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08年6月21日 『「はだかの王様」の経済学』ウェブ議論小括 (6月24日追記)


(前回のエッセーの続編ですので、まだお読みになってない人はそちらに目を通していただくと幸いです。)
(山形さんが追記を書かれていますので、私も下に追記しました。)

 いかん。移籍して雑務から解放されたら、ついつい「はだか祭り」(田中秀臣さん造語)ばかり気になって、他に何も手につかないです。思い立って英文論文をひとつ書き始めたところだったのに...。稲葉振一郎さん談「いやいやそちらを優先するべきですよ。」はい、ごもっともです。

 ともかくいろいろご評論いただいたみなさま、ありがとうございます。id:econ-economeさんは山形さんとの間の論争点を適切にまとめてくださいました。
http://d.hatena.ne.jp/econ-econome/20080619/p2
稲葉さんは、考えるべき点を整理してくれるエントリーを書いてくださいました。私の志向についてのご言及に、誤解はないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080620
稲葉さんは、「疎外されていない状況」とは「完全競争市場」かも、と書かれています。私の本でも書きましたが、一般均衡論の始祖ワルラスは、自分では社会主義者のつもりで、ワルラスモデルというのは自己の提唱する「アソシアシオン」の描写でもあったのだそうです。彼は、プルードンに対抗して「科学的社会主義(!?)」と自称したのですが、その意味は、現実の資本主義に対して、それを批判するための基準となる参照点をワルラスモデルで分析したからということです。

 しかし、本を出したらいろいろな人からのご批判は当然あることだと思いますが、何がショックかって、削除と書き変えを繰り返して、これで誰にでも絶対わかりやすいと、それだけは大いに自信を持って出したのに、やっぱりうまく伝えるのは難しいということ。いや勉強になりました。今後に活かさないと。

 たとえば、id:T-norfさんからご意見をいただいて反省。ちょっとこちらを読んでいただきたいのですが。
http://d.hatena.ne.jp/T-norf/20080621/ReMatsuoComment
要するに、私たち経済学徒は、企業や人々への所得分配のあり方と、最終生産物の様々な使い道のパターンと、いろいろな部門への生産資源の配分のあり方とが、お互いうらはらになっていてつじつまがとれた状態を考えて、そういう状態どうしの比較でものを言うことにすっかり慣れているわけです。ところがそんなことを当たり前のように前提するのは不親切だということですね。その間の市場調整のルートまである程度言わないといけない。まあしかし、あんまりそれを言ったら特定の具体的ルートにイメージが縛られてしまうので、とどのつまりの肝心なところだけ取り出しているのですけど。

 わかりやすいように別の例で言いましょう。高齢社会で労働力人口が一定の中、将来にわたる福祉の充実をどうするかという話がありますよね。これはとどのつまり、総労働のうち、どの部門の労働の割合を減らして、その分福祉部門の労働の割合を増やすかという問題です。例えば、消費財部門の労働を減らしてまわすか、投資財部門の労働を減らしてまわすか。
 実は消費財部門の労働を減らしてまわすということは、すなわち、例えば増税で福祉支出をファイナンスして福祉労働を増やすなら、増税で大衆の購買力が減り、消費需要が減って、消費財部門が縮小して、その雇用が減るということです。あるいは、貨幣発行で福祉支出をファイナンスして福祉労働を増やすなら、それによる物価高で大衆の購買力が減り、消費需要が減って、消費財部門が縮小して、その雇用が減るというルート。他方、投資財部門の労働を減らしてまわすということは、すなわち例えば、赤字国債の市中引き受けで福祉支出をファイナンスして福祉労働を増やす一方で、それによる利子率上昇で投資需要が減り、投資財部門が縮小して、その雇用が減るということです。まあ、これらはあくまで一例ですが、このようなルートが間にあるわけです。それを省略して言っているのであって、需要構造の変化がないのに投資財部門の労働者をいきなり福祉部門にもっていって福祉サービスの供給を増やすというような話をしているわけではありません。

 そういうわけですから、私があの本の冒頭で言いたかったことも、もちろん、そもそも労働者に圧倒的に不利な所得分配が原因で、需要構造が歪み、設備投資や純輸出ばかりが拡大する景気回復になったということです。ただここで、この結果部分ばかりを強調したのはなぜかというと、世間では「格差社会」とか言って、所得分配の不公正ばかりを批判していますけど、そのレベルでとどまっていいんですかという問題意識があるわけです。
 つまり、こうした不平等な分配によって私腹を肥やしている悪者がどこかにいて、そいつのめぐらした陰謀でこのような窮乏が引き起こされているという理解をしていたとしたら、それは違いますよと。あの本の冒頭はこれを強調したいためにこんな話を書いているのです。(景気回復で増加した分の労働投入に関して言えば)私たちは陰謀家の悪者の胃袋のために奉仕しているのではない。そうではなくて、私たちは人間じゃないものを膨らませるために働いていて、そんなはめに陥ったのは誰の設計でもないというわけです。(それゆえ、この対比関係の文脈をわかっていてかわからずか、誰のためでもない仕事などあるはずがないと批判なさる山形さんは的をはずしているわけです。)

