松尾匡のページ
08年8月5日 赤間道夫先生の『「はだかの王様」の経済学』評の件
※ 赤間さんのブログにリンクをつけるのを忘れていました!! なんてこと。すみませんでした。その後、本エッセーへのご返答のエントリーも書いて下さっているので、そちらも合わせてリンクをあげておきます。(8/7)
http://d.hatena.ne.jp/akamac/20080803/1217769650
http://d.hatena.ne.jp/akamac/20080805/1217951341
とうとう愛媛大学の赤間道夫先生が拙著『「はだかの王様」の経済学』をブログでとりあげて下さいました。
そう以前、あの、はなちゃんの後見人として本エッセーコーナーに名前のあがった赤間先生です。
──はなちゃんと言えば、どうでもいいことですが、アヤさんは愛媛大学に行ったら、間違えて「ただとも」を紹介しないようにしましょう。(ネタ元考案山崎好裕福大教授夫人)
http://mb.softbank.jp/mb/campaign/shared/cm/0806091b.asx
たぶんマル経関係からの最初のウェブ書評だと思います(マルクス派というならば、すでに哲学者のやすいゆたか先生からの書評をいただいています)。ありがとうございます。マル経関係からは、普通もっと延髄反射的な誤解だらけの反発が当然予想されるだけに、予想以上に好意的な読み方をして下さったとよろこんでいます。
これまでは、拙著のどこをどう読んでそういう受け止めかたに至ったのか波長を合わせるのに苦労する書評も多かったですが、さすがにマル経は勝手知ったるところがありますね。こういう点は受け入れられないだろうなと思ったところは、やっぱり受け入れられなかったという感じで、わかりやすいご批判でした。
わかりやすいとはいえ、赤間先生と同じ疑問を持たれるかたも多いだろうし、重要な問題なので、議論を深めることができたらいいと思い、特にここでリプライさせていただこうと思います。
【ゲーム論は「方法論的個人主義」を超えたか?】
やっぱり一番違和感を持たれたのは、拙著がゲーム理論や方法論的個人主義を積極的に受け入れて、それが「疎外論」だと言っている点だと思います。
そういえば、大学院のころのゼミの後輩の黒坂真君が先頃、『独裁体制の経済理論』という本を出したのですが、『季報・唯物論研究』からその書評を頼まれまして、つい先日原稿を送りました。田中秀臣さんとのやりとりの中で、その原稿を見せる機会があったので、田中さんのブログでもちょっとその件が紹介されてましたね。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20080730#p1
まあ、要は、ソ連のスターリン体制などの近代独裁体制をゲーム論を使って分析しようと試みている本です。別に置塩ゼミのディシプリンとは何の関係もなく、モデル自体もまだまだ限界がたくさんあるのですが、冒頭章にゲーム理論による制度分析の簡潔網羅的なサーベイが載っているのは有用だと思います。
しかし、僕が本質的に問題を感じたのは、著者黒坂君本人は近代独裁体制に対して極めて批判的なスタンスに立っているはずなのに、モデル分析の枠組みがそうなっていないことです。ゲーム理論によって制度を分析することの方法論的な優位点がどこにあるのかというと、僕の考えでは、個々人の厚生を根拠にして制度に優劣をつけて現実を批判できること、条件が変わった時の制度の変化に根拠と見通しをつけることにあると思っています。しかし黒坂君のこの本の枠組みでは、近代独裁体制の存立根拠を合理化するだけに終わっています。まあ分析の第一歩としてはいいのですが、ここで終わってはいけないと思っています。
赤間先生が『ビューティフル・マインド』から引用されている話は、ゲーム理論は、個人の最適化の合成結果の均衡が全体の最適と矛盾することを示した点で、新古典派的な調和均衡の考え方を超えたということです。しかしこれは一つの必要なステップではありましたが、ゲーム理論がもたらしたのはそれだけにとどまらなかったのです。僕が言いたかったのはその先のことです。
それは、拙著の中でも書きましたが、均衡が複数ある、場合によっては無限にあるという事態が分析されるようになったことです。複数ある均衡のどれが実現するかは、もはや個人の合理的選択からだけでは導くことができません。どんなにみんな合理的だとしても、他人の行動についての予想(ビリーフ)だけは合理的に計算して出せるものではないのです。
だから結局、たまたま歴史的に与えられた既存の均衡における人々の振る舞いが、今後も続くだろうと各自が予想して、そのもとで各自が最適に振る舞うことになります。すると、その結果として当初の均衡が再生産されることになります。なぜこの均衡が選ばれ、他の均衡が選ばれなかったのか、そこには合理的根拠はなく、たまたま歴史的にそうだったからというほかなくなります。
これを受けて、中には、「ゲーム理論による制度分析は方法論的個人主義を超えた」と考える人も現れたわけです。塩沢由典先生がよくおっしゃった「ミクロ・マクロ・ループ」の考え方ですね。全体が個人を規定し、個々人の振る舞いが全体を形作る、これがぐるぐる無限の因果ループになっているというわけです。
【方法論的個人主義によって体制批判的になる】
