松尾匡のページ

08年6月18日 山形浩生さんの『「はだかの王様」の経済学』評の件


(続編『「はだかの王様」の経済学』ウェブ議論小括 を書きました。あわせてお読み下さい。)

 というわけで、山形さんが拙著の批評をして下さいました。
http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html

 いやいや、見事にこきおろされちゃった。まだの人はとりあえず読んで下さい。できれば(いや是非是非)拙著をお買いいただき、以下の文章とも読み比べて、山形さんの評が適切かご判断いただきたいと思っています。


【設備投資の話の件】

 いや山形さんは大事なこともおっしゃってるんですけどね、ただ少なくともこの最初のほうの設備投資についての議論だけは駄目ですよ。山形さんって経済学わかっていらっしゃる人だと思っていたけど、それにしてこういう理解なら、自分の書き方に、なおも独りよがりさがあったということで、真剣に悩まないと。
 ともかく、僕の本を読んでマクロ経済学わかってる人からは、山形さんの方が疑われてしまうし、読んでない人からは、そんなアホなこと書いてある本かと思われてしまうし、是非これはやめた方がいいです。

 まず、「機械/設備は労働を置きかえるものであり、失業を生んで人間を疎外するものである」とか書いてないです。うーん。なんでこんなとらえかたされるんだろうか。

 あそこで私が言っていることは、このかんの景気回復によって、労働投入は増えているけど、消費は増えていなくて、最終生産物の増大は設備投資と純輸出の増大にまわっているのだということです。で、これが、消費として自分の身に返ってこないもののために労働が増えている、設備投資の自己目的的拡大に奉仕させられていると、私は批判しているわけですね。
 それに対して、山形さんは次のようにおっしゃっています。

 最終的な財の生産につながらずにひたすら設備投資だけが「自己目的」として増えるなんてことがあるわけないだろ!

 「最終的な財」ということで何をイメージされているかわかりませんが、消費財ということならば、いやこれがあるんですよ!
 その昔、マルクス経済学の恐慌論に「過少消費説」というのがありました。景気がよくなってどんどん設備投資が膨らんでいったら、どこかでそれが大量の消費財を生み出す時期がやってきて、現実の需要をオーバーしてしまって恐慌になっちゃうというもの。ま、現実にはこんな感じで不況になるケースも、たしかにあるのでしょうけど、だから投資の自己拡大は持続し得ないのだという議論をする人は、今日では、マルクス経済学でも主流派経済学でもいないと思います。消費につながらない設備投資の拡大が持続する可能性はあるのです。
 労働供給制約の話をわきに置いておけば、均衡的な成長径路は高いのから低いのまで連続無限個あって、それぞれに対応してGDPに占める投資の割合が高いのから低いのまで連続無限個あって、さらにそれぞれに対応して、生産資源が投資財部門に向けられる割合が高いのから消費財部門に向けられる割合が高いのまで連続無限個あります。そのそれぞれが全部、持続可能な一般均衡解なのです。(そのうちどれが一人当たり消費が一番大きいかは、いろいろな条件で決まるが、少なくとも言えるのは、GDPに占める投資の割合が高ければ高いほど一人当たり消費が高くなるなどということは決してないということ。)
 わかりやすいように、理論モデル上の極論を言えば、誰も一切消費せず、消費財部門が存在せず、人々が霞を食って働いて、ただひとえに投資財部門の設備投資のために投資財部門で生産が延々なされ続けるという状態も、均衡として存在し得るのです。こんなのは誰が考えても転倒した状況でしょう。

