず滞留してしまうようになる。
19世紀のように完全に個人にまでバラされたときには、それを媒介する疎外態は無人格な市場や法の支配となるが、いまや人々は前近代同様互いに異質な諸集団に閉じ込められるので、それを媒介して社会に秩序を与えるためにはもはや市場や法ではうまくいかず、特定の人為に頼らざるを得ない。すなわち、金融寡頭制や国家官僚による社会の支配が必然となるのである。この完成形こそが、国家独占資本主義にほかならない。
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現代における「近代の復権」:ところが今日、1980年代を通じて進行したME化を基礎にして、国家独占資本主義段階から全く新しい段階への資本主義システムの転換が進行しつつある。私はそれを「世界的自由競争資本主義」と名付けている。これへの移行は、80年代初頭のレーガン、サッチャー、中曽根らの政権による民営化、規制緩和政策によって端緒を付けられ、これらの政権の国家主義的性格をのりこえる形で、ソ連・東欧体制の崩壊や世界各地の独裁政権の打倒を伴いながら、80年代終わりから全面化したものである。ここにおいては、個別資本は、一旦国民経済を介するのではなく、そのまま直接に世界市場に登場し、国境の壁も業種の壁も軽々と超えて、激しい競争をくりひろげることになる。そうして、世界の至るところで、国家介入的、競争制限的システムを崩壊させている。政策の違い、慣行の違い、文化風習の違いまでもが、この世界市場の一体化の中で邪魔ものになり、つきくずされていっている。ME化によって熟練は解体され、正規労働者はパートにおきかえられ、工場の海外移転や国際労働移動が進展し、激しい国際競争の中で、世界中の労働者の労働条件が低いほうへ向けて標準化されてきている。要するに、マルクスが19世紀半ばに見た近代資本主義の本質=世界の普遍化が復活したのである。それは当然、過去百年の間失われていた共産主義的変革の条件の復活を意味する。(「私の主張4」)
参照:『近代の復権』第1章 業績一覧著書No.4(著書)
3.20世紀の成果=消費の社会化
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「大競争」を推進すべきなのか:しかしそれならば共産主義的変革を望むものは、目下の世界的自由競争資本主義への転換を推進し、その結果世界中の労働者達が、19世紀マンチェスターのスラムで見られたごとき単純均質で生存維持的生活をするにまで、待っておくべきなのか。
そうではない。マルクスには人間の相互依存関係の拡大深化を肯定的に評価する基本的な姿勢があるのだが、この基本姿勢に照らすならば、重工業化と独占段階への移行にともなって、ある決定的な側面において進歩があった。もちろん、依存関係の範囲の拡大や労働の生産力の発展は言うまでもないことであるが、そういった側面は今後も放っておいても資本主義の発展と共にますます進行していくだろう。だがそうではなくて、世界自由競争資本主義が暴れ回るに任せておいたならば、せっかく独占段階にはいって獲得した成果が破壊されてしまうという、そういう側面での進歩があるのである。それは、独占段階にはいって、消費が社会的意識的性格を持ったことである。
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19世紀近代資本制による、消費の感性的私事への純化:実は、マルクスが19世紀当時認識していた近代資本制の発展は、それと逆の傾向をもたらしていた。すなわち、前近代においては消費は生産活動と不可分で、結婚も生殖も養育もあらゆる生活の部面が、生産や技能の再生産のために社会的意味を持っており、それゆえ各自の属する特殊集団の因習や家父長の規制のもとに営まれるものであった。それが一転、近代資本制が機械化と自由競争によって技能を無用にし伝統的集団を破壊し去ったことにともなって、消費は社会的総労働の一環としての意味を失い、単なる生理的再生産にまで切り縮められてしまうことになる。これを「窮乏化」と言ってもよいのだが、裏を返せば消費が個々人の感性のおもむくままの私事になったという点で、個々人にとって自由な活動になったのである。しかも、これによって消費から調整不能な文化性が除かれたために、社会的総労働を万人が納得するように計算することが可能になる。それゆえ、いわゆる「窮乏化」の論点は、普通言われるように資本主義の害悪を告発することに意図があると解釈するのは一面的であり、共産社会実現を可能にする条件を資本主義の発展が作り上げるという積極面の指摘こそがその本質的意図なのである。
