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08年4月28日 書評九点



 田中秀臣さんに言わせれば「書評って大変」なものらしく、こんな何冊もの本をおおざっぱに紹介していくウェブ記事は書評と言うに値しないのだろう。しかし仕方ないのである。
 この二、三か月、面識のないかたからご新著をいただいたり、知人が本を出版したりということがたくさん相次いでいた。ところがこっちは久々に生涯最大級の激動の年度末を過ごしていたために、目を通して一つ一つコメントをお返しすることができないでいた。中には、読んでからと思いつつ、礼状も書かずにほったらがしている不義理なケースも多い。
 そんなのがたまっていて、いいかげん何とかしなければならないと思っていたところに、近々自分の新著が出ることになった。これは是非とも多くのグレートな知人達に取り上げてもらわなければならないではないか。しかしグレートな知人達から見たら、自分が書いた本に何の反応もなかったやつなんか、今さら本を出しても宣伝してなんかやるもんかと思われるに決まっている。いかんいかん。
 という下心で、あわててでっちあげることにしたのが今日の記事である。当然、「辛口」というわけにはいきませんが何か。


田中秀臣『不謹慎な経済学』講談社、1,300円+税
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 というわけで、まずは今話題にあげた田中教授(おめでとうございます。仕事が増えますな。南無南無)の新著。もう多くの人から言われつくしていることなので、今さら私が言うまでもないが、実はいたってまっとうな経済学王道ど真ん中の本。マジニナルユーティリティがもうつきてしまうくらいのマジである(なんじゃそりゃ)。冒頭の「経済学は、過度の競争が行われる世界や、弱肉強食の世界にならないような社会のあり方を考えるためにある。」から始まって、終始「そのとおりっ!」という叙述が続く。
 ただ、「インフレ目標導入するとワールドカップの成績が上がる」というネタを筆頭とする冗談の部分が、まっとう至極な部分と形式的な区別なく並んでいるのはどうか。日頃著者のブログを読んでいなくて、経済学も全くしろうとの人が読んだら、ちょっと混乱しないかな。一般向けの非常に読みやすい解説書というのがウリなのだろうから、その点工夫した方がよかったと思う。
 ちなみに、194ページ、(誤)「一定の円高の天井に近づいた局面では」→(正)「一定の円安の天井に近づいた局面では」ですね。


稲葉振一郎『「公共性」論』NTT出版、2,940円(税込)
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 難しくてわからないので、やっぱり僕は頭が悪いのかとへこんでいたら、小田中先生もそんなことを書いていらっしゃるので安心した。
 よくわかってないので関係ないかもしれないけど、これを読んで思ったこと。この本には取り上げられていないテーマの話を唐突にしますけど・・・。
 稲葉さんも関心がある基礎所得制度(金持ちも貧乏人も全員一律に一定の最低限所得を国がくれる制度)って、まあ私も基本的にはいいと思ってるのだけど、これが本格的に導入されたら、市役所を完全民営化して自治体民主主義を廃止してしまうところがでてきても不思議ではない。もちろん、基礎所得は国税から払われるのだけど。
 というのは、この場合、地方自治体にとっては、住民はただ住んでいるだけで税金がとれる金づるになる。さらに、住民がたくさん住んでいるだけで、需要が発生して経済が活性化し、ますます税収が増える。そして雇用の場を求めてますます住民がやってくる。逆に、住民が少ないとそれだけで需要が減って、雇用の場が少なくなり、ますます住民が減る。市の税収は減っていってしまう。
 そうすると、市役所は、議会も選挙もなかったとしても、なるべくたくさんの住民に住んでもらうために、税金を有効に使って競って住民サービスにはげむことになる。住民は、何も公共的なことを考える必要がない。ただ、自分にとって有利な市を選んで住む行動をとるだけで、諸市間の競争を通じて結果として住民サービスが向上していくことになる。訴訟による少数者の権利擁護が事後的に保障されていれば、たとえ少数者であっても、役所は賠償リスクを恐れてその人を尊重するだろう。
 いくつかの実例を経験してこれがわかったならば、住民は、かえって一部の利権が効いてしまう議会や選挙をいやがって、自らそれらを廃止して民間企業に行政を委ねる決断をしてもおかしくない。
 はたしてこれでいいのだろうか。悪いとしたらどこが悪いと言えるのだろうか。考えてみたら難問である。
 たぶんそんな問題を考えるための本なのだと思うが、この本からこの問題にどんな答が出るのか、残念ながら難しくてよくわからなかった。