もしここで話がとどまっていたならば、ゲーム理論で分析された制度は、「歴史的にたまたま存在していたからというだけで存在していいのだ、文句あっか」ということになってしまいます。個人の合理的選択で支えられている側面については、「個々人も好き好んでこれを選び取っているのだから」ということになり、個々人に制度存立の共犯者としての責任を押しつける含意すら持ち得ます。
これではいけないと思うのです。
やはり因果のループをたどれば、出発点はあくまで個人におかなければならない。究極的には「方法論的個人主義」に立つと言うべきだと思います。それは例えば、歴史的に選ばれたこっちの均衡より、もっと別のあっちの均衡のほうがいいとか、今はこっちの均衡のほうがいいけど、条件の変化が続けばあっちの均衡のほうがよくなるとかということを、個々人の厚生を根拠にして言う立場です。あるいは、条件の変化によって、ある制度均衡が消失して別の制度均衡に移行することが分析できますが、その移行をもたらすのは、既存の制度に縛られるのをあえてやめて、もっと自分にとってマシになる振る舞い方を選択する個々人の行動にほかなりません。このような分析をしてこそ、ゲーム理論による制度分析は私達にとって役に立つのだと思います。
これは、大小様々なレベルでの社会システムが、すべからく、ある条件のもとでは存立根拠を持つけど条件が変わればそれが失われる「うつろいゆく存在」であり、歴史的に与えられたものだからといっても、もっと個々人にとってよいものがないか常に再検討されるべきことを意味します。これは極めて革命的、弁証法的立場と言えないでしょうか。
【ゲーム論や「はだかの王様」とマルクスの図式がつながらない?】
赤間先生には、絶対王政やボナパルティズムの説明や、価値形態論や、「疎外の公式」や疎外の克服条件といった、マルクス、エンゲルスが直接言っていることについての僕の理解は、おおむね通じているような気がしますし、まあまあ同意していただけているのではないかなと思いました。先生はマルクス研究の碩学ですから、このことには、自分のマルクス理解にまあまあ間違いはなかったのだろうと、胸をなでおろせる気がします。
それに、赤間先生からは、『資本論』結末の「経済学の三位一体論」こそ疎外の典型とのご指摘をいただいていますが、僕もその通りだと思います。これも、マルクスの疎外図式をどう解釈するかということについては、先生と僕とでそれほどズレがないことの例証だと思っています。(「経済学の三位一体論」については、おっしゃる通り、枚数の関係でとてもフォローできなかったし、人間どうしの依存関係の世界からの物象の世界の疎外という説明や、マルクスの基本定理の説明の中で、その基本精神は述べられているものと思っています。)
それに対して、赤間先生からいただいているご批判の基本的な構図は、このマルクスの図式が、一方で一般読者向けに最初に並べられた「はだかの王様」をはじめとする具体的な事例と、他方でゲーム理論を使った現代主流派経済学の制度分析と、いずれもつながらないということだと思います。僕の中では、全く同一の図式で一貫しているのですが、残念ながらそれが通じていないということだと思います。
【ゲーム理論における「思い込み」の自立とは何か】
まずもって、「思い込み」等々という言葉のイメージについて、赤間先生と僕との間でズレがあるように思います。拙著では、「思い込みが人間を離れてひとり立ちするのが疎外」といった表現がたくさんでてくるのですが、一般向けにわかりやすくするために、日常用語で幾通りもの言い回しをしたせいで、かえってイメージをぼやけさせてしまったかもしれません。
「思い込み」等々という言葉で僕のイメージしているものを、なるべく厳密に一言で言うと、上のゲーム理論の説明のところで述べた「他人の行動についての予想(ビリーフ)」です。
例えば、「他人に千円札を渡せば、その人はだいたい千円分の価値の商品を見返りにくれるものだ」とか「国民は王様の言うとおりに動くもので、警察はそうしなかったら弾圧にくるものだ」とかいうものです。
実際には、この周囲に偉大性とか崇高性とか錯視とかいろいろな心理がくっつくのでしょうけど、そういうのをそぎ落としてコアだけとりだすとこうなるのです。
赤間先生のイメージされた「思い込み」等々は、個人的にその思い込みをなくせばなくなる「まぼろし」のようなもののようです。だから、思い込みをなくせば貨幣がなくなることなどないじゃないかとか、正直な子供が登場すれば疎外がなくなる理屈のはずなのに松尾はそれだけですまないことを提唱しているとかいうご批判になるのだと思います。あるいは、松尾が絶対王政等々の原因を現実社会に見ていることが、全体の論旨と違うことを言っているように受け取られているようです。
しかし、例えば独裁体制下で、「国民は王様の言うとおりに動くもので、警察はそうしなかったら弾圧にくるものだ」という「思い込み」を自分一人が捨てたとしてもどうなるでしょうか。他の人々がみんな、他人の行動に対してそういう「思い込み」を持ったままならば、それを前提して各自が自分が不利にならないように最適化行動すれば、みんなその「思い込み」通りに振る舞うので、私一人がその「思い込み」にしたがわない反政府的振る舞いをしても別の誰かに弾圧されて損をするだけです。