 それからもうひとつ、自分の書き方の至らなさを思い知って愕然としたのは、id:svnseedsさんの、この「とりあえず読みましたー。」のエントリー。
http://d.hatena.ne.jp/svnseeds/20080617
 本をご入手いただき、読んでいただいて本当にうれしく思います。この本では、フォイエルバッハという思想家の疎外論を説明してからマルクスの疎外論を説明しているのですけど、その両者の間で、シュティルナーという人の思想を説明しています。svnseedsさんは、このシュティルナーの説明について、次のようにおっしゃっています。
「シュティルナーによる「人間の本質」という観念に対する批判(pp. 77-78)。要は僕の先のエントリ[疎外という概念を批判されている──松尾]はこれに尽きるように思うが、本書全体を通じてこの批判に対する回答は見当たらないように読める。....この批判をまじめに受け取れば疎外という概念がそもそも成り立たないように思えてならない。」
 つまり、シュティルナーを、ご自身同様に、疎外論の考え方を批判した人と位置づけられているわけです。
 ところが、私のつもりでは、フォイエルバッハ、シュティルナー、マルクスは、みんな疎外論者で、中でもシュティルナーは一番極端な疎外論者だと言いたかったのです。疎外とは何かがわかりやすいように、一番極端な主張を持ってきてクリアに説明したつもりだったのです。だから「私の上に私を超えるような何ものも置くな」というシュティルナーの叫びに「激しく同意」されるsvnseedsさんは、立派な疎外論者のはずなのですが。
 というわけで私は、そもそも「疎外」とは何かをご理解いただくことに、根底から失敗していることになります。泣。

 しかし、自分の周りでは、人文系思想系の話にうといと思われる人々から、よくわかったとか、その通りとかとお褒めの言葉をいただきます。
 どうも感じるのですけど、山形さんも、svnseedsさんも、稲葉さんも、田中秀臣さんも、「本来の姿」とか「本質」とか「あるべき姿」とかいう言葉にこだわりすぎな気がします。

 60年代末あたりには、私の本の立場とは異なり、ヘーゲルの疎外論の図式でマルクスの疎外論を解釈した「疎外論」がはやっていたようです。私の学生時代、まあもう80年代でしたけど、30過ぎた革マルのおじさんが、まだ18か19のこの身を捕まえて、しょっちゅう議論をふっかけてきまして、私はいつも言い負かされてとても悔しい思いをしていましたけど、そのときの革マルの疎外論もそれでしたね。この手の「疎外論」は、論者が得手勝手に望む「本来型」を設定して、そうなっていない現実を指して「疎外」であると裁断していたような印象があります。
 それで、70年代は、廣松渉とかアルチュセールかぶれの人たちが、その手の「疎外論」をさんざん批判していたわけです。(実は今度の本でも廣松を取り上げて批判した部分があったのですが、真っ先に削除の対象ですね。当然ですけど。)
 こんな昔の疎外論論争の記憶などもう残ってないだろうと思っていましたが、なんか残響を感じてしまうのですけど。的外れでしたらたいへん失礼しました。

 私の本を読む場合は、そういう60年代末あたりの疎外論のことは、きれいに忘れていただいたほうがいいように思います。よしっ。もうこうなったら、まずは「本来の姿」も「本質」も一切なし。一番おおざっぱな第一次近似の定義としては、自分では自由にできない観念(制度、思想、慣習・・・)が自立していて、生身の自分がそれに犠牲にされていると実感されたなら、それでもう「疎外」だ。いいですね。「皇国の栄光」のために死ぬのはいやだ。「コーゾーカイカク」のためにクビになってワーキングプアで苦しい。「セクハラはいけません」という観念のために女の子のお尻が触れなくなってストレスだ。・・・全部とりあえず「疎外」と言っていいことにしましょう。それで私のあの本はほとんど読めます。
 まあ、シュティルナーは、このレベルで押し通したのですね。それはそれですごいことだと思います。でも他の人は誰もそこまで言い切る勇気はなかった。私もちょっとないです。