中村宗悦『後藤文夫──人格の統制から国家社会の統制へ (評伝・日本の経済思想) 日本経済評論社、2,500円+税
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 いわゆる「新官僚」の頭目として、大政翼賛会設立など、日本型ファシズム体制の構築をリードした後藤文夫の評伝。著者が終始強調しているのは、後藤自身は現実につくられたあのような体制を目指したわけではなかったということである。彼の主観的意図は、逆に、下からの自発性を尊重し、個性を重んじ、情動に流されぬ理性を求め、軍部の介入を排して、一党独裁に反対することにあったというのだ。しかしこれをもって、著者が後藤を擁護しているととらえるのは早計である。むしろ著者が問いたいのは、そのような開明的意図にもかかわらず、結果としてあのような体制をつくりあげ、一国の破滅に加担することになった責任なのだろうと思う。
 後藤の何がその原因となったのか。客観的筆致の合間からたまにのぞく批評表現から、私が勝手に感じとったのは次のような点である。
 まず、本書の副題になっている、エリート主義的統制志向である。特に、現実の政党政治や実業が自己利益ばかり追求していることを批判的に見下して、だから清廉無謬な官僚が上から導かなければならないと考える姿勢。ここから、既成政党の影響下とは別のところに、青年団だの、農村の経済更生運動だの、産業組合だの、選挙粛正運動だの、大政翼賛会だのといった大衆組織・運動をその都度作り出し、大衆の教化、動員を図る志向が生まれる。その際には、下からの自発性が口では尊重されるのだが、それは政党や財界に従うのではないという意味にすぎず、実際には後藤自身による上からのコントロールが想定されていた。ここに、これらの組織がいずれも軍部による戦争動員手段になってしまった原因がある。
 次に、危機のないところに危機を見る「セカイ系」の発想。第一次世界大戦後資本主義は行き詰まったというわけである。そして、その対極にある足がかりとして、農村の伝統共同体文化の更生を図る。特に、このような世界観が道義問題として組み立てられているところが問題であって、浜口内閣のデフレ政策に、ありもしない「危機」を打開する道義をみいだして賛同し、かえって本当に経済危機をもたらしてしまう。その結果の農村疲弊を立て直すための更生運動も、本質的には当人のがんばりという道義問題に帰着させられているために、いくら失敗しても基本的には現場の責任になってしまう構造がある。
 さらに言えば、道義問題とならんで「危機」の本質にみいだされているのが、都市と農村との不均衡などの「構造問題」なるものであって、このような、自然な経済発展の結果を直接の人為で変えようとする「構造改革」志向が経済に対する上からの意識的統制につながったことは言うまでもない。
 まあ、一言で言えば典型的な「反経済学的発想」の人物なのだな。「反経済学的発想」で経済政策に取り組むと、本人の意図を離れて思いもよらぬ結果がもたらされ、ついには行く所まで行ってしまうという実例なのである。(「反経済学的発想」については、野口旭他編『経済政策形成の研究』(ナカニシヤ出版)の、僕の章をご参照いただきたいが、さしあたりecon-economeさんのレビューが適切にまとめてある。)


