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09年8月11日 田中秀臣さんも「商人まつり」参入



 実は、前々回のエッセーでも触れましたが、自宅のパソコンの無線発信器が壊れてノートパソコンとつながらなくなった上に、メインのパソコンが起動しなくなってしまっています。ノートパソコンは無線しか対応しないので、仕方なく、外で使うための移動無線の装置をつけて使っているのですが、時間がかかるのなんの。
 困ったのは、このサイトの更新ができなくなったことです。久留米大学の研究室のパソコンでやろうとしたら、ホームページ置いてある接続会社の、サーバーにつなげるためのウェブページが、OSが合わないから使えないと言われる。それで、教員休憩室の機械からつなげようとすると、今度は大学のセキュリティが強すぎてつなげてくれない!!
 前回のエッセーは、たまたま偶然家のパソコンが起ち上がってくれたときにアップロードしたのですが、それ以来、何回やってももう二度と起動してくれません。

 そしたら、昨日ようやく立命館の定期試験の採点を始めたら、配点を大勘違いしていたことが発覚。学生向けにこのサイトの「講義、演習」のコーナーで、その間違えた配点付きで、解答を載せているので、訂正しなければ…。
 いやはや、前々回のエッセーで書いたように、そもそも出題文が悪かったのか、題意を誤解した人が多発したため、それへの配慮のために作り直した配点を周知する目的で載せたものだったのですが、さらなる不手際になってしまいガックり。

 ところが家のパソコンはいっこうに起動してくれないし、ノートパソコンの方もOSが合わないと言われるので、訂正ができないじゃないか。
 とうとう業を煮やして、移動無線の装置からでは時間がかかったのですが、「フェッチ」という、サーバーにつなげてファイルのやりとりをするためのソフトをダウンロードして、それを使ってアップロードしたわけ。これもまたサーバーの場所とかID名とか探し出すのにひと苦労したけど。
 しかも、ノートパソコンにはホームページ作成ソフトが入っていないので、仕方ないからワードで作ったんですけど、なんか見づらくなるのよね。

 今は久留米大学の研究室で書いています。実はここのパソコンには昔フェッチを入れてたんでした。だったら最初からここでやればよかった。

 ところで、実はボクは運転免許持ってないので、移動はもっぱら自転車なのですが、つい先日子供がボクの自転車に乗って塾に行って、鍵かけずに放置していて盗られてしまった。その上、子供の自転車はパンクしてしまった。…というわけで、久留米大学まで移動するのもひと仕事になっていて、サイト更新だけのために、なんだかいろいろ障害が降りかかるのでした。

 話は変わりますが、カミさんから知らされてはじめて知ったのですが、アマゾンでボクの今度出る経済学史の本の表紙がもう出ている
 いや事前に何も知らされていなかったから、はじめて見ましたよ。まあ、なかなかおもしろそうに感じられて、いいんでない?
 実はこの題名も、まだボクはよく記憶していないのだ。えーと、ナニ? 『対話でわかる痛快明解 経済学史』だそうです。ボクの『エコノミスト降霊!』って案はいつのまにかボツになってしまった。
 まだ印刷部数の話も聞いてないんだけど…。たくさん作ってくれるといいな。
 とはいえ、一応大学の教科書に使うので、一般向けとしては不要かなという論点にも触れざるを得なかったです。そこはちょっと苦しいところですが、まあ、一般の方々でも、気軽に経済学を勉強しようというニーズはあるものと期待して、バーンと行って欲しいところですな。
 なにしろ、以前にアイデアをご紹介した通り、女子学生を前に、へんなじいさんが「降霊」と称してスミスからフリードマンまでの霊になりきって語るというトンデモな設定ですので、エンターテインメントとしてもお手軽にお読みいただけるものと思っています。値段も1680円とお手頃ですし。(それにしても、こんなトンデモなアイデアをそのまま受け入れて下さった日経BPの編集者様には感謝感謝です。)
 自分としては、ケインズからあとがエネルギーをかけたつもりです。特に第7章。今度のは読み飛ばしができる本なので、時間がないかたは、(導入部のあとは)そっちから読んでみて下さい。もっとも、自分の授業は半期二単位なので、がんばって急いでも、結局ケインズまで到達したところで時間が尽きてしまうのですけど。