 それで、私が言いたかったのは、どの均衡にするかは私達が選べるべきではないかということです。もっとみんな状況が改善される均衡が別にあるのに、そうでない均衡になっているのではないか。
 おそらく、今日の日本の完全雇用成長とつじつまのあう、GDPに占める設備投資の比率は、かつての不況時代の比率で十分だったのではないかと思います。今ざっとラフな計算をしてみたら、GDPに占める設備投資の比率は、平成不況どん底の時期で13〜14%くらいなのに対して、近年の資本係数は2ちょっとなので、前者を後者で割ると6%を超える成長率が出ます。まあ実際にはここからいろいろ差し引くものはあるのでしょうけど、今の日本にとっては十分な率だと感じます。
 なお誤解してはならないのは、この話は、均衡的な成長径路の話です。失業者蔓延の状態から完全雇用にもっていくには経済成長が必要ですが、この場合の成長は話が別であって、極論すれば設備投資が一切無くても可能です。全部消費需要が増大することによっても実現できる。まあそれは現実の資本主義経済では無理でしょうけど、でもいくらなんでも、GDPの増大分がひとつも消費の増大ではない、こんな景気回復なんて、そりゃないでしょうと僕は思います。
 (あ、それから、念のためですが、今言っているのはGDPの増分の中身の話ですからね。ΔY=ΔIでΔC=0というのはおかしいという話ですよ。設備投資全体がなくなってGDP全体がすべて消費になるべきだと言っているわけでは当然ありませんからね。)

 なんか私へんなこと言ってますかね。何ならアメリカの有名経済学者数人に問い合わせてもらったらいいと思いますけど。
 正直言って、なんでこんなことに山形さんが噛み付いたのかよく把握できてないのですが、ひょっとしたらある一つの会社の中で社員が働いている状況をイメージして、その労働の増加がその会社の設備投資のために働かされるのはけしからんと言っているとか、そんな受け取り方をされたのかな。それで、オフィスが広くなれば従業員にとってもいいだろうとか、エアコンが入れば従業員も快適だろうとかおっしゃっているのかな。まあ、めぐりめぐって全く議論がつながってないわけではないけど。
 しかしそうだとすると落ち込んじゃう事態ですね。山形さんって経済学にわりと近いところにいらっしゃる人だと思うけど、その人にしてこういう読み方をされたということは、同じように読む人が山のようにいるということでしょう。自分としては、徹底的にわかりやすく書いたという点で、ちょっと自信を持っていた本なのに、やはり独りよがりだった。まだまだ何と道は遠いのか。

 ちなみに細かいことですが、「松尾がそうやってバカにする「正社員」と呼ばれる身分になれた人」という表現はよくないですね。本の冒頭の書き出しからわかるように、今世間では「格差問題」とか言って圧倒的に非正社員の境遇の問題が取り上げられているのに対して、それも大変深刻な問題で何とかしなければならないけど、それだけではないでしょう、正社員も大変ですよと言っているのがここの論旨ですから、やはりどうしてこういう表現が出てくるのかよくわかりません。

 ともかく、なんだか私が景気回復がいけないことと言っているようなまとめに読めてしまうのですが、違うのかな。私がそんな主張をするはずがないことは、山形さんはよくわかっていらっしゃるはずなのですけど。本でも、こんな景気回復でも、不況よりはましだと、はっきり書いてあるし。
 元来リフレ論が主張していた景気回復策は、貨幣が、他のすべての商品に対して一様に減価することが見込まれるようにしようというものです。だから、物価も賃金も同率で上がることが想定されていたのです。さしあたり、その点に関しては相対価格への影響がない想定です。しかし、現実の景気回復過程は、賃金デフレの脱却が一番遅れた。相対価格が歪んだわけです。それを反映して資源配分も、投資財生産に向かう割合が増えた。誰のための景気回復なのか。これは望んでいた景気回復の姿ではないと言っているわけです。
 まあ、これでいいんだという立場ももちろんあると思うし、その立場からの批判はいろいろあると思いますが、山形さんのような批判では不適切だと思います。


【疎外の説明について】

 さてそれで、次の疎外についてのご批評について。
 おもしろい画像まで作って、こんな無内容なことも「疎外」と言えてしまうという例をあげて、揶揄していらっしゃるのですけど、的をはずしています。
 疎外論で、各自から外に投影される「本質」というのは、社会的依存関係をまわすのに必要なことです。だから、「きちんと食事を食べる自分」というのも「適切に散髪した自分」というのも、例としては不適切でしょう。