 これを読んで思い出したのが、やはり最近読んだ、
フィリップ・ショート『ポル・ポト』山形浩生訳、白水社、6,800円+税
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である。1970年代のカンボジアで自国民の二割以上を殺した独裁者と言えば、スターリンや毛沢東のような悪の天才をイメージしてたら全然違う。ポル・ポトはただの凡庸な官吏でしたという本である。傑出した能吏たる後藤とは比べ物にならないが、基本メカニズムは後藤の場合と非常に似ていると思う。資本主義都市文明に退廃を見て、農村共同体を憧憬する者が、「反経済学的発想」で経済をコントロールしようとするとどうなるか。思わぬ困難が生み出され、それらに泥縄的に対処しているうちにどんどん破滅へと暴走していくのである。
 しかしポル・ポト以下凡庸な登場人物ばかりの中で、突出しているのはシアヌークの怪物ぶりである。後白河ってこんなやつだったのだなということがよくわかる。虚栄心に満ちた、人を人と思わぬ生臭君主。その歩いた跡には、はるかに武力の強いはずの武将達の死屍累々である。有能な者は役に立つ限り取り立てるが、影響力を持ちそうになると切り捨てる。何があっても絶対に負けないし、失脚しても幽閉されても自分だけは生き残る。妙な大衆芸能にはまって周囲を振り回すところも同じである。
 この地をめぐる、植民地時代から続く複雑怪奇な国際情勢の中で、フランスも日本もベトナムもアメリカも中国も、シアヌークひとりに見事に翻弄される。国内政治で負けそうになっても、国際会議が開かれたら一夜にして逆転。のちにはさすがのポル・ポトも振り回される。ポル・ポト政権の幹部達はみな、掘ったて小屋で飢餓状態の一般民衆から見ればはるかにいい暮らしだが、先進国の中流水準よりは質素な生活をしていたのに、シアヌークだけは幽閉中でも王侯の生活である。終日クーラーを効かせて、フラッペのソースのことでわがままを言ってポル・ポト達を困らせる。
 読んでいるとこいつが一番の悪じゃないかという気になる。この本の訳者も、シアヌークが有能な官吏をことごとくつぶしてしまったことが、のちのポル・ポト時代の悲劇の原因のひとつと指摘している。
 ところで、共産党政権下で権力者が自分の都合の悪い者を肉体的に取り除くことは、通常「粛清」と訳するのだが、わざとなのか、この本では一貫して「粛正」と書いてあるのが気になった(そのほか細かい左翼用語でいくつかちょっと気になったものもあったが、たいしたことはないので忘れた)。この本を読んでいる間、「粛正」を「粛清」と頭の中で読み替えるのに慣れたら、中村さんの『後藤文夫』で出てきた「粛正選挙」が「粛清選挙」のような気がしてしかたなかった。大政翼賛会の推薦候補以外は排除しようというのだから、結局どっちにしてもよく似たようなものだな。


清水和巳、河野勝編『入門政治経済学方法論』東洋経済新報社、3,360円(税込)
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 第4章著者の須賀晃一さんからいただきました。ありがとうございます。
 「政治経済学」って、マル経のことじゃないよ。政治を現代経済学(要するに「近経」)の手法を使って分析しようという分野のこと。で、そのために必要になる分析手法を一通り漏らさず紹介している。基本的には、大学院生とか、この分野への参入可能性を持つ研究者向けの本だけど、政治というものが今どんなやり方で研究されるようになっているのか知っておいた方がいいという意味では、すべての人に読むことを勧めたい。
 須賀さんの書かれた数理モデルの章は、当然専門として慣れ親しんだ手法の話なのでとてもわかりやすかったが、本質を抽象した前提の置き方など、一般に誤解を受けやすいところを丁寧に解説していてとてもよい。また、ここで紹介されている、選好が単峰分布するときの多数決が中位者の選好になるという定理などは、狭い意味での政治の話だけではなくて、例えば協同組合企業における意思決定モデルなどでも使うので、経済学徒には広く読んでほしいな。
 実は僕も、この分野のモデルを作ろうとしたことがある。以前「首相公選制」論議が高まっていたときに、これは何としてもつぶさなければならないと思ったので、行政首長を公選にすると、政治的立場は無定見で自分の選挙区の利害ばかり重視する利権議員が増えるということを、ゲーム理論モデルで示そうとしたのだ。そしたら、現実には起こりそうもない解がひとつ発生して、どうしてもそれを消すことができなかったので、結局あきらめてしまった。
 その解というのは議院内閣制を想定した場合に発生する。左派と右派の二政党を想定しているのだが、どちらも過半数がとれないときには、日和見主義の選挙区利権議員と連立することになる。すると、日和見主義者の側から見たら、1位政党と連立するよりも2位政党と連立したほうが自分の主張が通りやすくなる。だから2位政党が政権をとることになる。そしたら、有権者はあらかじめそれを見越し、自分の支持政党が2位になるように、左派は右派候補に投票し、右派は左派候補に投票するという結果がでる。こんなことは現実にはあるはずがないのだが、この解を排除する方法が見つからなかった。何かいい方法を思いついた人はご助言下さい。
 書評に戻るが、数理モデルのほか、統計、シミュレーション、実験、事例分析、世論調査、規範分析が、それぞれの専門家から紹介されている。自分としては、シミュレーションの章で、自然科学と社会科学でシミュレーションの意味が違うと言っていたのが勉強になった。僕も「こんなんでましたぁ」というだけのシミュレーション結果とか出しそうなので心しないと。とはいえBASIC衰退後とんとプログラムなど書いていないので、当面手をつける予定はないが。
 あと、「世論調査」って実際の手法を全然知らなかったので、こんな奥深いものだったのかと感心した。「事例分析」の方法論的吟味も考えたことがなかったので勉強になりました。


