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私の主張4 :民営化・規制緩和は社会主義への前進!


 「私の主張2」で見たように、現在は、国家独占資本主義の世界体制が崩壊し、新しい世界的自由競争段階の資本主義への転換の時代に当たる。先進諸国における民営化や規制緩和、社会保障後退や労働保護の撤廃、EUやNAFTAなどの市場統合、ソ連東欧体制の崩壊、発展途上国の独裁体制の崩壊や市場化改革といった一連の出来事がこの一環である。こうして、資本が国民経済を介さず直接世界市場に参加し、全地球を飛び回って激しく競争する時代、いわゆる「大競争」(メガ・コンペティション)とグローバリゼーションの時代がやってこようとしている。私達はこの傾向をどのように評価すべきだろうか。これまでの社会主義的常識によれば、国家独占資本主義時代における市場制限的な国家介入の増大は社会主義的方向への前進であり、それが撤廃されていく昨今の傾向は、社会主義へ向かう歴史的傾向に対する反動で、しょせん一時的な逆行に終わるだろうとされてきた。だがはたしてそうなのだろうか。

 この際、私が思い出すのが、マルクスやエンゲルスがデビューした当時の状況との類似性である。当時も今と同様、重商主義、絶対主義といった国家介入的、競争制限的体制が崩れ、全欧米世界が自由競争の資本主義に覆いつくされようとしていた。この過程で小農民、小経営は没落し、温情的救貧政策もなくなり、小民族、地域の自立性は失われ、労働者は激しい競争の中で窮乏を究めることになった。このような中で、当時も、ヘーゲル左派やアナーキストが、この傾向を阻止し、小農民や小経営や地域や民族が自給自足して自立していた状態へ戻そうと運動していた。マルクスやエンゲルスはこれらの運動に与しただろうか。否。むしろ二人はこうした運動を激しく批判し、資本主義が眼前にもたらしている傾向は必然であるとして引き受けるよう主張したのだった。もちろん二人は、こうした傾向が決して人々に幸福をもたらすのではなく、一層の窮乏をもたらすだけだということを隠しはしなかった。二人は、この傾向によって生み出されるスッカンピンのまる裸の労働者階級だけが、資本主義を乗り越えて、階級のない社会を作ることができると考えたのである。

 なぜ二人はこのように考えたのか。ただ単に労働者が耐えられなくなって起ち上がることを期待するからではない。それでは無階級社会移行の必然性は説明できないし、はなはだしい窮乏におかれた大衆は別に近代プロレタリアに限らず、過去農奴にも奴隷にも植民地原住民にもいたが、彼らが起ち上がって社会主義を作ったわけではない。答えは、資本主義の発展で作られた近代プロレタリアートは個々の人格自体が普遍的だからである。つまり、彼らは誰でもみな同じ労働をする単純労働者で、民族性も地域性も失い、文化的生活様式も奪われて人類みんなに共通する生存維持的な生活だけをしている。そして産業の栄枯盛衰に合わせてあっちの部門からこっちの部門へとこづきまわされて、一人が一生のうちに様々の部門を経験している。このような大衆にしてはじめて、社会主義が可能になる。なぜなら、前近代のように人々が互いに異なった職能集団に閉じ籠っていたり、互いにバラバラな地域・血縁的共同体に埋没していたならば、社会全体の生産を司ることは人々の自発的な合意によってはできず、王侯のごとき支配階級の者が上に立って一方的な命令によって展開する以外ない。マニュファクチュア工場でも、互いに異なった技能に特化した職人達は、同じ工場の中の他の部署の人々の状況も必要も理解できず、共同経営を自発的に担う能力がないがゆえに、資本家の一方的な指揮で生産が組織されざるを得ない。それが、みんな同じ単純労働者になってこそ、他人の労働や生活が心から理解できるから、働く大衆自身の合意によって社会全体の生産を組織できるようになる。すなわち支配階級は一切いらなくなるのだ。

 このような近代プロレタリアは、中世の農奴と異なり、自分だけが土地を私有して解放されるということもできないし、ある領邦だけ、ある国だけが搾取が緩和されるというわけにもいかない。いまやすべての労働者は、目下の雇用主のいかんや産業や地域や国家にかかわらず、単一の市場に結ばれて、共通の影響を受けるのだから、その階級闘争は職場や産業や国家を超えた普遍的な団結によらない限り成功しない。このような闘い方は、もしそれがなされなければ救い難い悲惨に落ち込んでいくほかないということによって、いやおうなく人々に迫られていく。そうして、こうした普遍的団結につながれた労働者達は、そのままそのつながりあいのおかげで、自分達の意識的な合意のもとに社会全体の依存関係を統御することができるようになる。それゆえに、マルクス以前の社会主義者のように依存関係の縮小を目指すのではなく、資本主義のもたらす世界の普遍化傾向を引き受け、それにともなう悲惨に対しては、この普遍化傾向に則った労働者の普遍的階級闘争によって対抗していかなければならない。こういうことになるのである。