 第1章、第2章で、さんざん「はだかの王様」をモデルに使って「疎外」を説明してきたのですから、これが典型的には社会的相互関係の中で発生することだということは、わかっていただけると思います。だから、ここであげられている例のような個人的な思い込みは、あまり関係がないものです。
 個人的な思い込みの例であげるならば、拒食症などならば、立派な疎外の例でしょうけど。「社会に受け入れられる自分」というのが、「スリムな身体」の観念に外化して、それに抑圧されるわけですから。
 そもそも「ものごとをきちんと覚えられる自分」というのが「偉大なノート」に外化しても、ノートが自在に書いたり消したりできるものなら抑圧されたりはしないでしょう。そのノートをカミさんが管理しているのならば、恐ろしい疎外でしょうけど(笑)。まあもっとも、左門が凡庸なバッターだったら、左門ノートが疎外態になっていたかもしれないかも?。

 というところなんだけど、やっぱりなかなか理解してもらえないものなんですかね。
 山形さんは、「欲望」「欲求」「目標」がすべて「疎外」の図式にあてはまってしまうとおっしゃっていますけど、違います。「健康でいたい」という目標のために、「禁煙」という観念を立てて、「たばこを吸いたい」という自分を抑えることは、「疎外」ではないのです。こういうのは、長期的な欲求と目の前の欲求の対立にすぎず、「疎外」ではなくて「葛藤」です。仮にたばこが健康に悪くないということが証明されたとして、そのあとになっても、なおも健康のための禁煙の観念にとらわれ続けてストレスを感じていたら、そのときはじめて「疎外」になるのです。

 もっともこういう個人的な思い込みは、たいていの場合は自分で自由に変更できるし、そうじゃなかったとしても、どうぞご勝手にという面がありますから、さして問題ではないです。問題になるのは、これが社会的なものの場合です。93ページに書きましたが、「「決まりごと」や「思い込み」「慣習」などをとりあえず立てて目の前のわがままな欲望を抑えてがんばることは、みんなのくらしに役立つならばいいのことなのです。ところが、今までの「決まりごと」や「思い込み」「慣習」などが人々の都合に合わなくなっても、みんなでしめし合わせることができなければ、それをやめることができなくなります。ここに疎外が続く原因があるわけです。」

 山形さんは、

宗教だって、神様はすごいかもしれないけれど、そう思った瞬間に残されたのは利己的で身勝手で惨めな虫けらのような存在たる自分だけ、というのは明らかに変だ。神様は 1,000 くらいえらいし、あたしはもちろんそれには及ばないにしても、10 くらい行ってるからなかなかのもんじゃないかしら、と得意になって「抑圧→みじめ!」にならない道だってあるだろうに。

と書いていらっしゃいますけど、実際虫けらのように思うようになって、とうとう虫けらのように人を殺し出す例が絶えないから問題なんじゃないですか。

 どうもこのへんの山形さんの叙述も、本当に理解いただけていないのか、わかっていてわざと悪意でやっていることなのかよくわからないのですが、たぶんこのご説明では「疎外」とは何かが読者にうまく伝わらないと思います。
 「疎外」とは何かということについては、ご引用いただけていない、拙著のこの説明が一番わかりやすいと思います。「「考え方」「理念」「思い込み」「決まりごと」等々といった頭の中の観念が人間から勝手に離れてひとり立ちし、生身の人間を縛りつけて個々人の血の通ったくらしの都合を犠牲にしてしまうこと」です。
 第6章では、ゲーム論を使って説明しなおしていますので、経済学のわかる人向けに言い換えると、もっとみながよくなれるやり方があるのにナッシュ均衡に陥ってそうなれない状態、あるいは、状況の変化によってはそういう状態に陥りかねないシステムのことです。
 要するに、人々の振る舞い方についての予想がひとり立ちしていて、それを前提にして各自が少しでもましな目にあうように振る舞うと、当初の人々の振る舞い方についての予想が再生産される状態で、一旦そうなると、もっとみんなにとっていいやり方があっても移れなくなるというものです。

