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私の主張7:市場でも、国家でも、その中間でもなく


 「私の主張2」で述べてあるように、現在は、国家独占資本主義時代が終わり、世界的自由競争資本主義の時代へ移る転換期に当たる。民営化、規制緩和、国際統合、ソ連東欧体制の崩壊とその私的資本主義への移行、社会保障や労働者保護の後退、などがその一環である。日本の場合、その特有の雇用慣行、企業系列、流通制度、官僚支配などが一挙動揺していることもそれに加えられる。「私の主張4」では、こうした一連の傾向は、マルクス主義の立場からすると、社会主義へ向けた歴史の進歩とみなされるべきであると述べた。それでは我々はこうした傾向を推進するべきなのだろうか。この結果、激しい競争で首切り合理化が吹き荒れ、小農民や零細経営は破産し、ごく一部の金や才能に恵まれたものだけがのし上がるが、お金のない社会的弱者は切り捨てられ、賃下げは普通になり身分保障もなくなり、誰も安定的な将来設計など立てられない時代がやってくる。そんなことに荷担すべきなのだろうか。

 たしかに我々が何もしなければ、紆余曲折の末、結局はそうなるだろう。その結果、マルクスの時代同様の、何も持たない均質普遍なプロレタリア大衆が世界中で作り出され、それによってマルクスの時代同様に、社会主義的変革が可能になるだろう。だが、社会主義的変革はこのような方法でのみなされ得るわけなのではない。今日では、別の、もっと「豊か」な方法によって、社会主義的変革を遂行できる可能性がある。その条件は、ほかならぬ現代資本主義自身が作り出している物質的条件の中にある。

 今日、発達した情報手段を基礎にして、「ヒエラルキー組織」や「市場」と並ぶ全く新しい社会関係が生み出されつつある。例えば企業間ネットワークがその一例である。これは、従来の企業系列と無関係に、企業どうしが必要に応じてコンピュータネットワークなどを通じて情報を共有して事業を進めていくやり方で、従来の親会社-下請けの関係などと異なり、対等で開かれた関係であることに特徴がある。また、バーチャルコーポレーションなどと称して、様々な企業内の任意の個人や部局が、独立な個人も含め、必要に応じてコンピュータネットワークを通じて提携し、あたかもひとつの会社であるかのように活動するという例も見られる。さらに、80年代に機械生産から始まった多品種注文少量生産方式が、今では一般の消費財にまでひろがっている。例えば、ロボットとレーザーカッターを組み合わせて、衣類を安価にオーダーメードする店が流行り出しており、顧客の体系と好みに合わせて、コンピュータ画面に様々な背景を写し出しながら、デザインを決めていくことも普通になされている。そもそも見込み生産こそ商品生産社会(市場経済)の本質なのであり、この傾向はそれを掘り崩す可能性をはらんでいる。こうした新しい社会関係を「ネットワーク」と呼んでおくと、その「ヒエラルキー」や「市場」との違いは下表のように比較できる。
 

ヒエラルキー 市場 ネットワーク
人間関係の直接/媒介性 直接の関係 モノを媒介にした関係 直接の関係
人間関係の具体/匿名性 具体的関係 匿名の関係 具体的関係
人間関係の対等/非対等性 支配従属関係 対等の関係 対等の関係
人間関係の閉鎖/開放性 固定的閉鎖的関係 流動的開放的関係 流動的開放的関係
代表的関係 政府と国民 企業と企業 非営利・協同セクター
支配的な体制 ソ連 アメリカ まだない

 

 国家独占資本主義の解体と世界的自由競争への移行は、ヒエラルキー中心の社会から市場中心の社会への移行なのだが、その展開そのものが、市場中心の社会を超える可能性を生み出しているのである。これは放置しておけば社会の中のマイナーなシステムにとどまり、市場の論理がますます人間社会を覆いつくすことを妨げることはないであろう。しかし、この新しい傾向を民衆の側が積極的に利用し、資本主義市場が暴れ回ることに対抗していくことはできる。それがこれからの時代の社会主義運動の課題なのである。

