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私の主張3 :ソ連型体制は国家資本主義だった


 まだ資本主義が発達していない小農民経済から、工場建設資金とそこで働く労働者を作りだし、資本主義経済が自立的に展開するようになるまでのプロセス、要するに遅れた農業国の工業化のプロセスのことを、資本の本源的蓄積という。この過程では多かれ少なかれ、国家の強権が利用される。しかしその程度は、その時代の世界資本主義の発展段階によって異なってくる。

 19世紀の自由競争資本主義段階とそれに先行する時代の本源的蓄積様式は、自営農民が商品生産を始めて、民富を蓄積してブルジョワジーになるものと没落してプロレタリアートになるものとに分解し、やがてこうして台頭したブルジョワジーが、商売の邪魔になる封建勢力を打倒して取引の自由を手にいれるという方式、すなわちいわゆる「下からの」本源的蓄積様式であった。英、米、仏の先行工業国で見られたものがこれである。この場合、国家介入は比較的緩やかになる。これは、繊維産業中心の産業構造と、自分より先進的なライバルがいないという条件によっている。次いで、独占資本主義段階とそれに先行する時代(1860年代末-)の本源的蓄積様式は、地主が小作農から収奪した資金を元手に上から工業建設を行い、それに必要となる労働力は農村からの低廉な家計補助的出稼ぎ労働でまかない、こうした過程を軍事強権体制が支えるという方式、すなわちいわゆる「上からの」本源的蓄積様式となった。独、日、帝政ロシアの後発工業国で見られたものがこれである。この場合、国家介入の程度は比較的強くなる。これは、重工業化が始まっていたことと、自分より先進的なライバルの脅威が存在していたという条件によっている。そして、今日、世界的自由競争資本主義段階とそれに先行する時代(1980年代-)の本源的蓄積様式は、再び「下からの」本源的蓄積様式になったと思われる。NIEs、ASEAN、改革開放後の中国、ドイモイ路線のベトナムがそうである。

 それでは国家独占資本主義段階とそれに先行する時代(1930年代-)の本源的蓄積体制はどうなるだろうか。国家独占資本主義時代と本源的蓄積段階という、共に国家を強くする二条件が重なる。一旦繊維産業から始められた日独の場合と異なり、すでに重工業が産業の中核となっているこの時代には、いきなり重工業建設をしなければならない。しかも、先発工業国は帝国主義段階に入っており、ライバルどころか後進国を餌食にしてやろうと狙っている存在である。それゆえ、本源的蓄積のタイプは「上からの」様式、しかもその国家介入の程度が最も著しい様式になる。すなわち、農村から過酷な収奪をしてそれを元手に急速に重工業建設をして、これに必要な労働は農村からの出稼ぎによるほか、しばしば強制労働を利用する。そしてこの過程全体が強力な国家権力によって強引に推進される。これが、1930年代にスターリンの作ったソ連型体制にほかならない。

 それゆえソ連型体制はその掲げる共産主義イデオロギーとは全く無関係にでき上がったのであり、1917年の10月革命が失敗したとしても、その後の内戦で白衛軍が勝ったとしても、30年代には結局は同じ様な体制ができ上がっていたであろう。そこにおいて共産主義イデオロギーは、この「上からの」本源的蓄積を推進するための国家統制の正当化や大衆動員などに役立つ限りにおいて利用されたにすぎない。実際、ソ連型体制における生産手段はノーメンクラツーラと呼ばれる少数特権階級によって排他的に占有されており、一般労働者はその運用に関して一切口を出す機会はなかった。すなわち労働者による生産手段共有の実体はなかった。労働者は自らの作り出した剰余の使い道についても口出しできず、それらは生産手段の蓄積や軍備や特権階級の消費としてノーメンクラツーラ集団の排他的な判断で処分された。これは搾取というほかない。明らかに、ソ連型体制は階級社会であった。しかも、ソ連の経済計画は一般の資本主義企業の生産計画と同様、社会的欲求を直接知ることなく作られるため、一般大衆との間の消費財や労働力の配分は貨幣を媒介とした商品交換によらざるを得ず、常時社会的欲求と生産との間のアンバランスが起こった。スターリン時代を通じて実質賃金は低下を続け、自己目的的に生産手段が拡大していったが、こういうことを「資本」と言うのである。それゆえソ連型体制はその本質において資本主義体制であったと言わざるを得ない。しかし、国家独占資本主義時代に本源的蓄積を遂行するために、その資本の機能は国家によって強力にコントロールされる。それゆえ、私はこの体制を、他の何人かの論者にならって、国家資本主義と呼ぶ。