 さて、『商人道のスヽメ』ですが、前回ご紹介した山形さんのご書評以外には、以下のような反響をいただいております。
 まず、非常に早い段階で、慶応義塾大学経済学部通信教育過程の社会人学生のかたでいらっしゃるTomoさんが、ご自身のブログで取り上げて下さいました。
http://zvc10604.blog95.fc2.com/blog-entry-80.html

ありがとうございます。
 それから、はてなブログでid:bunz0uさんが取り上げて下さいました。
http://d.hatena.ne.jp/bunz0u/20090727

いつもありがとうございます。いや私こそ身内の都合(特にカミさん)言い訳に使ってばかりのダメダメ人間ですから
 
bunz0uさんはその後もフォローして下さって、ありがとうございます。
 そして、前任校の法学部の先生、児玉昌己さんも、ご紹介下さっています。
http://masami-kodama.jugem.jp/?day=20090706
ありがとうございます。

 みなさんほぼ正確に言いたいことを伝えていただき、うれしく思っております。
 ただ、細かいことになって恐縮ですが、以上お三方の説明では、「身内集団原理=武士道」「開放個人主義原理=商人道」となっていますが、正確には、「身内集団原理」「開放個人主義原理」は、経済制度や社会制度など、社会関係一般の構成原理を指していて、そして、それぞれの社会関係とつじつまのあう倫理体系の方が、「武士道」と「商人道」にあたるという位置づけになっています。

 活字では、『週刊東洋経済』で書評をいただきました。現在その内容が、「東洋経済オンライン」で読めます。
http://www.toyokeizai.net/life/review/detail/AC/84e22e25d49dac8b642d7e49da9f44d7/


 それから、9日日曜日には、『日本経済新聞』の書評欄でご紹介いただきました。ありがたいかぎりです。

 そしてついに田中秀臣さんが「祭り」に参入して下さいました。ありがとうございます。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090810#p2
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090810#p3
「商人まつり」って…どこで見つけてきたんだか(笑)。なんかまったりしてるねえ。

 まず、前者のボクの前回のエッセーについてのエントリーですが。
 もし本書の主題が武士道批判に重きをおいていたならば、ボクも商人道の徳目などかなぐり捨て、正直に「武士道の検討は不十分でした」などと言ったりせず、姑息にごまかしてたかも…。もともとそんな意識があまりなかったので、深く悩まずにあっけらかんと言っちゃったという感じです。
 そもそも本書が問題視して「チェンジ」を呼びかけているのは、現実の日本にメジャーな身内集団倫理意識であって、これ自体が江戸武士道と関係しているかどうかは問題にしていません。
 「武士道に帰れ」とか言っている人達がいるから、「いや武士道も身内集団倫理だから問題の解決にはならない」と言う必要がでてくるだけです。この場合、論証すべきことは、武士道が身内集団倫理であることを示すことです。
 この点で本書の検討が不十分なことは、たしかに「ごめんなさい」なのですが、しかしそのことは常識的な武士道理解だけからでも大方の納得は得られると思いますし、やっぱり『葉隠』は武士道の典型のように言われてきたわけで、その『葉隠』は本書で触れたように、どう読んでも身内集団倫理を説いているとしか思えない。とりあえず現段階ではこれを出発点にしておいて、今後の議論の発展につなげたいと思っています。
(『葉隠』は全く体系的な本ではなく、あまり関係なさそうな話が冗長に続いているので、現段階では必要そうなところだけの飛ばし読みでもとりあえず許されるのではないかと思います。)
 ちなみに、山形さんが、「これ越後屋、そちも悪じゃのう」というお代官様を持ち出して武士道を論じてはならないとおっしゃっていて、それはその通りなのですが、お代官様は悪事と意識してそんなことをしているのですけど、外国人や貿易商人を無差別に切り捨てようとする攘夷論者は、それが「正義」だと思ってやっているわけです。白虎隊はじめ会津藩士とその家族が城に殉じて死ぬのも、それが究極の「正義」だと思ってやっているわけです。本書で取り上げたこうした事例は、「堕落形」ではなくて、「純粋形」とみなされているものです。ボクが今回勉強させてもらった商家の道徳の中には、こんな「正義」など絶対ないと言えますね。

