松尾匡のページ

09年3月2日 給付金反対論って「疎外」じゃないのか



 「給付金」7割以上が反対って世論調査とかよく出るけど、本当ですかね。なんか、まわりが「反対」「反対」って言うから、本当はとっても欲しいのに「反対」って言わざるを得なくなっている人がいるんじゃないの?
 どうも、息子が戦争に取られるのを「名誉だ」とか言って喜んでいるように見せなければならなかったメカニズムの萌芽があるような気がしてなりません。
 いや何が気持ち悪いかって、本当に給付金を必要としている人達が、反自民党的文化の世界の中にこそ多いのに、その世界の中での善意の社会正義を掲げる圧力で、口をつぐんでしまっているのではないかというのがねえ。金持ちにもバラまくからいけないって? そもそも貧しい人だけにあげる仕組みにしたりしたら、どうせねたみからくる反対論が万延するだろうし、現行生活保護制度で見られるみたいに逆選抜がおこってしまうだけって思うけど。いやもっとそもそも論を言えば、生活保護制度や基本的な年金制度は、金持ちも貧しい人も全員一律の最低所得が給付される制度に改めた方がいいと思うので、「バラマキ=悪」みたいなレッテルは非常に困ったもんだと思うのです。
 増税でなくて、財源を日銀引き受けにしろって意味の反対論ならいいんですけど。

 そう言えば、新社会党の機関紙で、政府紙幣の評論が出てたのが興味深かったです。「信頼される政府でこそやるべき」という趣旨。経済効果自体は否定してない。まさか反政府政党が「賛成」と言うわけにはいかないから、これはとっても正しい語り方だと思います。合わせて、相続免税無利子国債が、富裕層優遇で効果なしと言い切っているところも正しい。
 社民党や共産党の政府紙幣評価はまだ目にしてませんけど、ちょっと怖いから語って欲しくない気もしますが…。
 それにしても、共産党も新社会党も、今回の給付金についてはもちろん反対で、一応声明は出てるんですけど、あんまり反対論が目立たない印象がありますね。特に新社会党の機関紙では一回声明を見たっきりで、その後ほとんどそれに触れたことを見ていません。それに比べて、社会民主党の機関紙の『社会新報』では、毎号のように給付金反対の文章が見つかります。
 こんなのを見ると、どれだけ貧困層の支持者の反発を気にしているかの違いを、感じ取ってしまうのですけど。僕の若い頃は、共産党は実はプチブル基盤の党で、社会党の方が労働者の党って印象がありましたが、いつの間にか逆になってるんじゃないかって気がしますね。
 こないだのエッセーで批判した『社会新報』のコラムニストの「宇野雄」氏は、その後もあいかわらず飛ばしてますし…。今回の世界経済危機は、アメリカ中心の市場原理主義の終焉であって決して暗いものではない。舞台の主役をアメリカから新興国に移す環境づくりなのであって、夜明け前の暗さだ。オバマの景気対策などで危機は止められない。世界経済のアメリカ主導時代は終焉だ…って、明らかにはしゃいでいます(最新のは、ここの「はたして米国は回復するか」)。失業者の苦しみなど眼中にないみたい。だいたい、明るい未来のために今の痛みに耐えろって「小泉論理」じゃないの。
 まあ、経済政策を見る限り、アメリカは日本などよりずっと早く、たぶん先進国で一番早く、不況から抜け出すと思いますけど。僕は、16年勤めた退職金の運用で大損こいたのの一部を解約して、ちょっとでも損取り戻すために、アメリカ株の投資信託を買いました。
 僕は村山内閣時代に旧社会党を除名されたんですけど、選挙でミニ政党に適当な選択肢がなければ、結局なんだかんだ言って社民党に入れてきました。でもこんなことが続くと、今度こそ共産党に入れてやろうと、本気で検討しています。

 というわけで、『「はだかの王様」の経済学』で書いた「疎外」に、また一例が加わったという話でした。
 ところで「疎外」と言えば、最近、なんとあの副島隆彦氏が自分のサイトの中の掲示板で、こんなことを書いているのを知りました。

 このアダム・スミスの「市場」と同じものを、さらにカール・マルクスは、若い頃から「エントフレムドゥング」=疎外と呼んだのである。すなわち「疎外」とは「個々の人間の主観や意志などによっては動かしえないもの」という意味で、「人間社会には社会を貫く法則性がある」ということなのである。つまり神の予定調和=市場=疎外なのだ。
 これをなにを勘違いしたのか、日本の馬鹿知識人たち、とりわけ左翼知識人たちは、「主体性マルクス主義」などという後進国特有の勝手な理論を作り、この「疎外」のことを、「産業社会と資本主義の発達に伴う人間の非人間化」と考え、「そこからの本来の人間への主体的な回復」を「主体的マルクス主義」などと呼んだ。
 これは、梅本克己から吉本隆明に至る日本の左翼知識人たちすべてに、共通の理解である。左翼でない知識人も同様である。マルクスの考えた「疎外」とはそのようなものではない。

 いやあいかわらず乱暴な論理展開ですが、大ざっぱな趣旨は正しい。三点ばかり補足すれば、1) でもマルクスはそれを克服してコントロール可能なものにしようとした。2) そこで目指されたのはすべての個々人にとってのコントロール可能性であって、一部の官僚によるコントロールなら市場と変わらない疎外である。3) それが可能と考えたのは単純労働化などのおかげという、当時の時代認識からくるものであって、現代での疎外克服は非常に複雑で困難な課題になっている…ということになりますが。
 まあ、師匠と同じ呼び方の人も、アマゾンの書評者の一人も、ろくに拙著を読まずに見事この「主体性マルクス主義」の疎外概念が拙著に書いてあると思い込んだということですな。師匠と同じ呼び方の人はどっかのブログで性格が副島隆彦氏そっくりと書き込まれてましたけど、負けてますやん。
 ついでながら、師匠と同じ呼び方の人は拙著を取り上げたブログのコメント欄で、マルクスが「物象化」と言ったと拙著で言っているのは間違いで、そう言ったのはルカーチだってことを書いていて、どこでまたそんないい加減なことを聞きかじったのか、おおかたウィキペディアあたりで調べたんだろうと思って、ウィキペディアで「物象化」を調べてみたら、『資本論』からの用例が並んでいて脱力しました(英語版ではもっといっぱい載っている)。専門外のこと書くときにはウェブぐらい調べればいいのに。


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