 ソ連の本源的蓄積は1950年代半ばに完了する。そうすると資本主義経済は、強制的な労働投入の拡大によって発展する段階を卒業し、いわゆる相対的剰余価値生産の段階、平たく言えば労働生産性を上昇させることによって成長する段階に入らなければならない。このためには、企業が超過利潤獲得を目指して技術革新をすすんで導入するようにしなければならない。よってここで必要になるのが、利潤を追求する企業態度と、技術革新導入を促す企業間の競争とである。すなわち、企業が国家によるコントロールを離れ、資本の本性に基づき自由に活動できるようにしなければならない。1950年代半ばからの部分的「自由化」はこれに対応したものである。企業の独立採算制導入、取引税から利潤税への転換、農村収奪から農村保護への転換といったことがこれに伴って行われた。しかし抜本的な改革は支配的既得権層の抵抗で頓挫したが、こうした抵抗が成功したのは、依然、国家独占資本主義時代が続いていたからである。それゆえ、80年代末に至りME化国際化といった生産力上の変化に対応して国家独占資本主義時代が終わり、世界的自由競争時代が始まるに伴って、ソ連型国家資本主義体制はその存立根拠をすべて失い、私的競争的資本主義に転換することになったのである。だからこの動きは歴史の必然にそった「進歩」なのであり、たとえ当面はブルジョワ権力の樹立に終わっても、決して反革命や逆行なのではなく、まさに革命として評価しなければならない。

 そもそもマルクスの唯物史観によれば、社会主義社会は資本主義の十分な発展のあとではじめて可能になるものであった。そうだとしたら革命当時のロシアに社会主義化の条件などあろうはずがなかった。レーニンらロシア革命の指導者もそのことは重々承知だったのであり、社会主義政権が生き残れるのはロシア革命がきっかけとなって先進資本主義国が社会主義化し、その援助に助けられる場合だけとみなしていた。しかし、ロシア革命が起こっても予想された先進資本主義国の革命は起こらず、そればかりか逆に反革命干渉軍を送り込んできて、しかもあろうことかソビエト政権はそれをはねかえして生き残ってしまった。そのときなけなしの生産力は荒廃し、労働者階級も内戦で戦死するか帰農するかしてほとんど消滅してしまっており、もともとなかった社会主義化の条件はますます絶無になってしまった。そこでレーニンらは労農政権の管理下での資本蓄積の推進を試み、これを「国家資本主義」と称したのであるが、政治的上部構造を労農革命政権のままにして経済的土台だけ国家資本主義を導入することは矛盾をもたらす。国家資本主義的土台の発展は、やがて自らにふさわしい国家資本家階級の上部構造を要求する。そこでスターリンはかつての革命家をまるごと肉体的に抹殺し、共産党を国家資本の管理者からなる全く新しい組織に入れ替えたのであるが、これは必然的な一種の反革命クーデタであったと言える。

 だとすると10月革命は歴史の必然に反する全くの無駄だったのだろうか。あるいはスターリン体制は他に選びようのないものとして受け入れなければならないものだったのだろうか。そうではない。今一度、唯物史観に徹底的に則る立場から、スターリン反革命に至るロシア革命史を概観しておこう。