 一応、読者の便宜のために、本書の論証のメインボディーをまとめておくと、こんなふうになっています。
[テーゼ1] 社会関係は身内集団原理と開放個人主義原理の二つに必然的に分かれ、相矛盾しながら併存している。
[テーゼ2] 倫理体系には、それぞれの社会関係原理とつじつまの合う二種類があり、やはり相矛盾しながら併存している。
[テーゼ3] 従来の日本の倫理観は身内集団原理に対応したものが中心だったが、このことは、社会関係として身内集団原理がメジャーであったことと整合している。
 本書の第1部、特に第1章は、内外の諸文献に依拠して、以上のことを可能な限り論証したつもりでいます。だから、本書の議論のメインは第1章にあります。もちろんこれで論証が十分だとは思っていないので、今後議論がおこってさらなる発展につながればいいと思っています。
 それで、ボクは経済社会システムの中の割合が、身内集団原理のものが減って、市場原理という開放個人主義原理のものが増える変化が起こっていると思っているのですが、そうすると倫理観も開放個人主義原理に対応したものがメジャーになるように変化しなければならないことになります。
 本書では、従来の日本の倫理観がいかに身内集団原理の社会システムとつじつまが合っていたかを、「制度的補完性」の典型例のように分析しているのですが、そうすると、変化なんて無理だと絶望的になるかもしれません。ここで、倫理観の転換なんて無理だから、それと整合する身内集団原理の社会システムを守れという結論になったとしても、それも本書の読み方のひとつだと思います。
 でもボクはそうは思わないので、身内集団倫理が日本人の宿命などではないということを示したいと思っています。そこで昔を振り返ると、「商人道があった」ということになるわけです。
 これが江戸期商人道に着目した流れですから、対する江戸武士道そのものが本書の批判のテーマであるわけではありません。この文脈からすれば、もし江戸武士道が身内集団倫理ではなかったならば、なおさらボクの論理にとって都合がいいということになると思います。そんなことは絶対ないと思いますけど。

 それから、田中さんの二番目の、山形さんの書評についてのエントリーに関して。
 身内集団原理は市場原理とは根本的に異質な原理であって、典型的には資本主義とは無縁の閉鎖共同体で成り立つものです。それ自体は経済成長とはほど遠い停滞的社会の原理です。
 身内集団原理が経済発展とつながるのは、「大義名分/逸脱手段」のシステムを取り入れたときであって、これがうまくいく環境は、不確実性一般ではありません。
 「臨機応変」レベルの不確実性対処で済んでいて、中心原則の変更が迫られることがあまりないような環境でうまくいくのだと思います。つまり、言い古されたことですけど、先進国へのキャッチアップ段階ですね。
 もっと世の中不確実になって、「創意革新」レベルの不確実性対処になるとそうはいかない。中心原則自体をしょっちゅう変えなければならない時代には、これは経済成長にとって障害になるシステムに転化すると思います。
 だからそういう時代には、市場原理そのものが中心にくるシステムが、経済発展をもたらすのだと思います。まあ、よく言われてきた話ですけど。
 しかし、「大義名分/逸脱手段」システムが行き詰まった時には、むしろ逆の志向が出てくる。「逸脱手段」の方を抑えて、身内集団原理で徹底しようと。経済成長なんかしなくていいから共同体の純粋さを守ろうと。戦前ファシズム思想もそうだったけど、今もそんな動きがあるぞと。ボクはそっちの方を問題にしたいので、反経済成長に与するはずはありません。
 反「市場至上主義」とか反米とかを掲げて、エコロジーとか福祉を志向する流れの中には、右翼民族主義と通じるものもある。戦前ファシズム思想と共通する心情がある。そのことに警戒的であれというのは、本書の主要メッセージのひとつです。

 福田徳三については、不勉強で知らなくてすみません。こんなに本書のテーマと関わり深い議論をしていたとは知りませんでした。いったい彼の思想のどこからその「清算主義」が引き出されたのか興味があります。
 しかし以前田中さんからちらっとその名前を聞いたときも、手出し無用と言われたような記憶が...。成果が出るのを楽しみにしていますから、本書がスルーしているのを幸いと、ご研究を進展させて下さい。本書を批判的にダシに使っても構いませんので……と、ハッパのかけ返しをしておこう。


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