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08年8月3日 吉原直毅さんの立命館セミナー



 やっと夏休みです。だんだん疲れがたまっていって、いよいよもう限界というときに、うまくしたものでちょうど休みに入るようにできているんだわ。

 7月28日の月曜日に、一橋大学の吉原直毅さんを立命館に呼んでセミナーをしました。吉原さんが今年出した本、『労働搾取の厚生経済学序説』をネタに議論しようという趣向です。僕も本のコメントをすることになったので、週末はその準備でつぶし、当日の新幹線の中までレジュメを書いていました。
 レジュメは、本サイトの「アカデミック小品」のコーナーに画像にして載せておきましたので、興味があるかたは是非ご覧下さい。
 昼に着いて事務が開くまで待ってレジュメコピーを頼んでから、新任校での定期試験の試験監督初体験。まるで入試と変わらない大掛かりな体制にびっくりしました。それを二時間連続でやったのですが、二時間目は早くも監督責任者にされていて、何もわからないから、もう一人の先生にいちいち尋ねてばかり。万事ものものしいので緊張しました。
 二時間分立ちっ放したあとで、吉原さんのセミナーが始まり、この日は吉原さんから、出版以後の研究の進展の報告を受けました(後述)。そのあと懇親会に行ったら、疲れていて回りが早いこと。さらに、キャンパスの宿泊施設に戻ってからも、深夜まで吉原さんと話込んでいました。

 翌朝は、第二ラウンドということで、僕のほうから、レジュメに基づいて吉原さんの本へのコメントの報告をしました。興に乗って盛り上がっていたのは当人と二人だけだったような気もしますが、佳境に入ったところで、僕の委員会の時間がきて打ち切りになりました。
 そのあとその委員会があって、それが終わってから弁当食べながら組合の職場集会があって、それが終わった時点ではたと気が付いたのが、ウエストポーチがなくなっていること。財布もクレジットカードも職員カードも生協の支払い用のカードも帰りのチケットも、すべてそこに入っているので、すわ一大事です。あわてて、今朝から立ち寄ったところを、宿泊施設から順に大急ぎでざっと見ていったのですが、見当たらないまま、試験監督の時間になりました。
 その試験監督が終わったら、すでに教授会が始まっていて、さらにその教授会が終わらないうちに、次の試験監督が始まります。そしてその試験監督が終わったら、もう教授会メンバーみんな、学部の懇親会に京都に行ってしまっていました。
 残っていた数人には、ウエストポーチを探さなければならないからということで、先に行ってもらい、うろうろ探しまわっていたら、旅行業者の人から携帯電話。9月に久留米大学のゼミ生が立命館に合同ゼミに来る飛行機が、みんなの都合のつく日時ではどうにも無理だという難しい内容なのですが、とてもそのときの状況では頭がついていきません。道でそんな応対をしていると、立命館のゼミ生の一人とばったり合い、別の教員の授業の試験対策について尋ねてきたので、今度はベンチで個人指導ですね。「この「貯蓄から投資へ」の「投資」は家計が資金運用で株や債券を買う意味だけど、ここの「投資の減少」の「投資」は企業の設備投資の意味で違う意味だ」というような、言葉の意味の説明から始まって、投資決定論やら乗数理論やらを一通り説明することになりました。

 それで、そのあと手を尽くして探したけどやはり見当たりません。懇親会は断念です。親切な職員の人がもう一度朝の研究会の部屋までついていってくれたのですが、鍵が開かないので、警備員さんに連絡してくれました。それで、警備員さんが来て開けてくれたのですが、やはりありませんでした。もうその日は断念するしかない、誰かが拾って届けられるのを待つしかない...となったとき、困ったのが、夕食食べてないけどどうするか。
 携帯電話電子マネーのiDが使えると思いついたのですが、以前いつの間にかロックがかかっていた経験をしていたので、ロックをはずさなければならない。けど、はずしかたがわからない。さっきのゼミ生にメールしてはずしかたを尋ねたら、おっつけ返事がきて、たぶんこうだという通りにやってみたらビンゴでした。そのあと、自分の自転車を見つけ出すのに一苦労する、一番近いコンビニはiDが使えない、などの困難を乗り越えて、なんとか食事にありつきました。
 そしたらその後、夜中になって、さっきの警備員さんが研究室にウエストポーチを持ってきてくれたじゃないですか。僕が部屋を勘違いしているのかもしれないと思って、隣の部屋を開けてみたら見つかったそうです。なんていい人。上は××だけど、自分の周りはいい人ばかりで、古典的左翼映画に出てきそうな階級社会の構図だな。大好きだぜ立命館。

