松尾匡のページ
09年8月19日 商人道まつり続報
やっと採点も終わって、吉原直毅さんの論文コメントも終わって、大西広さんから降ってきた基礎経済科学研究所のウェブ事典の執筆を今しています。
基礎研WEB政治経済学用語事典
これの、「近代経済学」というカテゴリーにある項目を、結局全部書くことになったわけ。「新古典派」という項目だけは誰かが見本のために書いてくれているけど、残り25項目もある。字数が300字ぐらいのと500字ぐらいのと1000字ぐらいのにすでに分類されているんだけど、書き出すと全部1000字ぐらいになっちゃいそうです。
この項目もカテゴリーも、ボクが全然あずかり知らないところですでに決まっているんだから、究極の疎外労働だなこりゃ。大西さんも立命館から移ってからもう20年近くは経っていると思うけど、立命の遺伝子抜けませんねえ。
まあ、このプロジェクトの責任者の森岡孝二先生には、『「はだかの王様」の経済学』の書評を書いていただいているので、もう是非もありません。しっかりやりとげさせていただきます。
それにしても、自宅のルーターとパソコンの故障は、久留米大学のときの出入りの業者の人に連絡したものの、その後も全然音沙汰なく、仕事にならないので困ります。
お盆の間は家の中のこともいろいろあって、今日やっと久留米大学の研究室に出てきたので、このサイトも更新しているわけ。家からでも、山形さんみたいにhtmlで直接書けば更新できるんだけど、そんな自信ないし。こないだサイト内リンクの間違いを修正した件ぐらいはhtml文で一通りやったけど。
ところで、『商人道ノスヽメ』のその後の反響です。
前回のエッセーで紹介させていただきましたTomoさんのブログエントリーですが、前回いたしました些末な指摘を受けて、修正して下さっています。ありがとうございます。そんなお手間には全然及ばないことでしたが。
それから、『「はだかの王様」の経済学』のときにもご書評下さいました「南船北馬舎」のサイトの「近著探訪」のコーナーが、またお取り上げ下さっています。
近著探訪(第13回)「商人道ノスゝメ」
いつも過分なご評価、ありがとうございます。
まあ、なるべく単純な一つか二つの図式で、森羅万象を切ろうとするのは、ボクのウリで、これをおもしろがるかどうかで評価は分かれるのでしょうね。
また、濱口桂一郎先生も言及下さいました。
「市場主義に不可欠な公共心」に不可欠な身内集団原理
他者への連帯や公共性には身内意識が要るというのは濱口さんのかねてからのご主張で、その点で基本的にボクとは見解の相違があると、もともと思っています。
でもボクも、濱口さんが出してくるような「仲間意識」という言い方には、そんなに悪いイメージは持っていないのも正直なところです。それはやはり、「労働者の仲間意識」という言い方でプラスにイメージされるのは、経済的条件によって結ばれていて、経済的条件が変わればいつでも解消できる関係だからだと思います。結局長い目で見て双方の役に立つというウィン・ウィン関係で結ばれたもので、身に付いたアイデンティティで個人に先行して決まっている身内集団とは本来異質なものなのだと思います。
もっとも、現実の労働運動が語る「仲間」は、多くの場合排他的な身内集団になってしまい、外部の犠牲者に目をつぶることになってきたわけですが…。
例えば、中国進出日本企業でひどい労働条件の結果労働争議が起こり、日本人経営者が吊るし上げられて弱っているとする。日本人労働者がその光景を見てどう感じるかです。
中国ではキツくて危険な労働条件で安い賃金でこき使えるから、日本から工場が出て行って雇用がなくなってしまう。あるいはそういう安いコストで作られた安い中国製品に国内製品が勝てなくて、日本でも賃金が下がったり雇用がなくなったりしてしまう。
そしたら、日本人労働者にとっては、そういう自分たちを脅かす条件がなくなった方がトクなので、中国の労働者がんばれ、もっとやれと応援することが、長い目で見て自分の利益にもなることになります。これが経済的条件で結ばれた「仲間」意識ということだと思います。
ところがそうではなくて、同じ日本人の経営者がかわいそう、中国人けしからんと思ってしまったら、自分の首を絞めることになります。それでも、長い目で見て自己利益を損なっても、ただ自分と同じ集団に属しているかどうかだけで敵味方を分けることを優先したならば、それが身内集団意識ということだと思います。