藪下史郎他編『立憲主義の政治経済学』東洋経済新報社、3,990円(税込)
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 第5章著者の若田部昌澄さんからいただきました。ありがとうございます。また「政治経済学」ってなってるけど、やっぱりマル経のことじゃないよ。

 ここで唐突ですが思い出話を。僕の出た石川県立小松高校の生徒会は、当時、学園紛争以来十年余、「直接民主制」をとっていた。何をもってそう称していたのかというと、生徒全員の総会を毎月開いてたのだ。
 この生徒会には「総会委員会」というクラス選出委員の委員会があり、事実上総会の事前審議機関として機能していた。みんなそう思って運営していたのだが、規定上は妙な文章があった。
 文章は正確には思い出せないが、総会委員会を通らなかった議案は、執行委員会に委ねられ、その処理について執行委員会は総会に報告することというような規定があったのである。総会委員会を通らなかったら当然廃案になるだろうぐらいに思っていたから、最初この規定の意味がわからなかった。
 執行部入りして生徒会室の資料庫にあった直接制移行当時の文書を読みあさるうちに、ようやくとんでもない勘違いをしていたことに気づいた。「総会委員会」というものが何のために置かれたのか。直接民主制では総会への議案提出は執行部の専権ではなく、一般会員みんなが議案を出せる。直接制創設者達は、ここで些末な議案がたくさん出されて議案の洪水となる事態をおそれ、総会に出すまでもないささいな議案は直接執行委員会に送り、実施するもしないも一任してしまうルートを作ったのである。その振り分け機関として総会委員会が作られたというわけである。
 それでさらにもう一歩進めて、なぜささいな議案が総会に出されたら不都合なのかを考えてみた。現実には、議案の洪水なんて心配は最初から杞憂で、十年余の間平均せいぜい月に二、三件の議案しか出てないのである。だったら審議時間制約を理由にした総会委員会の存在意義などないことになる。しかし本当にそうなのか。
 直接制創設者達はルソー思想の影響を受けていたようだし、僕も『社会契約論』を読んだ。そうしてだんだんわかってきたのは、総会で議論して合意した決定というのは、主権者の「一般意志」が直接現れたものだということの重みである。代議機関の決定は、しょせんは主権者の代表者の決定にすぎないから、反対者は反対し続けることができる。しかし、一旦総会決定が下されたら、それは主権者の意志そのものなので反対できない。戦前の天皇の命令みたいなものである。実際、小松高校の生徒会の日常文脈では、「総会の決定」という言葉がそのような「葵の御紋」の意味をもって通用していた。直接民主制とは「総会の独裁」なのであり、だからこそ究極の民主主義なのである。
 だとするととんでもないことが起こり得る。当時思いついた乱暴な表現を使えば、「教室には右足から入ること」という議案が総会に提案されてそれが否決されたならば、「教室に右足から入ることは悪いこと」となってしまうのだ。つまり、ある行事案が総会にかけられるならば、特に扱いを決議しないかぎり、全員が実施に参加しなければならないものになるか、もともと実施してはならないものになるかどちらかである。しかし、実施するにしても執行部の責任で実施して、参加するもしないも一般会員個々人の自由という行事もあっていいのだ。だからこそ、直接制の創設者達は、総会で決めることそのものを否定して、執行部に委ねるルートを作っていたわけである。民主主義というものが、究めれば独裁であることの重大さを、わきまえていたということだ。