 このように考えると、マルクス、エンゲルスの死後、資本主義が自由競争のメカニズムに対して様々な制約を受けるようになったことで、これまでの常識では社会主義に向けた条件が一層高まったと言われていたが、実はまったく逆に、社会主義から遠ざかっていたことがわかる。なぜなら、重工業化の結果労働構造の中核を、それまでの繊維部門の単純労働者に代わって、重工業部門の複雑労働者が担うようになったのだが、彼らは部署によって互いに異なる労働に特化している。重工業部門では、互いに異質な工程がひとつの巨大な有機的依存関係に結ばれる。各々の工程の中には単純労働者もいれば、各種複雑労働者も必要である。一言で言えば、労働者が普遍化するのではなく、逆に特殊化するようになったのである。それゆえこの巨大な協業体に組織された労働者たちは、お互いの状況や必要を理解できず、結局テクノクラート的管理者が上に立って、その一方的な指揮に労働者が服することで生産が展開せざるを得なくなる。つまり、階級分裂が必然化されるのである。おまけに複雑労働者は単純労働者と異なり、目的意識的労働投下によって労働力商品を生産しなければならない。だから、複雑労働力商品生産のための専従労働者として主婦が出現し、一種の生産手段として持ち家や自家用車などの耐久消費財が私有されることになる。すると、かつては19世紀の単純労働者が一切の伝統的属性のアイデンテイティをはぎとられて全人類に共通する自然科学的存在となった上で、「オレはオレ」との自覚をもっていったのに対し、20世紀の複雑労働者は自己の地位や肩書き、技能、私有財産、家族に「オレのもの」とのアイデンティティ幻想を抱き、それを飾りたてるための欲望を持ち、かくして自然科学的には調整のつかないような異質な集団に人類がわかれて埋没してしまう。マルクスによれば「労働者は祖国を持たない」はずだったのに、いまやナショナリズムが労働者を捕える。そして、複雑労働力商品生産のスムーズな展開のために、福祉、教育、医療と称して国家が生活の隅々までを管理するようになる。

 要するに20世紀の資本主義体制は、労働者大衆の相互異質化の上に、産業・金融寡頭テクノクラートや国家官僚による階級支配を必然的に招来する体制だったのであり、マルクスが当時の資本主義の発展傾向の先に見据えた展望とは、全く逆のものとみなさなければならない。西欧社会民主主義がこのような体制を最大限労働者階級の利益のために利用したことは、歴史的に与えられた条件のもとでの選択としては高く評価するが、マルクスの社会主義的展望とは別ものであることは強調しておこう。ソ連・東欧体制がマルクス的社会主義とは正反対のものであることは言うまでもあるまい(「私の主張3」)。

 このように見ると、民営化にしろソ連崩壊にしろ昨今の傾向は、社会主義者がこの世の終わりのように悲しむいわれは何もなく、むしろ逆に反動の一世紀の終焉として祝うべきものだということがわかる。ここで現在のマルクス主義者が打ち出すべき方針は、150年前にマルクスが打ち出した方針と同じである。今日進行する熟練の解体、脱国家化、世界統合、会社その他の集団共同体の解体といった傾向に対して、これに逆行する方向で対応するのではなく、これらの傾向を積極的に引き受け、むしろ資本家達が旧体制との妥協に走って改革を中途半端なものにしがちなのを踏み越えて、一層徹底的にこの傾向を押し進めなければならない。そしてこの傾向がムキダシの資本主義によってもたらされるために引き起こされる様々な悲惨に対しては、職場を超え、階層を超え、産業を超え、国や民族を超えた労働者、民衆の団結によって、激しく闘っていかなければならない。すなわち、今日では資本主義に対する対抗運動自体が、脱国家、世界統合の時代を反映した普遍性をもっていなければならず、さもなくば失敗することは目に見えているのである(「私の主張6」「私の主張7」)。失敗で終わるならばまだしも、善意の左翼運動のつもりがナショナリズムを助長し、民族紛争や排外主義につながってしまったり、支配層の内の国家独占資本主義体制に既得権を持つ最も反動的な部分を擁護する結果になったとしたら目も当てられない。

 特に、日本の場合、目下の傾向はいわゆる日本型資本主義の解体とアメリカ型経済への統合という形で起こっているが、この傾向が進行するに連れて、支配階級の中からこれについていけずに反発し出す部分が出てくるだろう。改革を徹底し世界自由市場の中に入っていこうという路線に対抗し、東アジアを排他的勢力圏にして欧米と張り合おうということを目論む勢力が現われるに違いない。同じ保守の「徳目」であったはずの、「親米、市場重視、大ビジネス重視」と「愛国主義、国家主権重視、権威秩序重視」とは激しく矛盾するようになる。これに伴い保守陣営は新たに大きく二分されるだろう。アジア諸国の人権抑圧や低労働条件に対する欧米の批判に対する対応も同じ図式をもたらす。このとき、左翼陣営が対応を間違うと、最も反動的であるはずの反米民族主義側の保守陣営を勝利させる結果に終わるかもしれない。これは中長期的には間違いなく経済停滞と国際的孤立化の進行を生む。その行き着く先は、「私の主張1」に警告した、世界を巻き込んだ悲惨な崩壊であろう。
 

前近代・重商主義 19世紀英国自由主義 独占資本主義

国家独占資本主義

世界的自由競争資本主義
総括 特殊的人為の支配 普遍的物象の支配 特殊的人為の支配 普遍的物象の支配
物質的条件 農業・手工業中心 力織機普及、ミュール自動化 重工業化 ME化
国家の経済介入 権力者の経済介入 自由競争・小さな政府 国家介入へ 民営化・規制緩和
価格メカニズム 人為的価格操作 価格メカニズムに任す 独占価格・規制価格 価格メカニズムに任す
独占 前期的独占 独占の撤廃 独占資本の支配 「大競争」
福祉・労働保護 権力の恩情的管理 一律制度的規制 国権による生活管理 世界一律の基準へ
国際経済 人為的経済分割 同質な市場の拡大 不均等経済の分立 「グローバル化」
労働者 特殊化・階層化 単純化・均質化 複雑化・階層化 熟練の解体・全般的競争
経済分立・統合 地域経済圏の分立 単純均質な国民経済 不均等経済の分立 世界統合
前近代的制度 残存・利用 解体し中心部に同化 帝国主義的利用 解体し中心部に同化

 

 

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