松尾匡のページ

09年8月8日 山形浩生さんの『商人道』本評について



(※ 山形さんがこのページをご覧になって追記を書かれているので、それへのコメントを書いています。こちらからどうぞ。)


 ご存知のかたも多いと思いますが、拙著『商人道のスヽメ』への山形浩生さんの評論が出ています。
松尾筺の『商人道ノススメ』を読んだ。
『商人道ノススメ』はおすすめできません:枝葉の批判

 山形さんには、お忙しい中読んでいただき、執筆に時間を割いていただいてありがとうございます。
 85日にこの最初のが出 たのに気づいたので、「祭り」を盛り上げようと、文章を書き出したんですけど、「嫌いです」って言われたら、「あそうですか」と返すしかなくて、あと続かないような内容なんで困ってしまいました。一応、けなされたら夜眠れないし、紳士的対応するのも結構ストレスフルなんで、やっとこさ書き進んでたら、7日になってあとの真っ当な書評が出てるのに気づいて、ボクも全部書き直しじゃないの。
 まだ立命館のも久留米大学のも定期試験の採点終わってないし、基礎経済科学研究所からウェブ事典の項目20いくつか書くように言われてるし、吉原直毅さんが難しい数式だらけ()の論文送ってきてコメント求めてるんですけど。
 ……まあ、しゃあない。「祭り」がないと盆も明けないし、売り上げにもつながらない()、がんばるぞ。

 それで、まず、「『商人道ノススメ』はおすすめできません」の方から。


【「武士道」の検討は不十分です。すみません。】

 一番もっともなご批判は、拙著では「武士道」の検討があまりされていないところ。これは不十分だったと自分でも気にしていて、たぶん世の「武士道大好き」おじさんたちから、山形さんのと同様の批判を受けるだろうなとは思っていました。本書で検討している武士道の古典は実際には『葉隠』一冊で、これも正直言って全部読んだわけではありません。
 これは今後の課題ということで。できれば同じ志向の専門の人にやってもらいたいところですが。まあ、今度「京都フォーラム」でおつきあいさせていただくことになる人たちの中には、「武士道」の批判的検討が専門の人もいらっしゃるようで、大いに勉強させていただこうと思っています。
 なお、このテーマでいっしょに研究会をやったりした専門の知人の話では、新渡戸稲造などの「明治武士道」は、本当の武士道ではなくてかなり近代の目からの作り替えがなされているとのこと。渋沢栄一の言う「士魂商才」の「士魂」も、元ネタは二宮尊徳と石門心学なんだそうです。
 ただ、今の時点でもひとつ強調できることは、武士道が、金銭を扱うこと、利潤追求を、徹底して卑しいものとみなしていたこと。これはいろんなエピソードから伝え聞くだけでも間違いないことで、新渡戸稲造もこの点ばかりは継承できないと言っていました。これだけでも「商人道」とは相容れない姿勢があると思います。


【はい、本書は思想書です】

 それから、山形さんは本書と前著『「はだかの王様」の経済学』について、学問的な意匠でありながら、実はそうではなくて、政治的プロパガンダだと書かれています。これも、「政治的」というのはちょっと語弊があるかもしれませんが、まあまあその通りです。学術書のつもりはなくて、むしろ思想書です。(まあ前著の場合、ひとつの「マルクス解釈」という意味では学術的主張なのですが。)
 それで、山形さん曰く。

そしてその中身は――労組は、「万国の労働者よ団結せよ」をやっていればいい。NGOはフェアトレードとかリサイクルとかやっておればよい。つまりいまのサヨクが左翼的な活動を続けることがよいのだ、という議論を導きたいだけ。