 こんな経験をしてたのに、その後マルクスを学びながらどうして四、五年も気がつかなかったのか不思議なのだが、大学院時代になって、マルクスの唱えた革命政権構想である「プロレタリア独裁」という意味が、突然ようやくわかった。
 この言葉の一番アホアホな理解は、プロレタリアート(労働者)の代表を自称する政党の一党独裁だとか、そのリーダーによる旧勢力への強権的抑圧だとかという理解であるが、そんなことがマルクスの真意でないことぐらいは、とうの昔からわかっていた。マルクスやエンゲルスがプロレタリア独裁のひな形とみなしたパリ・コンミューンは、資本家も含む全市民に秘密投票の選挙権があり、そうやって選ばれた代議員達の間では様々な党派が入り乱れていた。可能なかぎり徹底した民主主義のことなのである。
 ではなぜ「独裁」などと言うのだろうか。僕は最初は、結果としての特定階級による意思決定の独占という意味だと思っていた。労働者階級が人口の多数であるかぎり、可能な限り徹底した民主主義の結果は、労働者階級の意思だけを反映することになる。だから「独裁」なのだと。この解釈でいけば、スウェーデン社民党政権もイギリス労働党政権も「プロレタリア独裁」だということになり、僕は当時そう主張していた。
 しかしやはりその解釈は違ったのだ。マルクスのいた当時のイギリスの議会制国家は、納税額による制限選挙により、まさしくブルジョワジー(資本家)しか代表していなかったのであるが、マルクスやエンゲルスがこれをさして「ブルジョワ独裁」と呼んでいるところは見たことがない。二人が「ブルジョワ独裁」と呼んでいるケースは、我々が普通「独裁」と言ってイメージする正真正銘の独裁ばかりである。
 やがて気がついた。「プロレタリア独裁」の「独裁」とは、高校時代の直接民主制生徒会が「総会の独裁」だと言ったときの、その「独裁」だったのである。
 実は、マルクスの「プロレタリア独裁」概念は、当時のイギリス議会制の対極として考えられたものだと思われる。当時のイギリスのブルジョワ国家は、「コモンロー(慣習法)」の制約を受け、経済活動をはじめとする市民社会への恣意的な介入ができない国家だった。特に、私法の領域に関しては、過去からの裁判所の判例の積み重ねが優先され、女王も内閣も、議会が束でかかって決議しても、それを恣意的にコントロールすることはできなかったのである。
 私見では、「プロレタリア独裁」とは、そうではない国家ということで構想されていたのである。徹底した民主主義であるがゆえに、制約なく何でも決めることができ、決めた通りに自由に世の中を動かすことができる国家なのである。だからここでは「独裁」の反対語は「民主主義」なのではない。「民主主義」はここでは「独裁」の前提であり結果である。「独裁」の反対語は──「立憲制」なのである。

 だから立憲制というのは、民主主義の制限を意味する。民主的でないなら当然、たとえどんなに民主的だったとしても、公共的意思決定を制約するルールに重きを置く原理である。なぜ民主的政治体制において、あえてこんなことが必要なのか。それがこの本のテーマなのである。
 この本では、立憲制のイメージを、硬性の成文憲法による通常立法の制約という点に絞り込んでいる。そのため、立憲主義の典型はアメリカ合衆国憲法の制定とされ、不文憲法は成文憲法よりも立憲制という意味では劣るように扱われている。
 しかし僕はそうは思わない。人為によって社会契約的に設計された成文憲法は、やはり人為によって意識的に改廃できる。そうではなくて、意識的な人為が効かないことこそ立憲制の本質である。だから、イギリス不文憲法体制、とりわけて19世紀の古典的自由主義時代のイギリスの不文憲法体制こそが、立憲制の極北だと思う。社会契約的説明は数理モデルにするとき分析上扱いやすいという利点は尊重するが、数理モデルも将来的には、過去から引き継がれたナッシュ均衡に人々の公共選択が拘束される事態を分析できるよう発展するべきである。そうすると、立憲制はいいことばかりでなくて、悪いこともあり(パレート非効率など)、それを軽減するためにはどうすればいいのかということもわかるようになるだろう。