 したがって、これまで我々は、国家か市場か、それともその中間の適当な混合かということをめぐって争ってきたが、これは問題自身が間違っていたのだということがわかる。ことに、国家中心を指向するものほど「左」で、市場中心を指向するものほど「右」で、その中間のどこかにすべての勢力が並ぶかのような思い込みは、これからは断じて打破しなければならない。

 このような図式が純粋に意味を持ったのは1980年代前半の極特殊な時期だけである。冷戦時代には大枠としてこのような図式が成り立ってきたかもしれないが、もともと国家独占資本主義時代には資本サイドも何らかの国家介入を必要としてきたのである。結局国家独占資本主義時代の対決軸は、国家権力を労働者のために行使するのか資本家のために行使するのかをめぐってできていたと言えよう。80年代に入って、国家独占資本主義の解体過程が始まってから、はじめて、「右」の側が国家介入の撤廃と市場推進的改革を指向し出したのである。ことにこれを強く追求したのが、レーガン、サッチャー、中曽根(そしてアンドロポフも)と言った強烈な国家主義者であったため、いささかアナクロニズム気味の権威主義的秩序重視派と資本主義市場万能派とが同一視されることになったのだが、市場推進的改革が当然労働者階級の激しい抵抗を押し切らないとなし得ないものである以上、その執行のお鉢がまずは「こわおもて」の頑固者達にまわってきたのは理由のあることであった。

 しかし、「市民社会は信頼のならないもので、国家介入をすると皆国家にぶら下がって怠惰に走ってしまうから、国家介入はやめにしよう」というアナクロ権威主義者の発想と、「市民社会は信頼できるもので、国家介入などしなくても、市民の自己活動に任しておけば市場メカニズムが働いてすべてがうまくいく」という新古典派ブルジョワ・エコノミスト過激派の発想は、本来正反対のものであるはずなのに、ともに自分達は同じ「保守派」だと思って疑わなかった時代が異常だったのである。その対立の兆しはこれまでもあった。例えば中曽根政権下の教育改革論議の際、ゴリゴリの保守派を集めたつもりの首相側近ブレーン達が、教育も大いにビジネスにできるよう規制緩和で自由競争を導入しようという者と教育の国家統制を強化しようという者との間で分裂し、議論が先に進まなくなったが、彼らは互いに「なぜこんな主張の者がここにいるのだろう」と疑問に思ったのではないだろうか。サッチャー首相が失脚したのも、欧州統合に抵抗する姿勢がブルジョワジーに嫌われたからだし、97年の保守党の敗北も同じ理由による。今後世界的自由競争資本主義が発展を強め、民族の伝統や国家主権をますます突き崩していくにつれ、この分裂は一層進行していくだろう。日本の「保守」政界も、自民党・新進党あわせて、今後大きく二分されるに違いない。このとき、権威主義的伝統秩序派の方が、資本主義市場のもたらす犠牲を重大視し、規制緩和にせよ農業自由化にせよ慎重な態度を取り、ある程度の国家介入を残そうとし、アメリカ主導下の国連PKOなどには慎重であろうとするだろうから、「市場か国家か」の図式にとらわれた左翼勢力は、こっちの方に親和性を感じるかもしれない。ところがこれこそ最も避けるべきことなのである。「私の主張1」「私の主張4」で述べてあるように、日本が世界統合の傾向に逆らうことは、長期的には孤立化をもたらし、やがて必ずや悲惨な破滅へと向かうだろう。他方で逆に、まだこの保守陣営の分裂が目立たず、緩急の差はあれ市場推進的改革が体制の総意である現状において、その路線にすりよっていくことが「現実化」であるかのように思い込んでいる旧社会党系主要諸勢力の目下のていたらくぶりもまた、「国家か市場か」図式にとらわれた愚挙であると言えるだろう。

 だから、これからは図式を二次元化する必要があるのだ。資本主義指向側、資本家階級の側、強者の論理側を仮に「右」とし、その反対の社会主義指向側、労働者階級の側、弱者の論理側を「左」とすると、この次元軸とは全く別に、国家独占資本主義時代の国家や疑似共同体(会社、系列、業界団体、血縁など)による支配を解体して脱国家、世界統合へ向かうか、それともこれらの旧来のシステムに依拠して民族の自立と独自性を守るかという次元軸が考えられなければならないのである。脱国家、世界統合を指向する側を「前」、国家権力や疑似共同体の利用、民族の自立性の防衛を指向する側を「後ろ」とすると、これからの対決図式は次の図のようになる。