膨大な他者に対して、働きかけ不可能な無力な存在として私一人が直面しているとき、他者達がどう振る舞うかということについての予想は、太陽が東から登るとか、りんごを手から離せば落下するとかいうことと全く同様の圧倒的現実です。決して自分一人思い込みをなくせば消え去るようなまぼろしではありません。でもやはり「予想」という点では、人々の頭の中にある観念の一種です。
【ゲーム理論から見た疎外とその克服】
ゲーム理論を用いた制度分析が教えているのは、この、みんなの振る舞いかたについての予想が、みんな一斉にある別のものに変わったならば、それを前提にして各自が自分に最適に振る舞った結果は、その新しい予想通りの行動になり、それが新たな均衡として維持されて、人々に別の厚生を与える。しかし、現に既存の均衡のもとで行動している以上は、人々は他者の行動についての予想を変えることはないので、今の均衡がそのまま維持される──こういうことがあり得るということです。
すると、個々人の厚生を基礎におく立場からはつぎのような主張ができる場合があります。別の均衡に移ったほうが厚生が改善されるのに、人々の行動についての予想が、あたかも物理現象のように変えられないものになってしまっているがために、低い厚生のままで据えおかれてしまっていると。すなわち、人間から自立した観念による拘束のために個人が損失を被ってしまっているということで、これが、フォイエルバッハ=マルクスの言う「疎外」にあたるのだというのが拙著の主張です。
だから、ゲーム理論から出てくるこの解決策は、「思い込み」を頭から捨てることなどではありません。一番おおざっぱな言い方では、「協力ゲーム」の協調解を実現することです。
つまり、人々の行動についての予想が個々人にとって動かせないものとならないように、互いにしめしあわせてそれを形成することです。それが、マルクスのアソシエーションにあたります。
とはいえ、目下の協力ゲームの研究からは、「しめしあわせる」ということも実際にはいろいろ難しい問題がたくさんあるということが示されています。そもそも、人はウソはつかないのか、他人の言うことをどう信頼できるのか、あるいは言葉の意味というもの自体なぜ通じるのかということからして、検討の対象になっているのです。
人々の取り得る行動やその結果の厚生を作っているのは、様々な物質的諸条件です。それが、何らかの制度均衡を生み出したり、消失させたりします。これはマルクスの唯物史観にあたります。協力ゲームのしめしあわせがどの程度うまくいくのかも、その時代その時代の、それぞれの問題にあわせた、様々な物質的諸条件によって決まってくることになります。
そして、逆に言えば、人々が互いの振る舞いかたについてしめしあわせができないような分割状況にあることこそ、疎外が起こる原因ということになります。絶対王政やボナパルティズムや価値形態論の説明で述べていることは、まさにこのことを指していたつもりです。
【「はだかの王様」ってどんな童話だっけ】
ゲーム理論の部分で述べたこととマルクス疎外論のつながりについては以上の説明でご理解いただければと思っています。
それから、「はだかの王様」はじめ、最初のほうに載せた一般読者向けの実例についてのほうですが、まずもって拙著で事例に使った「はだかの王様」の童話の内容が、赤間先生の認識されているものとは違っていると思います。
先生は、家臣達が王様の威光をはばかって、裸とわかっていながら「服をお召し」と言っている話ととらえておられるようですが、拙著で出てきたお話はそうではありません。みんな、自分には服が見えないだけで、服は本当にあって他の人には見えているのだと思い込んでいるお話です。それがあまり非現実的だというならば、もっと条件を緩くすれば、「嘘かほんとかはともかく、他人はみんな王様の服があるものとして行動し、服が見えないと言った人を愚か者あつかいするだろう」という予想を、各自みんなが抱いているというお話です。家臣が王様を恐れている話ではなくて、王宮の人々が互いを恐れている話として紹介したつもりです。
だから、このお話のポイントは、まさに「思い込み」であるわけです。上に述べたゲーム理論の話と同じです。「他人はみんな王様の服があるものとして行動し、服が見えないと言った人を愚か者あつかいするだろう」という予想が、各自にとってはいかんともしがたいものとして厳然と現れるわけです。これが「観念のひとりだち」という意味です。
各自はそれを前提にして自分の不利にならないように行動しますから、やはり王様の服が見えるかのように振る舞うことになる。そうしてこの均衡が維持されることになる。みんなが目に見える通りに振る舞えるほうがいいにきまっているわけですから、この均衡は「疎外」である。拙著ではそう言っているわけです。
だからこの疎外は王宮の中にとどまっているレベルだったら、子供が何か言ったぐらいでは無くならなかったでしょう。基本的には、家臣達各自が、自分の目に見える状況を互いに述べあって、互いの振る舞い方についての予想をしめしあわせなければ無くならないのです。
ラーメン屋やイジメや太平洋戦争の例も、全く同じ図式になっています。つまり、上述したような、ゲーム理論の章でお話しした論理の本質が、非常に単純明解に、モデル的に見て取れる例を集めてあるつもりなのです。お忙しい中とは思いますが、もし続けてご関心をいただけましたら、お暇を見て読み返していただけましたらわかりやすいのではないかと思います。
「エッセー」目次へ
ホームページへもどる