本書は、左翼だけに呼びかけているわけではありませんが、左翼に対する意図としてはまあまあ近いところですね。
 ただ、本当に言いたいこととはちょっと違うなあとも思います。労働組合運動とか、ましてやフェアトレードとかリサイクル(←これは本書や前著で一切触れたこともないが!)とかは、これまでもともとは「左翼的な活動」とはみなされてこなかったものですから。
 山形さんは昔の左翼のイヤーな側面は実体験してないかもしれません。『ポル・ポト』ではじめてびっくりしたのかもしれませんけど、私たちの身近でも、ちょっと探せば、人生がボロボロになった体験をした人が何人も出てくるはずです。
 組織の勢力拡大が自己目的化し、そのための活動と比べたら、現場の労働者の境遇を改善するための組合運動は一格落ちる。協同組合事業になるとさらに一格落ちる。政治権力を握ればすべてが解決されるので、個々の現場の労働運動も協同組合事業も学生運動もそのための手段とされて、現場の事情が簡単に犠牲にされる。組織の政治目的にとって邪魔になるものは、手段を選ばずツブされる。
 しかもこういうことを批判して現れた組織がまた同じことを繰り返す。「民主主義」と言っても、「人権」と言っても、市場原理を多少受け入れても、問題の本質が変わるわけではありません。

 結局「身内集団原理」が問題の本質だったのだと。だから、これではなくて、商人のように身を低くして、まわりの具体的な人々に実際に役に立つことをしていったならば、それでいいのだと。政治権力につながらなくても一格落ちることはないんだ
と、それが本書と前著でいいたかったことです。
 特に、こんな経済状況になってくると、左翼世界の中に、反グローバリズム的な共同体志向が必ず出てくる。何か勘違いした「反省」のつもりで、マルクス主義的な発想がなくなっているので、そういう共同体志向の言い回しは、本書でもとりあげた農本主義などの戦前ファシズムの言い回しにますますそっくりになっています。
 それに協同組合やNPOが閉鎖集団化して外部に迷惑をかける例もいっぱいある。
 どっちにしろ身内共同体原理へ向かう傾向が問題なので、それを脱却しようと呼びかけることは、検討に値する提案なのではないかと思って書いているわけです。

 本書が呼びかけたいのは左翼だけではなくて、保守本流もビジネス人もなのですが、結局言いたいことは同じです。こんな経済状況になってくると、やっぱり反グローバリズム的な共同体志向がでてきて、アメリカに資金が取られないように利子率を上げるとか、保護主義とか、強い政治権力でガンガンやってくれる指導者を求めるようになったりします。そんなことに色目を使うより、やっぱり、人々にわけへだてなく実際に役に立つことをしていく日常が大事なんだと主張したいわけです。


【概念規定は第1章でできるかぎりハッキリさせている】

 さて、山形さん曰く「枝葉」の中心論点なのですが、「商人道/武士道」という概念定義がはっきりしないという話。
 本書で自分の専門領域と一番重なっているのは第1章で、そこはかなり学術的議論をしています。そこでは、人間の社会関係には、固定的関係を作ってリスクを外部に排除するもの(本書の言葉で「身内集団原理」)と、流動的関係の中でリスクを管理するもの(本書の言葉で「開放個人主義原理」)との、相矛盾する二種類があり得て、倫理や価値観もそれぞれとつじつまの合う互いに矛盾する二種類の体系が出てくるという議論をしています。
 本来でしたら自分自身の貢献を書くべきところ、恥ずかしながらまだこのテーマそのものでの学術的業績がありませんので、これまでの社会学、社会心理学、ゲーム論モデル、実験経済学などの業績や日本社会論の古典的文献を愚識の及ぶ限り動員して論じました。
 自分ではかなり徹底的に書き込んだつもりなので、とりあえず上記議論は論証できたのではないかと思っています。読者のみなさんは、是非本書を読まれてご確認下さい。もちろん、自分ではこれで論証は完璧とは思っていないので、今後自分自身の研究の中で、ゲーム理論分析やシミュレーション分析などを使って、二種類の倫理が出てくる必然性とか、両倫理の違いをもっとフォーマルに客観的に定式化する作業をしていきたいと思っています。
 もっとも、まずは搾取論の体系を完成させなければならないし、協同組合のモデル分析の希望もあるし、そもそも学問的なことをやる暇自体なかなかないので、いつできるかは請け合いかねますが