 「本来の姿」にしても、「疎外のないこと」というレベルならば、別になんら難しいことではない。フォイエルバッハ、シュティルナー、マルクス三者ともに、「生身の各自が犠牲にならない状態」を求めたと言うことができます。つまり、各自の生命、くらしの都合、本能、欲求、現場の都合等々が抑圧されないことです。やはりこのレベルで、私の本の問題意識は大半理解できるはずと思います。フォイエルバッハなど、強烈な自然主義者で、難しいドイツ哲学の言葉を使って、結局セックス礼賛のようなことまで書いています。

 では、なぜ人を抑圧するような観念にしたがわなければならないのか。それは、それがもともと社会的依存関係をまわしていくためにあるからですね。人間は誰でも社会的依存関係の中ではじめて生きていくことができる。「人間の本質」とはこのことを指しています。当時のドイツ哲学の言葉遣いでは、「水は魚の本質である」という言い方も出てきます。人間が生きていくために不可欠で、しかも人間特有のものが、社会的依存関係ということなのです。人間は社会的依存関係を離れることはできませんから、いやでもそんな観念にしたがわないといけない。そのうち本当は社会的依存関係を破壊するようなまがいものの社会的観念でも、社会的なものとして通用しつづけ、各自はそれにしたがわなければならなくなります。
 だから社会的なるもの(「人間の本質」)が、人間の外に自由にできないものとして自立し、生身の人間がそれに抑圧されるという図式になります。これが山形さんがアップしてくれている私の本の図の例(宗教、国家、貨幣)で言っていることです。「皇国の栄光」のために死ぬのはいやだ。「コーゾーカイカク」のためにクビになってワーキングプアで苦しい。「セクハラはいけません」という観念のために女の子のお尻が触れなくなってストレスだ。・・・みんな同じ図式にできます。

 ここまでのレベルでは、恣意的な規定はない。このような主張が無秩序の元になる危険はあっても、ポルポトの元になる危険はありません。
 いろんな評者のみなさんがご指摘して下さった難しい問題が起こるのは、じゃあ疎外をなくすにはどうすればいいのかというレベルになってはじめてのことだと思います。ここではじめて「本来の姿」の話と「人間の本質」の話がリンクしてきて、それに反発してシュティルナーが席を蹴って立つことになる。フォイエルバッハの解決でもマルクスの解決でも、おそらく「セクハラはいけません」という観念は結局受け入れなければならないことになるでしょうから(笑)。
 フォイエルバッハの場合は、我が身の内に思いやり深い「人間の本質」を自覚せよということになります。それが多くの評者のみなさんには禅問答のように聞こえるのだと思います。
 マルクスの場合は、疎外が起こる原因を「はだかの王様」に見られるように、相互の連絡不全に見たから、みんなで示し合わせて社会的依存関係が個々人の生身の事情から乖離しないようにコントロールすることを目指しました。これが評者のみなさんにはポルポトの元に映るわけです。前回のエッセーでも触れましたが、これは、19世紀の単純労働者化という現実の上に成り立った展望で、その点で私も全体主義的な気持ち悪さを感じるのですが、一応当時の条件のもとでは当てはまった展望だったのだと思っています。

 では今はどうなのか。田中さんは先ほどのリンク先で、人間誰しも観念的生き物だから、観念にとらわれるなという志向自体がポルポトの元になるとおっしゃっています。マルクスが見た19世紀の単純労働者は、おそらく、もともと観念にとらわれることなく、自然科学的欲求がむき出しになっている存在と理解されていたのだと思います。今はもちろんそんな時代ではなく、みんなそれぞれいろいろな人間関係の中で形成された観念にこだわって生きていると思いますので、そのような人々の間でどう共通の合意が作れるのか、作ろうとする志向自体がポルポトの元ではないかという批判は、なるほどもっともなものがあると思います。
 前回のエッセーでも述べましたとおり、だからこそ、疎外の一挙全体的な超克はあきらめましょうというのが、私の本の本旨だというのは、まずもって大前提としてご理解いただきたいと思います。その上で、少しでもましなように、できるところから疎外を少しずつなくしていくとしても、そのために合意が必要だとするとそれがどう可能か。それは、合意というときに必ずしも会議体での多数決や投票や連署のようなイメージにとらわれる必要はないのではないかと思っているわけです。むしろそれは副次的なもので、メインには、気に入ったら受け入れる、気に入らなくなったらやめるということが「合意」というものの中心になるべきではないかと思っているわけです。
 これは、私の本の最後にちょっと示唆しただけの話なのですが、要は、「商人」のたとえで考えていただきたいと思います。何かある一つの疎外の告発が、ただの個人的わがままではなく、関係者が共同でしめしあわせて解消するべきものだという主張は、さしあたりはあくまでそれを主張する人の仮説です。だから「俺は疎外にあっていて苦しいんだ、なんとかしろ」というレベルのことでも、ちょっとした工夫のようなものでも、あるいは本格的な事業であっても、「疎外を被っているとお感じになりませんか」「もっといいやり方があると思われませんか」「こっちのやり方の方が自分のくらしにとって都合がいいとお感じになりませんか」という他者に対する提案です。相手の実感に合致したら受け入れられるし、受け入れられなかったら、もともとの仮説がやはり間違っていたか、あるいはマーケッテングの仕方が悪いかどちらかです。そこで相手が悪いとか間違っているとか言うとポルポトの始まりなのですが、「商人」ならそんな態度はとりません。
 大事なことは、こうした提案や、それらを受け入れたり受け入れなかったりやめたりすることが、自由に公正にできることです。だから公私の権力がそれを妨げていたら闘う必要があるし、他方で、それらが自由に公正にできることを保証するためのルールと道義が、最低限の全体的疎外として必要となるのだと思っています。