 こうして終日ばたばたした疲れが全然とれない中、翌朝、夏休み中必要な本や書類を発送のためにボール箱に詰めようとしていたら、前日のゼミ生がもう一人のゼミ生と、「試験終了」だとかでやってきました。9月の合同ゼミのレクリエーションを何するかという話をしにきたはずなのですが、結局延々試験の苦労話などで盛り上がって話は尽き...まあ、まだ先やからね。
 さて、宅急便の使い方を事務長に尋ねたら、キャンパス内に持ち込むところがあるらしいのですが、研究室まで取りにきてもらったほうがいいだろうと、わざわざウェブや電話でヤマト運輸の連絡先を調べ出してくれました。それで、おおかたまあ詰めたかなというところでそこに電話したのですが、所用で京都の衣笠キャンパスに出かける予定の時間には間に合わないとのこと、仕方ないので、予定を一時間先に延ばしました。それで、研究室においてある衣類を抱えてクリーニングに出したりしていたら...。ヤマトさんの側は急いでくれたらしく、早々に現れたもので、慌ててバタバタ。何とか詰め終えたのですが、作業員の人にはせっかく早くきてもらったのに、そのかん待ってもらって心苦しかったです。
 で、そのあと、京都の衣笠キャンパスに行こうかと思ったら、たった今必要な書類をいっしょに詰めて久留米に送ってしまっていたのでした。どこに行けばいいか自体わからなくなり断念。あらかじめ連絡入れたりはしてなかったのでよかったですけど。
 それからの帰途も、いちいち乗り継ぎがぎりぎり間に合わないタイミングだし、ジュースをちょっとこぼしてお店の人を煩わせるとか、京都駅では電子マネーカードを改札機に通して止めてしまう、博多駅では在来線乗り継ぎでない出口にうっかり出てしまう、その乗車券を久留米駅で改札機に通して止めてしまう等々のトラブルを繰り返して家にたどり着いたのです。
 いやあ本当に限界状態だったわけですね。あと一週行かなければならなかったら大変だったかも。もっとも、あと採点という仕事があるのですけど。

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 さて、吉原さんの報告の内容ですけど、例の「階級・搾取対応原理」についてです。つまり、人々の初期資産の大きさの違いだけのせいで、各自の合理的選択の結果の一般均衡において、たくさん初期資産を持っていた人は資本家になり、労働を搾取する一方、ちょっとしか初期資産を持ってない人は(準)労働者になり、労働を搾取される。こんなふうに、初期資産の多寡と、階級と、搾取するかされるかということが、きれいに対応するという原理です。
 その際、労働の「搾取」をどう規定するのかが問題になりますが、吉原さんは、搾取の一般的な「公理」というものをまず定式化して、歴代提唱されてきた搾取概念を、その公理を満たす様々な特殊バージョンとみなします。その公理というのは、各自の所得で買える何らかの消費財の束の上限と下限をこしらえて、その上限を作るための労働が自分の労働時間より大きい人々を「搾取者」、その下限を作るための労働が自分の労働時間よりも小さい人々を「被搾取者」とするというものです。
 この何らかの消費財の束をどう規定するのかで、歴代提唱されてきた様々な搾取概念が分かれてきます。例えば森嶋通夫先生の労働最小化の定式化による搾取は、上限も下限もなく、購入された消費財の束そのものをこの基準消費財の束とすればいいわけです。しかし、この「森嶋型」はじめ、これまで提唱されてきた多くの搾取概念では、「階級・搾取対応原理」は成り立たないと言います。
 それで、搾取概念の条件として、新たに、「搾取が無い状態」の「効率性」と「実現可能性」の二つの条件を課すと、それを満たす搾取概念は、かつてダンカン・フォーリーの提唱したものしかなくなり、そのもとでは、「階級・搾取対応原理」が成り立つのだと言います。この搾取概念は、均衡のもとで現に採用されている技術で生産されている純生産の束を、各自の所得で買えるように相似縮小して、それを作るために必要な労働で規定したものです。
 以上のような議論を、数学的に簡単明解に導くために、吉原さんはここで、各自の消費を生存維持消費財の束に固定した上で、各自が自己の労働を最小化することを目的にするモデルを使っています。そして、このモデルの正当化のために、自由時間増大を展望し、他者の自由時間の領有を搾取とみなすマルクスの文章を引用されています。

 宿泊施設でも深夜議論したのですけど、この最後の論点は、僕は大賛成なのですが、ただモデルの正当化だけだったら、単なる数学的便宜のためということで許されるレベルのことであって、ここまで深いことを言う必要はないと思うのですね。まあ吉原さんの本の最後の部分でも同じことが書いてあったし、単なるモデルの前提の正当化ではないと思いますが。でも、吉原さんからこんな自由時間増大史観のような言葉を聞くとは、ちょっと驚きのところがあります。
 だって、自由時間の最大化ってあんた、そんな工程選択問題を解いたら、出てくる解ベクトルは投下労働価値になるじゃないですか。投下バナナ価値にはなりませんよ。投下バナナ価値が出てくる問題は、木になったまま収穫されない自由バナナを最大化する問題でしょう。つまり、自由時間増大論の立場をとるかぎり、規範論としての労働搾取論を、一般商品搾取定理を根拠にして批判することはできなくなると思います。
 それから、今のことは吉原さんには直接言ってないけど、もうひとつ、宿泊施設で当人と直接議論した論点があって、この立場をとることは、労働搾取論を批判するために、"いわゆる「非弾力性条件」が満たされない場合の「階級・搾取対応原理」の不成立"を持ち出す論理と矛盾すると思います。「非弾力性条件」というのは、富が増加した時に、その率を上回って労働供給を増加させることはないという条件です。これが満たされないと、初期資産が多い富者が、初期資産の少ない貧者のもとに働きにいって搾取されるということが起こり得ます。ローマーなどはこれを根拠に、労働搾取論よりは、初期資産の配分の平等・不平等性が資本主義批判の基準として適切と言ったわけです。しかし、自由時間増大を無条件によしとする立場は、こんな、富が増大したら労働時間を増やす想定とは相容れないでしょう。