 それで、この議論から出るのは、固定的関係のシステムにふさわしい倫理は「身内へのとことんまでの忠誠」を善しとする倫理で、流動的関係のシステムにふさわしい倫理は「他人へのわけへだてのない誠実」を善しとする倫理だということです。その他詳細は本書をお読みいただきたいのですが、現段階での概念定義は、これでとりあえず、できるところまでハッキリさせたつもりでいます。
 第1章では、主に山岸俊男さんの実験や調査などをもとに、日米で比較すると、固定的関係のシステムにふさわしい意識は比較的日本に多く、流動的関係のシステムにふさわしい意識は比較的アメリカに多いと論じています。山形さんは気に入らないかもしれませんが、とりあえず社会心理学のちゃんとした手続きをふんだ実証研究業績は受け入れておこうと思います。
 しかしそれにもかかわらず、日本でも流動的関係のシステムにふさわしい倫理はあったんだというのが、第二部以降の「商人道」の話になるわけでして、第二部の江戸時代の話は、第1章で見た流動的関係のシステムにふさわしい倫理に照らして、江戸期商人道を検討する作業をしています。
 それがどこまできっちりできたかは、読者が是非本書をお読みになって判断していただきたいのですが、一応数多くの専門書や若干の啓蒙書を使って調べた限り、一般に伝統的道徳と考えられているものから多少外れているかもしれないが、他方で流動的関係のシステムにふさわしい倫理に合致したものが多く見つかったというのが結論です。


【本書は「身内集団原理」や「大義名分/逸脱手段」の存在合理性は認めている】

 ところで、山形さんは、「身内主義」や「大義名分/逸脱手段」原理がプラスに働く場合もあると論じておられます。ボクもその通りと思っていて、何もそれを否定していません。
 特に、「大義名分/逸脱手段」原理が明治の工業化や戦後高度成長をもたらしたということは、本書にちゃんと書いてあります。他に方法がなかったわけではないと思いはしますが、ともかく、「身内集団原理」をゴリゴリに適用したら市場活動なんかできなくなって経済発展できないところ、こうすることによって効果的に経済発展できるようになったわけですから、たいした解決法です。
 (なお、小林よしのりについて論じているのは、実は順番としては、彼のテキストを一貫する基本図式として「大義名分/逸脱手段」原理を発見したことが先にあり、そのあとで、これが近代日本の基本的な社会原理を説明するものになっていることに気づいたのでして、別に彼を罵倒したくてもちだしたのではありません。そもそも分析にはなっていても、山形さんから「罵倒」と言われるほどの罵倒にはあまりなっていないと思います。批判はしているつもりですが。)

 本書でも、「身内集団原理」と「開放個人主義原理」は常に併存しているし、したがってそれぞれにふさわしい道徳も常に併存していると論じています。そして両社会原理が、どのような割合で併存するかが、そのときどきの条件(マルクス風に言うならば「物質的生産諸力」!)で決まり、条件が変わればその割合も変わるのだと言っています。だから、「身内集団原理」がメジャーであった時代も、その時代の条件にあわせた合理的理由があってそうなっていたのだとボクも思っています。
 もちろん、条件によっては、均衡的な併存割合が二パターン以上あり、歴史的にどちらの近傍にあったかによって、どちらが選ばれるかが決まるということもあるでしょう。条件が変われば、これらのパターンのうちのいくつかが消失し、別のパターンへのジャンプが起こるということもあるかもしれません。
 本書では、現在、経済社会システムで「身内集団原理」の割合が減って「開放個人主義原理」がメジャーになる変化が起こっているのに合わせて、倫理観もそれに合わせて割合が変化すべきことを主張しているのですが、序文で述べているように、このことは「身内集団原理」の倫理観が消えてなくなることを主張しているのではありません。
 それに、「武士道」型の倫理観の人が、倫理観の転換はできないことだから、社会経済システムを「身内集団原理」中心のものに戻せと主張したとしたら、それはそれで筋の通った主張だと思います。もちろんボクは決して賛成はしませんけど、それも一つの本書の読み方には違いないと思います。


【倫理観の変化が制度の変化に遅れるのは不思議ではない】

 それから、本書では社会経済システムの変化に対して、倫理観の変化は遅いために、両者の間でギャップが起こって困難が生じると論じています。山形さんはこれが合点がいかないらしいのですが、ボクはどこが合点がいかないのかが合点がいきません。
 注にも書きましたが、いろいろな諸制度が互いにうまくいくための条件をなして強化しあっていることは「制度的補完性」と呼ばれています。このとき、変化が起こったら、諸制度の変化にばらつきがあるために問題が起こることはつとに指摘されてきたことだと思います。たとえばここを参照。倫理観も広い意味の制度の一つとして他の諸制度と制度的補完の関係にあるのですが、倫理観は他の諸制度と比べて特に変化しにくいためにこの問題が起こりやすいということはごく自然なことだと思います。