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共産社会二段階区分とマルクスの近代消費観:実はマルクスが共産社会を、第1段階(社会主義社会)と本来の段階とに区分したのは、私の解釈では、上述の近代消費観がその前提にある。一般にはこの段階区分は、『ゴータ綱領批判』に従って、分配様式によってなされるのが普通である。すなわち、「労働に応じて受け取る」のが第1段階、「欲求に応じて受け取る」のが本来の段階とされる。しかし、『経済学批判要綱』や『資本論』第3巻では別の段階区分が見られ、私はこちらのほうが本源的で、分配様式による区分はここから導き出されるものと考えている。すなわちそれは、自由時間増大による段階区分である。生まれたばかりの共産社会ではまだ労働時間が生活の中心だから、人間の依存関係を司る必然性を無視できず、それゆえその必然性=価値法則を意識的に適応した「労働に応じた」分配様式がとられる。しかしやがて生産力の発展によって労働時間が減り、自由時間が生活の中心になると、人間は人間の依存関係を司る法則から自由になっていき、分配は自由時間の活動にあわせて「欲求に応じた」様式でなされるようになる、と言うわけである。この展望の前提にあるのは、労働は社会的依存関係の中で行われなければならないが、自由時間はそうではないという認識である。この認識は、近代資本制によって消費から社会的強制の要素が一掃され、消費が個々人の感性の自由に任されたという上述の認識を前提してはじめて成り立つ。
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独占段階以降の消費の社会化・意識化:しかしマルクスの展望はこの点においても、独占資本主義段階にはいってからの現実に裏切られることになる。重工業化によって労働力構造の中心が複雑労働力によって占められるようになると、消費活動は単なる生理的な再生産活動だけではなく、複雑労働力商品を生産する活動という意味も持つようになる。すなわち、消費活動が社会的総労働の一環として意識的に成されるものとなるのである。この結果、消費はもはや個々人にとって自由な感性的私事ではなくなる。典型的には教育に見られるが、医療にしろ結婚や生殖にしろ、いまや労働時間以外でも生活の様々の部面が社会的依存関係の中で営まれるようになるのである。
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独占段階以降の消費の疎外:にもかかわらず、あいかわらず消費は各家計の孤立分散的な判断に基づいて、私事としてなされている。それゆえこの場合には、疎外発生の公式に基づき、消費活動もまた人々の合意によって自由に行うことはできず、人々の外に現われる疎外態の強制に基づいてなされることにならざるを得ない。しかもその疎外態は、労働力商品の特殊性のために、純粋な市場メカニズムというわけにはいかない。かつて近代資本制が破壊したはずの様々な前近代的システムが、複雑労働力商品生産を社会的に媒介するための疎外態として復活することになるのである。家父長主義的家族、文化的因習的な消費の強制、国家権力による恩情的生活管理などがそれである。
すなわち、19世紀英国では労働力の主力であった女性が、いまや複雑労働力生産専従の労働者として家庭に戻り、女性の男性への家父長主義的従属が復活する。それゆえ結婚はもはや感性のおもむくままの自由な私事ではなくなり、複雑労働力の再生産保証のために意識的に強制されるものとなる。出産や育児、教育も感性のおもむくままの自由な私事ではなくなり、ちょうど小商品生産者が市況をにらみあわせて生産を調整するように、複雑労働力商品市場の強制に服してなされるものとなる。複雑労働力商品生産のための一種の生産手段として、持ち家や自家用車などの耐久消費財投資が行われるようになり、それはちょうど機械が資本家を下僕にして労働者に君臨するように、複雑労働者とその家族を振り回すようになる。要するに、本来ヒトが財産を生み出したはずなのに、逆に財産のためにヒトが生まれ、ヒトが生きるようになる、このような疎外が労働者の家族生活全体をとらえるようになるのである。そしてその外側に、同様に物象的関係に疎外された性である売買春が、複雑労働力再生産のための社会的総労働の一環として形成される。
そして、一般商品生産者が自己の商品を売るために、その本来の品質に力をいれる以上に、店舗を飾り、包装に気を使い、宣伝広告に資金をつぎ込んで商品イメージを高めようとするのと全く同様に、複雑労働力商品生産者も、労働力商品それ自体の品質のために力をいれる以上に、服装・身だしなみを整え、持ち家や自家用車をできるだけ立派なものにし、結婚式その他の因習的儀式に巨費を費やし、肩書きや地位を追い求め、高学歴を得ることを目指し、ときにはダイエットのために涙ぐましい努力を払う。こうしたことが、一般商品にとっての包装や広告と同様、市場から強制されるのであるが、一般商品生産者がこの結果自己の生産物にアイデンティティーを持って自らそれを飾りたててひれ伏してしまう(『資本論』に言う「商品物神崇拝」)ように、複雑労働者達もまた、自らの地位や財産や外見にアイデンティティーを持って自らそれを飾りたて、自己の生身を犠牲にしてひれ伏してしまうのである。