 80年代以降の諸勢力は、基本的に、「前の右」から「後の左」にかけて引いた線の上を、単次元的に右往左往、いや「右往右往」しているに過ぎないと言えよう。他方で近年になって、「後の右」の領域に、旧来の左右から流れを集めて、まとまった勢力が生まれつつある。ところが、「前の左」の領域には、今日目立った勢力はまだ存在しない。私の主張は、この「前の左」を目指せということである。

 それでは「前の左」とはどんな立場なのか。「後ろ」や「前の右」の立場と比較してまとめてみると、次の表のようになる。
 

「後ろ」 「前の右」 「前の左」
重視する社会関係 ヒエラルキー 市場 ネットワーク
重視する主体 国家 民間企業 非営利・協同セクター
農業自由化問題 国家権力による貿易制限 

(コメの輸入自由化反対)

輸入自由化 

(コメの市場開放)

消費者と内外の農民のネットワーク 

(生協-農民の特別栽培米契約、ネグロスバナナなど)

食品の安全問題 国家権力による貿易制限 輸入自由化 消費者運動の国際連帯
障害者福祉 政治権力による保護・管理 

(山奥の施設、生活保護基準による生活管理)

福祉削減 地域のネットワークに基づく福祉 

(グループホームなど)

高齢者福祉 政治権力、血縁共同体による保護・管理 

(山奥の施設、家族の「介護地獄」)

シルバービジネス 

個人の自助努力 (介護保険)

民衆の自主的ネットワークに基づく福祉 

(高齢者生協など)

医療の例 国家による医療管理 受益者負担、規制緩和による医療ビジネス振興 地域のネットワークに基づく医療 

(医療生協など)

外国人労働者問題 外国人労働者の流入阻止 低賃金3K労働として受け入れ自由化 日本人と同じ組合に組織して共通の労働条件の向上を追求する
国際協力問題 対外関与の否定 アメリカ・国連の世界秩序維持への協力 民衆レベルの国際協力、民主化運動への支援
国際競争への対応 

(「私の主張6」)

輸入制限、資本移動制限による労働条件保護 

国ごとの労働条件の独自性尊重

労資協調、労働者保護規制の緩和、賃上げ抑制、労働強化受容による生産性向上 国際化を前提した労働者の国際共闘 、労働基準の世界的高位標準化 

(「世界春闘」など)

産業政策 国有化、国家規制強化 民営化、規制緩和 利用者と従業員による民主的企業運営 

(ワーカーズコレクティブ、ESOPなど)

 つまり、世界の普遍化は歴史の必然であり、是非とも成し遂げられなければならない方向なのだが、現代資本主義がこれを、疎外として、すなわち、個々人の様々な具体的事情を踏みにじる抑圧として強引に実現するのに対して、これからの社会主義運動はこの同じ方向を、個々人の様々な事情を尊重しながら民主的合意によって実現していくことを目指すべきなのである。このことが、発達した情報手段を基礎に、個々人を直接開放的に結ぶネットワークとして可能になろうとしているのである。

 こうしたネットワークを担う部門を指すのに、最近になって「非営利・協同セクター」という言葉が使われはじめたので、一応ここでもこの用法にしたがっておく。もっとも、私は労働者自主管理企業などにおける所得追求を必ずしも否定するものではないので、この「非営利」という語は不正確ではある。また、「非営利セクター」と言えば形式的には、業界団体や官庁の外郭団体や、日本的意味における「第三セクター」などの、実質的には民間企業セクターや行政セクターやその両者のどっちつかずの最悪中間形態に属すべきものをも含んでしまう。もっと適当な呼び方がないかとは思っている。とりあえず、ここでは、労働組合、消費生協、医療生協、高齢者協同組合、各種自主福祉団体、共同の保育所や学童保育や学校、ワーカーズコレクティブなどの労働者自主管理企業、各種ボランティア団体、市民団体、環境保護団体、国際的支援団体などや、これらをつなぐ諸個人のネットワークを指しておく。