【本書が敵視する標的こそが反経済成長論】

 ところで山形さんは、最後のところで、ボクが気持ちの上では反経済成長派だと推断されていますが、
全く違います
 本書の問題意識で敵視している傾向は当然、身内共同体志向なのですが、その志向が持つ特徴こそ、反経済成長論にほかならないと思っているからです。
 本書の最後のアジテーションのところで書いていますとおり、ボクが心底拒否したいのは、戦後を「経済成長ばかり追求して心の問題をなおざりにした」と総括し、「モノよりココロ」と謳い上げる傾向です。今「武士道」とか言っている人たちはそうじゃないですか。
 それに対して、ボクがそれこそ「プロパガンダ」したいのは、私たちは、戦後を継承し、まだまだ世界のお役に立って、その見返りにまだまだ幸せになることができるということです。本書にもそう書きました。



 さて次に、「松尾筺の『商人道ノススメ』を読んだ。」について。


【利潤追求の強弱が問題なのではない】

 山形さんの意図とは違うかもしれませんが、まず、山形さんの文章を読んだ人がどのように要約したかを見るとわかりやすいと思います。
 「はてなブックマーク」のコメントで、次のようなものがありました。

姜尚中的な「正しい資本主義論」への的確な批判。おおっぴらに「社会主義」を標榜できなくなった左翼リベラル連中は、「正しい資本主義」「強欲資本主義批判」に逃げたがる。

 また、「2ちゃんねる」の山形浩生板には次のような書き込みがありました。

松 尾先生の本は読まずに書いちゃうが、
ある意味、山形の方がずっと倫理的だという気がする。
自分のサヨク的な願望を恣意的な規範にすり替えて「商人道」なるものに密輸入して
上から道徳的に支配してやろうみたいなのは、どう考えても倫理的な態度とは言えんわ。


…倫理の押し付けとかいう話じゃないだろう。
その規範とやらが、なんら論理的一貫性もなく自分勝手であることだろ。

 こ こから、この人たちが山形さんを通じて本書をどのようなものと読まれたかを推測すると、次のような図式になると思います。すなわち、利潤追求の程度が強いのから弱いのまで並んだ軸があり、一方の極に「強欲資本主義」があって、他方の極は「社会主義」になるんだけど、そこまでいくのはなんだから、途中の適当に利潤追求の程度を弱めたところに「商人道」があるという主張だと。しかし、どの程度弱めればいいのかにはっきりとした基準がなく、結局松尾の恣意的な判断にゆだねられている……と。

 しかし、それは本書の言いたいこととは全然違います。
 ボクもマルクス派のはしくれだから、世の中に労資の階級対立があることは認識しているし、世間にはそのほかにも、今出てきた「利潤追求/公益追求」とか「右/左」とか「保守/革新」だとかいろいろな切り方がありますが、本書で言いたいことは、そんな切り方ではとらえられない
問題群があるということです。「近代/前近代」とか「欧米流/日本流」とかの切り方になると、やや近くなるが、やっぱり抜け落ちるところが多い。
 じゃあどんな切り方があるのかということで、こんな切り方はどうですかというのが本書の提案です。それは要するに、このサイトにボクが書いた
「用語解説:右翼と左翼」
に出てくる、世界の本質として「世の中をタテに分けて見る」という見方を、取るか否かということです。この見方を取る人の道徳が「武士道」、取らない人の道徳が「商人道」ということなのです。こうすると、すっきり見えてくる問題群があるでしょうということです。

 だから本書が提唱する「商人道」の基本的見方は、商取引というものは、相手の役に立ったから見返りがもらえるのであって、もともと他人の役に立つ善行なのだということです。「武士道」はそうはみなさないわけです。
 企業の社会貢献とかボランティアとかいうものは、この善行の側面が拡大しただけなのであって、本質は通常の商行為の中にすでにあるわけです。だから、どの程度企業の社会貢献とかボランティアとかをするかということは、程度問題にすぎません。「恣意的」も何も、それはここでの議論の焦点ではないのです。