 1930年代に国家独占資本主義時代がやってくることは1917年時点でわかりようのないことだから、その時点で「上からの」本源的蓄積路線以外の様々な選択肢が提起されることは、至極正当なことである。実際、帝政ロシアの「上からの」本源的蓄積路線は完全に行き詰まっていた。単に近代的な産業管理制度、官僚制度、教育制度などを作り出すという点だけでも、伝統の中で硬直化した専制政治の手に余る課題であった。したがって近代工業の発展のためには、古い専制の枠組みを破壊することは、とりあえず必要なことであった。これは元来ブルジョワ革命の課題である。しかしロシアの当時のブルジョワ階級は、「上からの」本源的蓄積で育ってきたために、封建勢力と癒着してしまっていてこの課題を果たせない。そこで、労働者と農民の両階級が、ブルジョワに代わってこの課題を果たす以外ない。おりしも、農民は飢饉頻発する地主の収奪に疲弊して、労働者は低賃金の強搾取に苦しんで、共通の敵である地主=資本家=帝政の「上からの」本源的蓄積同盟を向こうにまわして手を結ぶ条件ができていた。労働者は社会主義、すなわち工場を自分達の手で運営することを求め、都市のソビエトに結集した。農民は「下からの」ブルジョワ民主主義的な本源的蓄積路線、すなわち地主地を分配し自由に営農することを求め、郷委員会に結集した。1917年の2月革命から10月革命に至る一連の革命運動は、この目指すところの異なる労農両階級の自然発生的闘争を基盤にしている。ボルシェビキが奪権できたのは、他派が「上からの」本源的蓄積の特殊性に気付かず資本家の権力を容認しようとする中で、この「労農大衆によるブルジョワ革命」なる本質をレーニンらだけが自覚し、労農大衆の要求に相対的に応えることができたからにほかならない。10月革命直後の、工場の労働者による統制と土地分配の布告は、労農両階級の自然発生的行動の追認に過ぎない。

 労農革命自体が必然だったとは言え、たしかに労働者の社会主義を目指した行動は 当時の生産力のもとでは非現実的であった。実際、現実的なボルシェビキ指導部は革命前から労働者の工場占拠運動を抑える側にいたのだし、内戦激化後は労働者の工場 管理権を取り上げてしまって二度と返すことはなかった。だが、だからと言ってこれ らの労働者の運動の意義が否定されるわけではない。いかなる社会変革をもたらす運 動も、その変革の物質的条件が生じてから急に無からでき上がるわけではなく、その条 件のない時代からすでに経験を積んで広がっていかないといけないからである。したがって、10月革命時の労働者の社会主義的行動も、のみならず内戦終了時の労働者反対派のレーニン指導部批判やペトログラードの大ストライキも、物質的条件のない実現不可能な運動ではあったが、みな後の労働者の階級闘争の発展のためには必要なことであった。問題は、これらの運動を圧殺した共産党指導部の側が、労働者階級の利益と社会主義的変革についての「唯一正しい」方針の体現者を僭称したため、これらの労働者の運動が体系的に引き継がれなくなってしまったことにある。