 注意すべきことは、もしこうした非営利・協同セクター自体が排他的になって、メンバーをその中に埋没させてしまうならば、決してそれは資本主義の普遍化作用に対抗できず、必ず失敗するであろうということである。資本主義に対抗できるためには、そのネットワークを部署を超え、民族を超えて、資本主義市場に劣らずグローバルに広げていかなければならない。現代の人間の普遍的規模の依存関係を、個々人の具体的事情を尊重しつつ、自覚的合意によって展開できるためには、みなが普遍的個人として自立していることがどうしても必要である。かつてマルクスが展望したのは、資本主義発展の結果として、従来人々を排他的に埋没させてきた共同体が解体されて、パチンコ玉のように均質なプロレタリアートがバラバラと投げ出されることで、普遍的個人が創造されることであった。すなわち、人々が特殊な属性をはぎとられていくことによって普遍化する、「喪失による普遍化」と言える。それに対して、非営利・協同ネットワークから展望できることは、人々が様々な集団に同時に属し、いろいろな個性を持った人々と対等につながりあって生活をつくっていくことで、どの特定の集団にも埋没することなく、しかも自分と違った様々な立場を理解できるようになることである。つまり、様々な特殊諸集団の結節点として個人が創造され、それが様々な他者の属性をわがものとすることによって普遍化する、「獲得による普遍化」である。

 この普遍化様式の違いにともなって、社会主義的変革の方法もまた、我々が目指すべきものはマルクスの考えたものとは違ってくる。マルクスの展望した「喪失による普遍化」の場合、資本主義発展の末にでき上がったプロレタリアートは、なるほど能力としては既に全人類に共通する均質な普遍的存在になりきっているが、現実には商品生産によってばらばらにされていて、労働組合などで部分的なつながりあいがあるだけである。話し合って合意によって日々の生産のしあい方を決めるためのつながりあいは、これから作り出されなければならない。だからまず、経済的土台が資本主義のまま、先にプロレタリアートが政治革命で国家権力を握り、「上から」人々をつなぎ合わせることによって社会主義経済を作り出すことになる。人々の潜在的普遍性は既に完成しているので、一旦つなぎ合わせると全社会的協働の自発的組織が簡単に再生産できるようになり、国家は用済みになる。こうして比較的短期間の過渡期の後、社会主義社会、すなわち、市場も国家もない共産社会の第一段階が実現できる。

 それに対して、「獲得による普遍化」の場合は、人々の能力と現実との普遍性の度合の間に乖離はない。両者共に等しく普遍化途上である。人々は生活のいくつかの側面では自分の加わっているそれぞれのネットワークを通じて、直接の対等な人間関係で生きているが、まだ当面はそれらのネットワークをすべて合わせても全社会的協働をおおいつくしているわけではなく、生活の別の側面ではやはり市場や政治権力に依存する部分を残している。だから、たとえ「上から」政治権力によってつなぎあわそうとしても当面人々の能力を超える部分は残ってしまうし、逆に人々が直接の人間関係で生活を生産しあえる部分といえば、政治権力をまたずとも既に現実に組織されているのである。よってこの場合、労働者が政治権力を握る前から、既にブルジョワ権力の支配下で、経済的土台の社会主義的変革が「下から」進められていくということになる。様々な非営利・協同セクターがそのネットワークを広げて、間の市場関係を少しずつ埋めつくしていって、やがては全世界の社会関係がそこにおおいつくされ、市場も国家もない共産社会が実現される。このような変革が展望されるのである。この長い長い過程の途中では、どこかで労働者がブルジョワ権力を打ち倒して政治権力を握るという事件が、世界レベルでも地域レベルでもおきるであろう。しかし、それは経済的土台の変革が十分成熟した後であって先ではない。そしてそのような政権自体、土台のなかでの非営利・協同ネットワークの展開に有利なような制度的便宜を与えるという以上のことはできないし、する必要もないだろう。