社会的な連帯のために、この後者の意識が不可欠だとは、ボクは思っていないということになるわけです。
さて、山形浩生さんは、追記を書いていらっしゃいました。
追記 (2009/8/11)
なんだか、ある種のフロイト派精神分析家にかかると、何やっても男根願望にされるのを連想しますけど。
まあ、思想書なので価値観語ってますけど(笑)。
たしかに最後はおもいきりアジテーションしましたけど(笑)。
読者のみなさんには是非、「押しつけ」と感じることなく、アジテーションはアジテーションとして楽しんでいただきたいと思っています。もちろん、前にも書きましたし、本の序文にも書きましたが、本書の学問的主張から、ボクの価値観とは逆に、自分の身内集団倫理観を確信して、社会システムを身内集団的なものに戻すことを目指す人が出ても、不本意ではないです。(反対はしますが。)
ただ、明らかな誤読をひとつ。山形さんは、本書の小林よしのり分析のところから次のような読み込みをなさっています。
かれは『商人道』の小林よしのり批判で、薬害エイズ被害者かわいそうという個人のミクロな感情から薬害エイズ抗議運動に乗り出した小林のスタンスを批判する。「人権」「平等」といったお題目が先にあって、それを実現するために人々が動くほうがよい、と松尾は主張する。
そんなことは主張していません。
みなさんも是非本書を読んで確かめていただきたいのですが、この部分(p.177-178)は、小林よしのりの発想を分析、解説しているものです。すなわち、小林が、個々人の背負った特殊条件の中の利害や感情に深く根ざした動機の方が望ましいと思っていて、人権論のような一般的抽象的動機は嫌っているということを解説しているところです。ボクはこれ自体に対してその場で批判的な評価は一切していません。
小林よしのりの頭中の「大義名分/逸脱手段」の図式では、中心にある「大義名分」は、あくまで個人的事情の入る余地のない厳格に抽象的な「公」なのであって、個人的事情にドライブされた「逸脱」は、いずれこの「公」によって利用されたあげく抑圧されることになっています。「大義名分/逸脱手段」図式というものは、元来そういうものなのですが、小林のケースでは、「中心大義」の「公」の厳格性と、「逸脱」の個人的動機への没頭が、極端に真逆を向いているので、典型ケースとしてとてもわかりやすいのです。
山形さんが取り上げた部分は、この真逆さを強調するために、小林が個人的利害や感情に根ざした「逸脱」ほど望ましく思っていることを示してみせたものです。
ボクが批判しているのは、「大義名分/逸脱手段」図式そのものなのであって、この部分は批判しているわけではありません。
それどころか、ルールにせよ、倫理にせよ、公的なものが、山形さんの言う「個人の趣味嗜好や個別性」に根ざすべきであって、「どこかのだれかが作って賜る大義やお題目」によってできるものであってはならないというのは、ボクの年来の主張です。
『「はだかの王様」の経済学』で言った「疎外論」とは、そういう主張です。
だからボクもまさに、個人の利害に深く根ざした動機に基づいて行動するのがいいと思っているのです。それを超えた所から、天下り的に、「正義」や「人権」や主義主張を持ってきて、人を規制しようという志向は大嫌いです。何度も言いますが、それが前著で主張した「疎外論」というものです。
でも、じゃあ人権概念なしでいけるのかと言われれば、そうは思わないです。この人の利害侵害を認めたら自分にどう影響するだろうか、あの人の場合はどうだろうかということを、影響関係が無数の人の間に膨大に広がる社会で考えることは人智を超えることです。どんなしっぺ返しがくるかわかりません。
だから「人権」というものを立てておいて、それを守ることにしておけば、長い目で見ておおむね自分の利害も著しく侵されることはないと信頼できます。
商人道道徳も同じようなものです。以前も言ったとおり、この人に好くしたらどうなるか、あの人に好くしたらどうなるか、と長期的影響をいちいち考えることは人智を超えることで、めぐりめぐった思わぬしっぺ返しは必ず起こるから、わけへだてなく誠実にということをとりあえず一般的原則にしておく、そうすれば、おおむね長い目で見て自分の利益にもなるということです。
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