 本書の言いたいことを、山形さんがすっきりまとめて下さっていますので、引用しましょう。

「ひたすら自分の利益追求、ただし短期的な目先の利益を捨てることで、長期的な利益を獲得できることがあることに注意」ぼくはこれだけでよいと思うし、それ以上のものを考慮すべきじゃな いと思う。

  おっしゃるとおり。それで十分道徳的なんだということです。ただ、この人に好くしたらどうなるか、あの人に好くしたらどうなるか、と長期的影響をいちいち考えることは人智を超えることで、めぐりめぐった思わぬしっぺ返しは必ず起こるから、わけへだてなく誠実にということをとりあえず一般的原則にしておくことが必要になってくるということです。


 さて、あと細かい所は、ケチをつけようと思って読めばどんな本でもケチは見つかるというたぐいのものでして、真剣に扱う必要もないとは思いますが、あえていくつか取り上げておきましょう。

アメリカ人と日本人アンケートをかけて、銃を嫌う人の割合がアメリカ人のほうが多かったとする。それに対して「でもアメリカのほうが銃犯罪が多いじゃないか」と批判するのは、松尾的にはまちがってるんだって。なぜかというと、アメリカは銃所持が日本より容易なので銃犯罪が多いのは当然だから。だから銃犯罪が多くても、「銃は嫌い」という人が多いアンケート結果を重視すべきなんだとか (pp.60-61)。でも銃を容認するという制度は、まさにそれを国民たちが支持するから成立している。制度が人々の意志と無関係に存在するかのごとき松尾の主張は、アンケートにおける本音と建て前の差を無視したバカな議論だと思う。

 この「銃」の話は、この部分で取り上げている批判相手の論理のおかしさを示すために出したたとえ話です。
 「銃を容認するという制度は、まさにそれを国民たちが支持するから成立している」のは当然そうでしょうけど、この、相手の論理批判の文脈では関係ない話です。
 制度と人々の価値観がつじつまがあうように均衡するという話は、本書の基本的主張です。たとえ話を取り上げて、これと正反対の主張を私がしているようにされても困ります。
 読者のみなさんは、是非該当箇所を確かめてみて下さい。

自分の意見が通れば民主主義、それに反する意見は反民主主義という勝手な解釈。

 こんなこと書きましたかね。ボクはあまり「民主主義」という言葉を使った覚えがないので、一応本の提出原稿のファイルで検索をかけてみました。
 そしたら、「反民主主義」という言葉は見事に一件もない。「民主主義」は最後の第四部で、「戦後民主主義」という言葉がいくつかと、「戦後憲法の民主主義規定」が一つと、いくつかあまり自分自身の主張とは関係のない文脈であっただけです。
 そりゃそうなんで、「民主主義/反民主主義」という切り方は、上述の「利益追求/公益追求」とか「右/左」とかと同じく、本書で取り上げたい問題群を切るためには役立たない軸だともともと思っていたからです。
 なぜなら、民主主義一般というものは、「身内集団原理」を強化することにつながりかねないものでもあるからです。

労働運動は自分の待遇改善だけを考えるべきではなく万国のあらゆる労働者の賃金向上を目指せと主張することで、実は途上国の労働者が安い賃金を武器に競争することを阻害しようとする先進国のアームチェア学者の傲慢 (pp.239-40)。ふざけんな。

 まあ、山形さんは(「商人道」側だとは思うけど)ブルジョワ派だから、こんなふうに言うのは自分の立場から正当でしょうけど、ときどきこんな議論を自称左翼が真に受けて、「内政不干渉」とか「民族の主体性」等々の名のもとに、左翼のくせに現地支配層や進出先進国資本のかたを持つことが多い。その場合こそ、「ふざけんな」ですね。

 山形さんには、それこそ「空気」を読んで「祭り」を作ってもらってかたじけないと思っていたのですが、今あらためてこの文章を読み返すと、本を送ってこられるのを本気で迷惑に思っているのかなという気もしました。だとしたらすみません。まあとりあえず自作送るのは遠慮しときます。



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