 思い起こして見れば「土台が上部構造を変える」というのはマルクスの唯物史観の鉄則である。中世の農奴が革命で政権をとって近代を作ったわけではないし、古代の奴隷が革命で政権をとって中世を作ったわけでもない。後の資本主義につながるブルジョワ経済は、中世封建勢力の支配下の経済的土台のなかで「下から」発展してきて、やがてその発展が十分成熟した後になって、いまや自らと相入れなくなった封建勢力の政治支配をはじき飛ばしたのだった。そしてその経済を担うブルジョワジーは、封建制の領主−農奴の階級関係の外で育ってきたものなのである。同様に、後の封建制につながるコロナトゥス制(地主−小作制)は、古代ローマ帝国の貴族勢力の支配下の経済的土台のなかで「下から」発展してきて、やがてその発展が十分成熟した後になって、いまや自らと相入れなくなったローマ帝国を崩壊させたのだった。そしてその経済を担う新興地主階級は、ローマ帝国のラテフンディゥム(大土地所有奴隷制)の大貴族−奴隷の階級関係の外で育ってきたものなのである。もうひとつ同様の例を挙げれば、日本の中世の在地地主制度も、律令制の都市貴族の支配下の経済的土台のなかで「下から」発展してきて、やがてその発展が十分成熟した後になって、いまや自らと相入れなくなった都市貴族の支配を排除して、自前の政権を作り出したのだった。そしてその経済を担う武士階級は、やはり都市貴族勢力を支える階級関係の外で育ってきたのである。

 そう考えれば、マルクスの社会主義的変革の展望は唯物史観から見ると例外的である。いまだ社会主義が現実に作られていないところに、当の資本主義の階級関係を担う一方の勢力である労働者階級が、まず政権をとり、後で経済的土台を変革するのだから。上述のように19世紀特有の物質的条件のもとでは、このような展望も合理的なのだが、従来の社会変革と比べて例外的であることは違いない。それに対して、今日展望される社会主義的変革の方向は、従来の社会変革と比べて例外ではなくなる。かつて16世紀に封建制の支配下でプロト工業化と言われる技術革新によってブルジョワ階級が生まれたように、今日資本制の支配下でME化をもとにして非営利・協同ネットワークでつながりあった人々が生まれた。そして、かつて新興ブルジョワ階級の担う商品経済の発展が少しずつ封建制貢納経済を突き崩していったように、非営利・協同ネットワークの発展が少しずつ資本制経済を突き崩していく。かつてマニュファクチュアーの中には国王に取り入って保護下に置かれるものがあったし、逆に封建勢力に取りつぶされるものもあったし、地主や貴族に転身するブルジョワジーもいたのと同様、非営利・協同セクターの中にも、資本主義企業にこびたり、逆に競争して負けたり、資本主義的に変質したりするものがあるだろうが、しかし長い目で見れば、かつてのブルジョワ経済同様、非営利・協同ネットワークも着実に発展していくだろう。そしてかつて十分実力をつけたブルジョワ勢力が封建勢力の支配をうち倒したように、十分実力をつけた非営利・協同ネットワークの人々が資本家階級の支配をうち倒すだろう。かくしてかつてブルジョワ政権のもとでブルジョワ経済が経済全体をおおうまでに発展し、ついに全面的な資本主義社会が確立されたように、非営利・協同ネットワークもまたその自前の政権のもとで社会全体をおおうまでに発展し、共産社会が確立される。

 それゆえ、社会変革は今ここから始まるのである。従来、いわゆる「社会民主主義者」もいわゆる「共産主義者」も両者とも、社会変革は専ら国家権力によるものと考えていた。だから、政権を握る前はただ目下の悪政を批判していればよく、自分からは何もする必要がなかった。しかしこれからはそうではない。消費者の要求にかなった生産物やサービスの供給も、搾取や抑圧のない経営も、民衆が自分達自身の手でやってみることができる。例えば福祉についても、そのサービス提供が非営利・協同セクターによるべきことはもちろん、その財源も極論すれば租税に依存する必要はない。世界レベルから地域レベルに至る全社会的労資交渉で、企業が利潤の何パーセントを福祉基金に拠出するかを交渉し、たりなければストライキなどで闘えばよい。どうしても政権をとらなければうまくいかないことがあるならば、うまくいかないこと自体が人々に思い知らされるまで、まずはとことんやってみる必要がある。