そして、資本にとってはこのような複雑労働力生産が順調に保証されることが必要なのであるが、労働力商品の特殊性のために、労働市場の市場調整だけに任せていたのではそれがうまく保証されないので、国家の強制としてそれがなされることになる。それが医療、教育、失業保障などによる国家の生活管理である。特に、1930年代大不況によって複雑労働者が大量失業という形で自己の生産した商品の価値実現の危機に陥ったとき、単に生存の困難というだけでなく、我が生身を犠牲にして築き上げたアイデンティティー幻想の危機を感じた彼らは、自らそうした国家による保護・管理を要請したのである。これが1930年代に、ニューディール型、ファシズム型、スターリン型の各タイプの国家独占資本主義が、あいついで成立したことのひとつの重要なモメントであった。
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疎外された社会的消費の現代資本主義による解体:ところがこのような消費様式も、他の例に漏れず、今日の世界的自由競争資本主義への移行にともなって崩れはじめている。ME化によって熟練が解体され、中間管理職も不要になり、正規熟練労働者をパートに置き換えたり海外移転で安い単純労働力を利用したりする動きが進行している。それと同時並行的に女性がますます労働力化している。こうして、複雑労働力商品生産の場としての家父長主義的家族が解体されはじめている。この動きは、他方でやはりME化によって可能になった家事の外部商品化や自動化によっても支えられている。それとともに、国家による医療、教育、失業保障などの複雑労働力商品生産の保護管理は、次々と後退し、むしろ民間資本の供給にゆだねられるようになってきている。消費様式の因習的型は日に日に崩れ、不定型な変動を繰り返す流行に、資本の側が振り回されてしまうようになっている。すなわち、消費はもはや社会的意識的に強制されるものから、19世紀同様の個々人の感性のおもむくままの自由な私事に還元されようとしているのだ。人々がみな均質で自然科学的欲望だけを持つ単純労働者になることで。
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社会的消費解体をどう評価するか:この傾向はたしかに一面では望ましい。疎外の抑圧から生身の個々人を解放して自由にしようというのがマルクスの根本的姿勢のひとつだから、その立場からすれば消費の疎外された形態をなくして個々人の感性の自由にゆだねることは賛成できることである。しかしマルクスの根本的姿勢には前述のようにもうひとつあって、それは、人間の依存関係の拡大を肯定的に評価するという姿勢である。ここから見れば、20世紀に到達した消費の社会性意識性が再び崩され、孤立分散的私事に戻されることは、後退であると言わざるを得ない。疎外から個人を解放することだけが目的ならば、マルクスはアナーキストに賛成して、自立した小生産者の社会を目指せばよかったはずである。しかし彼はそうせず、資本制によって到達された生産の巨大な依存関係を個々人の合意で運営することを目指して、アナーキストと闘ったのである。この精神に則るならば、消費に関しても、個々人の感性的私事に戻すのではなく、20世紀に到達した消費の社会性意識性はそのままに、それを疎外ではなく、個々人の合意によって営むことを目指さなければならない。
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共産社会二段階区分の否定へ:このことは、マルクスの共産社会二段階区分は今日では否定されなければならないことを意味する。なぜなら、もはや消費活動は社会的依存関係を規律する必然性から自由ではありえないのだから、労働時間短縮=自由時間拡大によって人類の最終的自由を実現するというマルクスの展望は成り立たなくなるからである。人類は、社会的依存関係を個々人の合意によって組織することで必然性を意のままにするという、その程度の自由で満足しなければならないことになる。これは悲しむべきことなのか。たしかにマルクスの時代では、社会的依存関係を個々人の合意で組織できるためには、人々が均質な単純労働者になること以外にはなかった。だから、共産社会の第1段階で社会的総労働を合意で組織するようになっても、それがいかに各自が納得してやっていることであっても、その自由は個性なきルソー流全体主義的自由である。だからこそ、その自由をさらに超えて、社会的依存関係の外で個性が解放される段階を展望せざるを得なかったのである。しかし、今日では社会的依存関係を個々人の合意によって組織するのに、人々がみな均質になること以外の方法がある。それゆえ人類の自由が必然性の洞察利用という段階にとどまったとしても、それほど悲しむべきことではない。いったいその方法とは何なのだろうか。
参照:「共産社会二段階区分論の再検討――マルクスの消費観との関連で」業績一覧論文No.16
「複雑労働力商品生産の疎外論──家族、消費、教育、医療、福祉の一般経済理論へ向けて」業績一覧論文No.35
『近代の復権』第2章、第3章 業績一覧著書No.4(著書)
3.非営利・協同ネットワークの意義
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