 このような状態のために様々な重要な問題が起こっていることは、現在、主流派経済学でも多くの人々が積極的に取り組んでいるとおりで、決して山形さんが取り上げておられるような、つまらない事例ばかりではありません。とても大事なことだということは、学界の共通の知見ではないですか。
 実際、私の本では、(山形さんの評では触れてませんが)スターリンや毛沢東の粛清とか、戦時中の日本とか、赤軍派のリンチとか、オウム真理教事件とか、本当に多くの人々が苦しみ、人命が失われたケースを典型例としているのです。このようなことは誰もが避けたいと思うじゃないですか。でも、ほっとけばこんなふうになってしまうメカニズムが、何らかの社会システムの中に備わっていたとしたら、その原因を究明することはとても重要なことです。それをやろうというのが、この本の問題意識なのです。


【「合意」可能性について】

 以上書いた論点は、あらかじめ何かの予断を持って読み始め、それこそ「思い込み」にとらわれながら読んだとしか思えないものでした。このようなケチつけのようなことはおっしゃらず、「戦慄」したという大事なことだけ書いていただいたらよかったのに。
 で、その大事な問題というのは、「みんなで合意なんかできるか」という問題です。つまり、もっとみんなにとっていいやり方があるからそっちに変わろうと合意ができれば、既存の振る舞い方についての観念に縛られることはないのだけど、そんな合意が可能か。それはいいことなのか。ということです。濱口先生のブログで拙著をご紹介いただいている中での批判点も、そのことに関係していると思います。

 ここでまずご留意いただきたいことは、あの本では、ではマルクスはどう考えていたのかということを書いているのですが、その話と、じゃあ私がどう考えているのかという話は別ということです。山形さんは、第5章あたりのマルクスの主張の解説の部分を私の主張のようにとっていらっしゃるところがあります。で、その先を読む気をなくされてしまったそうです。残念。
 もっともこれは実は、新任校のゼミでテキストに使っているのですが、やはりゼミ生からそういうふうに受け取られるところがあって、まずかったなあと反省しているところです。第4章、第5章は、『資本論』の解説をしているのですが、ほーら、『資本論』はいろんなこといっぱい言ってるけど、あれも、これも、みーんな疎外論の図式だけできれーに説明できるんですよ、ということを言うのが楽しくて楽しくてノリノリだったので、そのへんあまり自分との距離感を感じさせない書き方になっちゃったと思います。

 マルクスは、自発的な合意ということについて非常に楽観的だったと思うのですが、その根拠は、労働者がみんな単純労働者になって、労働はみな同じ、消費生活もぎりぎり生存維持的でみな同じになったとみなしたからだと思っています。これが果たしてどこまで正しいかはわかりませんが、とりあえず19世紀においてはあてはまったと受け入れておきましょう。
 そういうわけですから、ここにおける合意による自由というのは、全員がみな同じ利害を持って同じように感じることに基づく全体主義的な自由であって、正直言って私自身は気味悪いです。「戦慄」とおっしゃるのももっともという面があります。
 それで、マルクスもその点は自分なりにイヤだったようで、共産社会に低次の段階と高次の段階の区別をつけたのは、どうやらそのせいだったようです。つまり、共産社会の低次の段階で労働者の合意による生産のコントロールが実現できたならば、やがて生産力が飛躍的に高まって、労働時間が短縮して自由時間がぐっと伸びる。すると、人々が社会的依存関係に縛られなければならない時間は活動時間のわずかな部分だけになって、残りの時間は社会的依存関係の外で、気の向くままに活動できて、各自はそこでそれぞれの個性を発揮していく。と、このような展望になっています。
 いや実は、これはもともとの原稿では書いていたのですが、枚数の関係で削りました。すみません。

 まあしかし、マルクスのこの展望は20世紀以降にはあてはまらなくなったとは、ちゃんと書いたのですけどね。そして19世紀に戻ることを目指すのにも反対だとも書きました。

 では現代の私はどうなのかということになると、はい、「合意」というものは難しいです。それは山形さんがいろいろ書いて下さっているとおりです。
 だからこそ、「一挙全体的変革は諦めましょう」というのがあの本のメッセージになるわけです。できるところから部分的にちょっとずつ疎外を克服しようということになるわけです。