 では僕は立憲制についてどう評価しているのかと問われれば、向こう百年以上は立憲制によって民主主義を制限することは必要なことだと思っている。たとえ労働者政権ができたとしてもそうだと思う。
 立憲制が必要な理由について、現代経済学の知見からこれまで打ち出されてきた様々な説明を、この本の第5章で若田部さんが奇麗に整理している。
 例えば「時間整合性」のような問題がある。僕から勝手に例をあげれば、国に企業を呼び込もうとするとき、投資を終えて繁盛しはじめた後になったら、もう企業は逃げられない。だから政府としてはそのときになって重税を課税したり事業を接収してしまったりしたらもうかる。それがあらかじめ見越されるかぎり、企業はビビって、その国に投資しようとはしないだろう。だから、たとえ政府が変わろうが議会が入れ替わろうが、投資は保護されて、あとで勝手に重税をかけたり接収したりはしませんという保証を事前にする必要がある。それが「財産権」というわけである。
 また「情報の不確実性」という問題もある。各自は自分がどんな境遇に将来なるかわからない。万一不利な境遇に陥った時に、多数の専制から身を守るために、多数決では犯し得ない「人権」といったルールをあらかじめ作っておくことに意味がある。
 あるいは、人間というものは、目の前の苦しさを逃れ、目の前の誘惑に負けてしまう存在かもしれない。差し迫ってない今から見たら不合理な選択を、将来目の前のことにかられてしてしまわないように、今のうちにルールで縛っておくということも必要かもしれない。
 まあ、この三番目のは、現実にはあるかもしれないけど、公的にそう言いきってしまうとエリート主義的になってまずいかも(上限金利問題などでもある問題)。しかし残り二つは、市場経済をとるかぎり、必ずつきまとう問題である。流動的な参入や取引のある社会で、いかにして安心して経済行為ができるようにするかという問題に答えるものである。向こう百年は、労働者政権だって市場とつきあっていかなければならないと僕は思うので、この点で立憲主義的制約は必要になるのだと思っている。
 しかしこの三つ以外にも、僕が重要と思っている根拠がある。合意可能性の問題である。互いにライバルとして利害を異にする資本家どうしでは、みんなが納得する政治決定をその都度民主的に行うことは困難である。しかし、それぞれが自分の有利なルールにしようとしてその都度争い合って、結局何のルールもできなければみんなが損である。だから、過去の判例でこうなっていますということになれば、とりあえずみんなそれを受け入れて世の中がまわることになる。それゆえ立憲制、しかも不文のやつが存立するわけだ。
 マルクスの時代には、労働者階級は資本家と違ってみな均質な単純労働者で、同じような生活をして利害もほとんど一致していた。だから、民主的合意が簡単につくと思われていたのだろう。立憲制を排した「プロレタリア独裁」の構想はそこから正当化されたものと思われる。
 僕も、語感が悪いとか誤解を受けるとかいう理由だけでは、プロレタリア独裁の旗を降ろしたりはしない。今日この構想が採用できない最大の理由は、そんな無制限の民主主義が可能になるような合意可能性がないからである。19世紀の単純労働者とは違ってしまっているのだ。
 特に、公共的意思決定というものは、人間どうしの社会的依存関係を調整するために必要になるものなのだから、その意思決定の範囲は、社会的依存関係の主要な範囲をカバーしていないと意味がない。そうすると今日では社会的依存関係の範囲はグローバルなものになっているのだから、国民国家レベルの意思決定ではその調整のためには小さすぎて間に合わなくなってしまっている。理想を言えばグローバルな規模の民主的公共意思決定が必要な時代なのである。しかし現実には広すぎてそのための合意可能性は低い。
 そうである以上、国民国家レベルの公共意思決定では、どんなに民主的に民意を反映したとしても、決めてはならないこと、決めたとしても実施できないことがいくらでもあるということになる。実際、経済のグローバル化の進展の中で、各国の政策の取り得る幅は極めて狭くなっている。短期的にはへんな政策をとる国があったとしても、経済混乱を経て長期的には取り得る政策の範囲に収まるものだ。
 こうしたグローバルなレベルでの立憲的制約は、根源法として書かれたグローバル成文憲法としてあるわけではない。制憲議会に相当するようなはっきりとした機関があるわけでもない。種々の条約や協定、様々な国際機関や諸政府が絡み合って長期傾向的に不文のルールが作り出されるものなのである。将来、労働者階級がヘゲモニーをとった場合にも、世界の労働運動の連帯によって多少この過程が意識的になるというだけで、向こう百年は、組織的意思決定によってスムーズにコントロールできるものではないだろう。
 この本の立場は、成文憲法の意識的制定に重点を置いているために、このような、今日の民主主義にとって極めて重大な制約となっている立憲システムの問題が、視野に入りにくくなってしまっている。これを視野に入れるべく発展することが今後の課題だろう。