 ネップの破産についても同じことが言える。ロシア革命の現実的意義がブルジョワ革命の課題の解決にあった以上、革命を担った一方の当事者たる労働者の要求(=社会主義)の物質的条件が壊滅したならば、他方の当事者たる農民の要求、すなわち「下からの」ブルジョワ民主主義的本源的蓄積路線が実現されることは、至極合理的なことである。それが、ネップ路線の本質にほかならない。内戦期を通じて労農両階級は戦時体制下で抑圧される一方、かつての「上からの」路線で本源的蓄積された都市の重工業のブルジョワ管理者層は、高給で優遇されて力をつけてきた。そして彼らは、労働の軍隊化と産業の集権的管理に固執するトロツキー派を通じて政権への影響力をもつに至った。ネップ導入を主導したレーニンも当初はこのような立場に立っていたのであり、このような、革命の成果を御破算にしかねない傾向を阻止し、レーニンをしてネップ導入をさせたものは、クロンシュタット反乱やマフノ運動などの、内戦終了期の農民の共産党に対する階級闘争にほかならない。そしてこの農民の指向は1920年代当時には一定の現実性を持っていたのである。しかしネップ路線は、一方で農民の「下からの」本源的蓄積を保証しつつ、他方で「上から」の路線で本源的蓄積された都市の大工業を国家資本として保護し、そのブルジョワ管理者層を一層優遇するものであったために、当初から矛盾を抱えていた。この矛盾は、多くは大戦前に建設された工業設備の更新が迫られる時期に及んで顕在化する。もし「下からの」本源的蓄積を待つならば、その間に既存の大工業は老朽化してなくなってしまう。もし既存の大工業を救おうというならば、農村から価値収奪する以外なく、それは「上からの」本源的蓄積路線への復帰を意味する。レーニンの後継が争われたいわゆる「工業化論争」は、このことをめぐる論争にほかならない。最初にトロツキーが、ついでその失脚後にはジノビエフとカーメネフが、大工業の国家資本家階級を代弁して「上からの」本源的蓄積路線への転換を迫ったが、ネップ擁護派ブハーリンは、スターリンの強引悪辣な党運営に助けられて勝利できた。もし農民が喜んで供出する価格で穀物が輸出でき、それで工業プラントを輸入できたならば、この路線の持続は可能だったかもしれない。しかしおりしも30年代「大不況」に先んじて起こった世界穀物不況のために、この道は断たれてしまった。したがってスターリンが反ネップにまわってブハーリンを失脚させ、農民への大量弾圧の末、農業集団化と五カ年計画という形で、革命前の「上からの」本源的蓄積路線を復活させたことは必然だった。しかし、これに抵抗した農民達の死屍累々の犠牲を払った闘争が無意味だったわけでは決してなく、いずれ本源的蓄積が完了したときの体制転換をスムーズにするためにも、すでにこの時点から農民の階級闘争は始められていなければならないのである。

 問題はやはりこの場合にも、体制の側が社会進歩の正統権を独占したため、これらの運動が後につながらなかったことにある。特に、共産党が労働者階級の前衛を自称したことで、「上からの」本源的蓄積体制との闘いに必要な労農同盟が破壊されてしまったことが大きい。実際、スターリンは「大転換」に際して労働者を富農と大工業のブルジョワ的管理者にけしかけ(貧農もけしかけたがあまり動かなかった)、この左翼的外見のために労働者反対派もトロツキー支持の労働者もすすんでスターリンを支持したのである。ところがブルジョワ的管理者に対する攻撃はしばらくしてさっさと撤回され、俸給の格差も復活し、やがて彼らブルジョワ専門家の指導で30年代に組織された専門技術学校が、大量の管理技術者を再生産して世に送り出してくると、労働者上がりの管理職は「大粛清」でまるごとごっそりと始末されてしまった。そのときにはもう後の祭だったのである。

 結局、革命以前の「上からの」本源的蓄積体制が一層グロテスクになって復活したのであるが、後からふりかえると、ロシア革命の意義は、硬直した伝統的宗教的体制を粉砕し、近代工業の発展にふさわしい世俗性、合理性をもたらしたことにあったと言えるだろう。問題は、本来異論派の支柱たるべきマルクス主義を名乗る政党が、内部から乗っ取られて反革命の担い手となったために、将来の変革のために必要な異論の潮流が絶滅してしまったことにある。そのために、同時期に出来上がった非共産党の国家資本主義体制であるスペインなどの独裁体制が、70年代に世界の国家独占資本主義が行き詰まるや比較的スムーズに自由資本主義への転換を遂げることができたことと比べてみると、ソ連型体制ははるかに硬直化して、その存立条件がなくなってきても容易に体制転換することができなかった。しかも労資の階級闘争が表立って闘われるべき自由資本主義の今日に至っても、マルクス主義的に有効に組織された労働運動の伝統がないために、労働者は弱肉強食の無慈悲な競争のなかで辛酸をなめなければならないことになっている。こうなった主たる原因は、ボルシェビキ党とその政権の鉄の集権的少数独裁構造や主意主義、手段正当性の無視、注入理論などにあり、その責めの多くはレーニン自身が負わなければならないだろう。

 詳しくは、大谷、大西、山口編『ソ連の「社会主義」とは何だったのか』(大月書店)を参照。第8章を私が担当している。(「著書」

 

 

 

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