 でも、じゃあ小集団なら合意できるのかといわれたら、いやいや、かえって恐ろしいことになったりしますよね。まあ山形さんが引き合いに出したNAMは、最初からヤバさを感じて遠巻きにしてましたけど、濱口先生があげられている例はNAMどころでない、それこそ「戦慄」のケースです。本の中でもそのへんの危険性について重々警告しているつもりです。
 ではどうすればいいのか。すみません。書いてません。これも枚数の関係で削りました。これは、「あとがき」で触れましたが、『市民参加のまちづくり』(戦略編)で、これまで経験してきた事例に基づいて、最も基本的な議論をしているので、是非ご覧下さい。
 何かちょっと、人々のニーズを満たす事業をしようとします。山形さんの書かれているとおり、人々のニーズはさしあたりは自分でも自覚できないものです。たとえ関係当事者(ステークホルダー)の合意形成をはかっても、ニーズが潜在している状態では、そもそも誰が関係当事者かということ自体がわかりません。だからこういう段階では、誰かがリーダーに名乗りをあげて、ニーズについての仮説を作って、この指とまれと事業を提起するほかないです。だからこの段階では市場志向でリーダー主導で開放的拡張的な事業展開になるわけです。
 しかし、その結果ニーズの自覚が進んで関係当事者が集まってくると、リーダーの意思とのズレや事業展開の一人歩きが関係当事者に感じられるようになり、もっと関係当事者の合意に基づく日常的な確定的事業への転換が要請されることになります。すなわち、共同体志向で内包的な事業になるわけです。
 ところがここで、合意形成が深化し、組織文化のようなものもできてくると、だんだんと意見の通らない経験を繰り返した人や、違和感が増した人々の脱落が起こってきて、外部の人も新しく加わってきにくくなってきます。すると、本来は関係当事者かもしれない潜在ニーズを持った人が、外部者扱いで合意の外におかれ、やがて閉鎖的カルトへと変質していきます。
 それゆえそうなる前に、また誰かリーダーが潜在ニーズについて仮説を作って、この指とまれと開放的事業に乗り出さなければならないことになります。

 つまり、開放性と合意性の両立が目指すべきところなのですが、開放的になると事業が個々人の手に負えなくなる疎外の危険があり、合意的になると閉鎖カルトの危険がある。だからうまくやっているところでは、双方の変質がひどくならないうちに、交代で反対側に軸足を移したりするわけです。場合によっては、組織を会社とNPOなどに分けて組み合わせたりします。まあ現場ではいろいろ難しいことが多いのですが。
 だから、この本でも「アソシエーション」って言っていますけど、「アソシエーション」というのは、「市場」とか「ヒエラルキー」とかと並ぶ、人間関係原理の概念であって、マクロな社会体制の名前でもなければ、NPOなどの事業セクターの名前でもないのです。個人が自立した開放性と、納得づくの合意性が両立した関係のことで、そんなもの、現実のNPOでも協同組合でも、全面的に実現した組織はありはしない。逆に、株式会社でもお役所でも、そういう人間関係を志向していくことはできると思います。

 そして何より、自ら陥ってはならないものに「疎外」と名前をつけ、そのメカニズムを理解しておくことが、歯止めとして効くんじゃないですか。そして「あとがき」でちょっと触れましたが、様々な社会関係に一人の人が同時に属して、どこか特定の集団に埋没しないようにする。それで、最悪どこかが変質して疎外に陥っても逃げ出せるようにする。そうすることで、ミクロに見ればどこかが変質しても、どこか別のところで新しい取り組みが興って、長い目で見て少しずつでも疎外が克服されていけばいいと思っています。

 ま、しかしそうは言っても、規模が大きくなると、営利会社じゃない事業形態でも立派に資本主義的疎外に陥りますよね。全くもって。
 久留米大学はこじんまりしてよかったです。いろいろなルートで意思反映ができて、末端の個々人でもかなりコントロール可能な部分が多かったと思います。忙しくこきつかわれて大変とグチっていたけど、本当はかなり意義を感じてやってたし、好きでやってた側面もありました。
 で、資本主義的疎外ってどこのことだ?



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