松尾匡のページ

 06年3月23日 『マルクスの使いみち』の読まれ方にショック


 稲葉さん、吉原さんとの共著の『マルクスの使いみち』ですけど、僕は「松尾が吉原に論破された」という読み方をされることを心配していました。
 いざ出版されて、あちこちのブログやアマゾンで書評が出ているのを読んだら、それ以前の問題だったことがわかってショック。ほとんどの人が著者三人が同じ立場とみなして評論していました。もう・・・私はアナマルじゃないって!!
 第1部は三人共闘していますが、第2部は吉原さんと私は互いに違うことを言っています。第3部は私は加わっていないのですが、お二人の対談の内容についてはほぼ全面的に受け入れがたいので、あとがきで批判を加えてあります。

 上にリンクした本サイトの著書紹介ページでも書きましたが、第2部では、目下の論争中のテーマについて稲葉さんとの対談で簡単に解説したら、あとで吉原さんと原稿を伸ばしあう応酬になりました。結局、収拾がつかなくなって根こそぎ削除になったのでした。あと、ローマーの対応原理が成り立たなくなるケースについても、私が介護の例を使って労働搾取論批判として適当でないことを示唆したことに対して、やはり吉原さんとの間で原稿を伸ばしあう応酬になって、これも削除になったのでした。
 こんなところにエネルギーを使っていたので、これらを削ったら自分の発言部分がほとんどなくなっていたのですが、その段階で枚数がいっぱいいっぱいで期限も迫っていたのでした。吉原さんの原稿にもつっこみたいところはたくさんあったのですが、本格的に議論を挟み込む余裕もなくなっていたので、自分の発言部分の補正を中心に、最小限の修正を加えてすませました。一応、吉原さんの論点に対して、自分の立場は最小限明らかにしてあると思います。
 第3部も、本格的な批判原稿を加える枚数の余裕も時間の余裕もなかったので、あとがき用字数制限と闘いながら、あとがきでなんとか批判点をまとめました。特に、労働者管理企業の効率性をめぐる問題点については、メールで吉原さんと論争になっていたのですが、もちろん本格的に論じる余裕はありませんので、あとがきの中でちょっと触れています。

 というわけですので、お読みいただいた方は、どこに立場の違いがあるのかを読み取っていただければ幸いです。
 

大幅追伸 4月4日

 吉原さんのこの本についての説明がウェブに出ました。こちら
 私達の立場の違いがよく整理されていてわかりやすいです。私の主張についても、おおむね誤解はありません。まあ、あれだけ時間と手間をかけてやりあって誤解が残ったままだったらかないませんが、世の中にはそういうことの方が多いので、うれしいことだと思います。
 ただ読者の側でこれを読んで誤解されることがあるかもしれないので若干補足とか釈明を。

 まず、僕の新自由主義政策に対する立場ですが、事後的に見たら進歩だったと評価していますが、私達がみな今の知識と分別を持ってタイムマシンで80年代の英国に行ったら、そりゃあ、サッチャー主義に反対してオルタナティブを打ち出すべきだと思います。あのときは、70年代型国家介入体制の他には誰も対案を思い付いていなかったわけですから、結果としてサッチャーが勝つのは必然だったと思うだけです。
 それにみなが諸手をあげてサッチャー主義を受け入れていたならば、今日の私達はなかった。そのもたらす矛盾を指摘する運動があってこそ、今日私達がいろいろオルタナティブを打ち出そうということにつながっているのだと思います。

 それから、私も含む労働価値概念による搾取論が、自己所有権命題と親和的というのは本当ですが、自己所有権命題と言うとイメージ悪いですよね。オレの作ったものはオレのものみたいな。
 私的所有というのは、意志決定が排他的で、作為不作為の影響を被る人がたくさんいるのに口出しができないことです。
 それに対して、マルクスや私の労働価値概念による搾取論が望んでいるのは、自分の労働の成果を自分の意思でコントロールできることであって、その中には個人的にコントロールできることもあるけど、合意でコントロールするものもある。口出しについては開かれているわけです。自己労働の成果についての、私的所有の要求ではないわけです。
 まあそのへんは吉原さんはわかってはると思いますが、読者が誤解されないよう、念のため。

 ところで、註10のYamada & Yoshihara の「等しい労働時間への等しい成果の配分」のメカニズムデザインモデルはまだ読んでないですが、私もおおまかにはデザインを考えています。これが「青写真」かと言うと、二百年やそこらで実現するつもりはさらさらない究極形の話で、究極形が内部矛盾があったらおかしいからモデルを検討しているだけです。現実の中で私達がやったことがいかに不十分かを測る基準のようなものとして必要なのだと思います。
 それよりはむしろ、例えば生協のような多角的事業をやっているところなどで、後期高齢者に封筒詰め作業をしてもらって、その時間の分家事ヘルパーをやって、そのヘルパーさんがその時間の分個配サービスを受け取って・・・というようなことが、なるべく不整合や非効率をおさえて組織できる方法がないかを考えてみたいと思っています。

 まあ、僕は、中学校の頃から弁証法的唯物論の本を読んで、自分ではマル経の伝統的訓練を受けて、卒論はマル・エン全集に埋まって書き上げたし、大学院の頃からマル経学会のじいさん達にはみんなにずいぶんかわいがってもらった思い出しかありません。吉原さんの文章を読むと、僕ってそんなにマル経世界で異端なのかと思ってしまいます。マルクス解釈問題としては、自分のマルクスが本当のマルクスだという自信がありますけど。
 ともかく、吉原さん、私、そして大西さんも含めて、異端なマル経学界のさらなる異端な顔ぶれの位置付けが適切にわかりますので、是非読んでみて下さい。

 大西さんと言えば!!
 強引に文部科学省の科研に巻き込まれているのですが、マル経だから通らないので名前だけという説得だったのに通ってしまって、京大なら何でもいいのかよという感じ。それで、その関連で、上海で開かれた「世界政治経済学学会」の第1回大会に行って、吉原・松尾論争を紹介してきました。
報告論文はこれ。pdfファイル376KB

 報告時間が10分しかなくてほとんど議論できなかったけど、まあ、こんなことがあると世界の研究者に紹介できればいいかなという感じです。
 もっとも、この学会。本当は、上海のあるかなりエラい先生が、中国政府の現行路線に危機感を抱いて、引っ張り返す目的で作ったように思いました。この先生、以前、江沢民が「労働価値説を捨てたい」と言い出したのに、猛反撃してやめさせた経歴があるそうで、現政権になってからだいぶやりやすくはなったそうですが、民営化路線はさらに推進されており、怒り沸騰する反対派のリーダーになっているようです。
 それなのに大西さんなんか呼んで、学会の副会長とかにしていいのか!! (笑)
 大西さんも「アイ・ファイト・アゲンスト・キャピタリズム」とかウソばっかり(笑)。まあ、組合の全国組織の委員長だから間違いはないのね。
 まあ、学会報告自体はこびることなく、相変わらずの持論をぶってはりました。何語でしゃべっても同じ調子ですけど。
 僕は理事にさせられそうになって逃げ回りました。会員にはなりましたのでご容赦下さい。もう、忙しい身に仕事をふらせてくる知り合いばかりで困ります。以前、大西さんが経済理論学会の雑誌の編集委員を持ってきたときは、何とか逃げ切ったら、学会に入ったばかりの吉原さんにおはちがまわってトンだとばっちりをかけてしまいましたけど。m(_ _)m
 
   

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