有賀誠、伊藤恭彦、松井暁編『ポスト・リベラリズムの対抗軸』ナカニシヤ出版、2,800円+税
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 第12章の著者の田上孝一さんからいただきました。ありがとうございます。
 様々な現代の政治思想をその専門家が解説している本なのだが、本全体を貫く統一的な特徴がある。リベラリズム、リバタニアリズム、コミュニタリアニズム、熟議民主主義等々の今日の政治思想のそれぞれについて一章ずつあてて、その内部で争われている二大議論を紹介して、章の最後でその論争に対する著者の評論を書くというスタイルである。そのため、今日の世界の政治思想の状況を知るための、極めて見通しの良い入門書になっている。大変よい勉強になりました。


青木孝平『コミュニタリアン・マルクス──資本主義批判の方向転換』社会評論社、2,500円+税
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 不倶戴天のコミュニタリアン方面のかたの一人ですが、面識もないのになぜかご新著を贈っていただきました。どうもありがとうございます。
 でも、この本の立場からは、僕の批判は、注の中の一箇所でわずかに触れるだけではすまないでしょう。本の半分ぐらい費やして批判すべきだと思います。この本では、弁証法も唯物史観も労働価値説も疎外論も搾取論もダメダメだというマルクス批判がなされているのですが、それはこの本の立場に立つ限り全くそのとおりで、この批判をするためのマルクス解釈に間違いはないと思います。一見左翼的常識に反するようなマルクス像を発掘する手際は、僕より周到で、この点だけでもこの本を読む価値は十分あると思います。ただここで解明されているマルクスを、僕なんかは、だからいいのだと評価するのに対して、この本はだからダメだと言っているだけです。(宇野については逆で、僕が批判すべきだと思っている点に、評価すべき点を見いだされている。)
 ただ一点最後まで疑問が解けなかったのは、これほどマルクス思想の根幹部分を否定しておきながら、なんでまだ「マルクス」と言わなければならないのかということです。反マルクスと名乗った方が、読者が増えて当人のためになるのではないかと強く思います。


では最後に少し・・・
吉原直毅『労働搾取の厚生理論序説』岩波書店、5,200円+税
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 あるえらい先生との会話で、この本の話になって、おっしゃるには、
「あの本、半分くらい、あんたのこと書いてあるね。」
「はあ・・(いや、せいぜい6%くらいですけど)。まあ、全部批判されてるのですが」
「そやね。まぁ、はたから見てたら、あんたら何やら細かいこと、ごちゃごちゃやっとるなあという印象やな。」
「はぁ」
「そんなことして、何の役にたつんや。」
 この問いに対して、まじめに大義名分を立てることもできたのである。しかもそれは決して口先だけのことではなくて、本気で社会的意義と有用性を信じているものとして。しかし、僕の口をついて出た即答は、
「おもしろい。」
 そうなんです。正直言えば八割がたの理由は、おもしろいからやっているのだ。どうせ数年後にはまた直接に社会的な仕事に追いまくられるようになることは目に見えている。それまでのあいだぐらいは、こんなこともやらせてほしい。
 というわけで、この本の全面的批評は必ずやります。



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