6月24日追記
 その後山形さんがコメントを追記されています。
http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html#comments
以上のことで、これに応えるには十分とは思いますが、念のため補足しておきます。

 まず、設備投資や景気の関連については、本サイトの次のエッセーをお読みいただければ、今回の景気回復への評価と対案について、ある程度わかっていただけることと思います。こういう認識が背後にあっての叙述ですので、日頃の立場とあの本の冒頭に書いたこととの間に何の矛盾もないです。
07年10月29日エッセー「最低賃金引き上げは悪くない」

 こんな具体的な過程の話をしなかったのは、上でも言いましたように、「はじめに」の部分は、世間に流布している「一部の勝ち組の者の私腹を肥やすために多数の貧困者がこき使われている」という「格差社会」像に対抗することが目的だったからです。金持ちの胃袋のためではなく、機械のためだし、陰謀のせいではなく、無意識の法則のせいだと。それで、「人間から一人歩きしたことが人間を抑圧する」という本書のテーマの典型例として、「つかみ」に使ったというつもりです。
(そうは言っても、無関係ゆえ原稿執筆段階ではよく知らなかったことなのだが、現実には、形式上資本主義企業でなくて、医療法人でもなくて、独立行政法人でもなくて、NPO法人でもない法人の中には、ごく一部の者の私腹のために人件費を抑えて労働者をこき使っているケースが本当にあるのだと、つくづく思い知った。だから今では、あそこまでこうした類いの格差社会イメージに対抗しようとしなくてもよかったと感じている・・・って、何のことだ? 書いている本人も難しすぎて、何のことだかさっぱりわかりませ〜ん。ガタガタブルブル)

 「疎外」と「葛藤」の線引きの問題についても、上に書いたことからおわかりいただけると思います。自分ではどうにもできない観念のせいで本人が苦しんでいるのなら、それはもう「疎外」と呼んでいいのです。それを人に認めてもらえるかどうかはまた別ですが。その際、「俺は苦しいんだーッ」と当事者性の迫力で押し通すのか、もっとみんなにとって良くなる方法を緻密に考案して提案するかは戦術の問題で、ともかく提起するのは自由だと思います。それを無理矢理押しつけることは、また新たな疎外をもたらすことになるので、それはやめましょうというだけです。

 ただ、ちょっと補足したいのは、60年代末の疎外論と、私の疎外論とは全然違うことを言っているのですけど、だからといって70年代の疎外論批判は私には無縁のことで、彼らの立場と私の立場は両立できる、というわけでは決してないと思います。やはり、70年代の疎外論批判は間違っていたと思うし、乗り越えなければならない。その点での対立はあると思います。
 そんなことを論じるのは一般向けのあの本では全く不適切ですので書いてませんし、ここでもそんな余裕はないので述べませんが、次の本サイトのエッセーから感じ取っていただけると思います。
「用語解説:右翼と左翼」
07年12月25日エッセー「市民派リベラルのどこが越えられるべきか」

 ところで、どこで嗅ぎ付けたのか、師匠と同じ呼び方の人も「はだか祭り」に乗り込んできたみたいですね。この人以前『経済政策形成の研究』に対して、クサすつもりで「元マル経が〜人もいる」と言ってたけど、ようやく現役だとわかったか。
 こないだ新任校の同僚(近経)と、この人に献本どうすると冗談で話していたら、万一うっかり誉められでもしたら売り上げに響くからやめといた方がいいということになりました。けなしてくれたのでよかったです。



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