 実は、『マルクスの使いみち』では、この問題をめぐって吉原さんとかなり長い議論の応酬があったのですが、根こそぎ削除になっています。
 「非弾力性条件」を満たさない具体的なケースとして、吉原さんは、「ワークホリックな資本家とレイジーな労働者」というイメージを出していたのですが、僕はいまいち賛成でなかったのですね。一般に高額所得者ほどよく働くという現象が見られるのは、賃金が高いから余暇の機会費用が大きい(本来稼げたはずの金を無駄に捨てることになる)せいだと思います。そうでないとするとでは、豊かになると「豊かな消費にやみつきになって働く」せいなのでしょうか。でもそれは通常、効用関数の不可逆なシフトと見るべきであって、さもなくば、また貧しくなったらすぐあきらめてもとに戻ることになり不自然です。
 では何なのか。「非弾力性条件」を満たさない効用関数を仔細に検討すると、商品消費と余暇がとても簡単に取り替え可能な選好になっていることがわかります。だから、余暇が下級財になっていて、豊かになったら、よろこんで余暇を商品消費に取り替えるわけです。その分余暇を減らして働きに出るようになる。
 そうすると、可能ならよろこんで商品消費に代替するような、そんな余暇活動って何だろうということになります。思いつくのは、介護とか育児とか...。つまりこれは家内労働とみなすべきものであって、好き好んでやっている自由時間ではないのではないか。豊かになっても商品消費と取り替えられたりしない余暇時間だけを、「自由時間」と定義するべきなのではないかと思います。

 実は、吉原さんの本全体の本質的前提は、「再生産可能解」という均衡の上ですべてを論じていることにあります。「再生産可能解」というのは、吉原さんのオリジナルな均衡概念なのですが、何らかの生産手段の初期賦存が各自に与えられていることを前提して、経済全体でその範囲内で投下された生産手段と、投下された総労働への賃金報酬で買われる消費財とを、利潤最大化技術によって純生産し続けることができる均衡です(もちろん剰余も出してよい)。
 この特徴は、与えられた生産手段の初期賦存の制約を受ける体系であるという点にあり、ここから、生産手段配分の偏りとして資本主義経済を性格づける「階級・搾取対応原理」などの話につながるようになっているわけです。
 僕の搾取論体系が、この本の中でいろいろ批判されていますが、両者にズレが出てくるのは、本質的には、僕がこの「再生産可能解」とは関係のないところに体系を作っているところにあります。
 それはもう、松尾流「疎外論」の立場そのものからきていると言うほかないのですが、僕の搾取論の場合は、吉原さんが「主観主義」と評しているとおり、徹底して労働者各自の選好が与えられたものとして、その上に立って議論を組み立てているわけです。すなわち、生産手段のあらかじめの制約なく、様々な再生産状態を白紙で選べるものとしたとき、各自の効用が最大化されている状態が搾取のない状態になります。
 だからこの場合、たくさん働いて消費財を得たい選好の人には、そのための生産手段がたくさん配分され(利用でき)、消費財よりは自由時間を比較的多く選好して少ない労働時間を選ぶ人には、そのための生産手段が少なく配分される(利用できる)ことになります。ロック流の処女地開墾後の状態みたいなものですね。
 これに対して、吉原さんの考える規範状態は、生産手段初期賦存配分の平等なので、何を望ましい基準としているかということ自体が違っているわけです。
 しかし、自由時間最大化の解たる労働生産性最大化の技術選択は、基本的には僕の無搾取状態に対応しています。生産手段配分の平等には対応していません。

 吉原さんから言わせれば、僕の考える無搾取状態では、障害や高齢で労働困難な人は、毎日自分が生きて行くのに手一杯で労働をあまり選好しないから、生産手段があまり配分されないということになってしまうという批判が成り立ちます。そこで問題になるのが、何が労働で何が自由時間かということです。「非弾力性条件」を満たさないような余暇活動は労働だとすると、道具にせよ、サービスにせよ、他者の直接間接の労働で代替される活動は「労働」と解釈するべきであり、実質的に万人共通の技術集合からそれを遂行する技術が選べるように保障がなされることは正当化できると思います。


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