 このようないわば「下からの」社会主義化の方針は、かつてマルクス、エンゲルスのライバルであったバクーニンらアナーキストの主張に似ている。しかし当時のアナーキストは、資本主義による世界の一体化、普遍化作用に反対し、人間の依存関係を縮小させようとしただけに反動であった。結局彼らの展望は、孤立した小共同体としての生産協同組合などを目指しているに過ぎず、社会全体の組織化まで展望したものではなかったために、現実には市場経済の嵐の中で失敗することは確実であった。当時の情報手段のレベルのもとでは、マルクスの「上からの」社会主義化の方針以外に方法はなかった。しかし、マルクス自身、いわゆる社会主義社会においては国家は死滅するものとしていたのである。実は彼が未来社会を指すのに、「社会主義」とか「共産主義」とか呼んでいる箇所は少なく、圧倒的多数の箇所では、「アソシエーション」または「協同組合的」社会と呼んでいる(田畑稔『マルクスとアソシエーション』新泉社)。そこには集権的指令経済のイメージは全くない。自由な人々による協同組合の連合体である。そこに至るまでの過程で国家権力が必要だと考えたに過ぎない。したがって、発達した情報手段によって直接に「協同組合の連合」をつなげていくことができるわれわれにとっては、かつてアナーキストが唱えた「下からの」社会主義化によってマルクスの将来社会展望を実現することができる。「アナーキスト」と言う意味が人間の依存関係の縮小を指向する者という意味ならば、我々はこれからもアナーキストとは断固闘っていかなければならない。しかし、アナーキストという意味が社会変革に国家を使わず、国家のトータルな揚棄を目指す者という意味ならば、これからは19世紀のマルクス主義とアナーキズムの対立は総合されることになる。

 それゆえソ連東欧体制崩壊後よく言われる「大まかなことは計画で、細かいことは市場で」というような「社会主義」像は、全く「国家か市場かその中間か」の図式にとらわれた間違いだということがわかる。非営利・協同ネットワークの発想から言うと、当面はその逆にならなければならない。すなわち、「大まかなことは市場で、細かいことは計画で」。真に社会主義的な計画は、人々が自ら進んで作定に参加できる範囲でしかあり得ない。当面は、総会なり選挙なりでマクロ経済全体の計画を立てようとしても、人々の能力を超えてしまう。結局は、経済情報を集中した専門の官僚に実権が握られ、一見民主的手続きは単にそれを追認するだけということになってしまう。それくらいなら、こうしたことは一切人為にゆだねず、市場メカニズムに任せたほうがいい。社会主義は、目下の情報処理能力からして人々の手の届く範囲から実現されるのでなければならない。例えば、従来の図式にとらわれた人々は、「大規模穀物生産は共有農場で計画的にやればよいが、有機農業などは私有地で市場的にやるべきだ」などと言う。しかしこれは全く逆でなければならない。大規模穀物生産を効率的にやるならば、現状では、資本主義的に市場メカニズムにしたがって行うのが最適である。有機農業のようなものこそ共有制でなされるべきだ。具体的には、都市住民が協同組合を作って近郊の農村に農地を買って、週末に交代で栽培に出かけるという形態が現実にある。消費生協が農家の人達と農地を共有して、産直やグリンツーリズムなどの事業を行うということも考えられる。同様に、「金融やエネルギーなどの基幹部門は国家が統制するが、細かなパンの種類などは資本主義市場に任せる」というのも従来の図式にとらわれた考えである。パンの種類のような、人々が強烈に関心を持っているものこそ、真っ先に社会主義的に決定されるべきものである。具体的には、消費生協とワーカーズコレクティブのパン屋がつながりあって、地域の消費者の要求を直接聞きながら、人々の欲求に応じたパン生産を行っていくなど。消費生協が、人々の各タイムスパンの消費計画を取りまとめ、商品の開発や改良の声を聞いて、労働者自主管理企業に発注し、人々の欲求に基づく生産を行うならば、それはさしあたり原初的であるとは言え、ソ連の計画経済などと比べるとはるかにずっと社会主義的な計画経済である。情報手段が発展するにつれて、そうした労働者自主管理企業の設備投資もまた、見込みによるよりは、もっと確実な人々の消費予定に基づいて決定できるようになる。すると設備投資財の生産もまた、こうした計画のネットワークで行えるようになっていく。こうしてネットワークが拡充していくと、究極的には、全社会的な協働関係を、一人一人が進んで意識的に参加して左右することができるようになるのである。

 

 


 

 

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