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09年9月10日 新著『痛快明解経済学史』訂正と補足



 今日やっと業者の人がウチにきて、ルーターを直してくれたので、ノートパソコンでスムーズに作業ができるようになりました。外部の無線のやつは基本的に 携帯電話なので、遅いしカネがかかるし、困ってました。でも、デスクトップのパソコンの故障はその場では直らず、修理窓口にもっていかなければならないっ て。
 ノートにはホームページ作成ソフトが入ってなかったので、せっかくインターネットにつながってもこのサイトの更新ができないぞって思って、無料の作成ソ フトがダウンロードできないかいろいろ探したんですよね。ウインドウズのはあるけど、マックのはなかなかなくて、無料体験版とかでてるのも、やたらときれ いなテンプレートのしかできなかったりして役に立たないし・・・。
 ようやく見つけたのが、ネットスケープコンポーザーの末裔。ここにあります。
もじら組もじら団
このSeaMonkeyってソフトを使わせてもらっています。いやすごく使いやすいわこれ。

 さて、新著『痛快明解経済学史』ですが、経済学者の知り合いからはご好評のメールを続々いただいております。ありがとうございます。
 若田部昌澄さんからは、とても過分なご評価のメールをいただきました。と、同時に、大変なミスをご指摘いただきました。本当にありがとうございます。
 最後の方で、各経済学者のプロフィールに関してはウィキペディアも参考にしたと書きましたが、ウィキペディアはときどき間違えているので心配なところは ありました。注意はしていたつもりですがやっぱりミスってしまった!
 170ページのケインズのプロフィールなのですが、IMFと世界銀行の総裁になったという記述は、日本語版ウィキペディ アの間違いを鵜呑みにしたものでした
 訂正し、おわび申し上げます。
 一応本サイトの著書の訂正コーナーで訂正文を作ったの でご覧下さい。

 それから、大谷禎之介先生からは、やはりお誉めの文章とともに、ご抗議のコメントをいただきました。
 大谷先生は、第3章のマルクスのところで書き出しのネタに使った「nie・nur論争」の当事者であられます。先生からは、ご自分の書かれた論文でこの 論争は客観的には決着したはずなのに、あたかも水掛け論が続いているように記述しているのはけしからんとお叱りをいただきました。どうもすみません。
 大谷先生のご主張は、2004年に、法政大学の『経済志林』第71巻第4号に書かれたこの論文で読むことができます。
「で はけっしてない (nie)」 か 「でしかない (nur)」か : マルクスの筆跡の解析と使用例の調査とによって
 詳しくはこれをお読みいただきたいのですが、非常に説得力のある論文です。
 私なんかが大谷説を支持していると言ったら、マルクス学界の中ではかえってひいきの引き倒しになりかねないので心配なのですが...。
 この論争、何が問題になっているのか簡単に言うとこういうことです。
 マルクスの「再生産表式」ってご存知のかたも多いと思いますが、『資本論』第2巻で出てくる、経済全体を生産手段部門と消費財部門に分けて生産のやりと りを分析する話です。これまでのマルクス経済学の流れの中では、これを、恐慌を論じるために使いたいという志向が強かったのです。例えば、好況が進行する と生産手段部門が不均衡に拡大し、それが行き過ぎるとどこかで大衆の消費制限とのギャップがあらわになって、過剰生産恐慌がおこるといったストーリーを表 したいというわけです。
 ところが私から言わせれば、再生産表式の数学モデルの建て方は、セイ法則を前提していて、全般的過剰生産など最初から表すことができないモデルになって います。まあ、ひとつの解釈は、マルクスは数学音痴で、セイ法則を前提するつもりはなかったのにそういうモデルを建てちゃったという見方もあり得ると思い ますが、私はそうは思っていません。もともとこの部分で論じようとしていたのは、過剰生産恐慌の説明などではなくて、長期均衡的な再生産構造のあり方だっ たのだと思っています。
 ところが、この再生産表式を使って過剰生産恐慌を表したいという人たちにとって、ひとつの根拠となってきた文章が、この「nie・nur論争」で問題に なった文章なのです。
 正確には上記の大谷先生の論文を読んでいただくとして、従来、これを、「nie(けっして〜ではない)」と読んできた読み方では、乱暴な意訳をすれば次 のような意味になります。「資本主義的な生産力というものは、生産の増加を、市場で売れる分だけという制約にとどめるような使い方はなされない。」
 つまり、実需を離れた資本蓄積の不均衡な拡大を論じているように読めるわけです。
 まあ、過剰生産の抽象的可能性を論じることはあり得るでしょうから、こんな話をしていても不思議ではないとは思いますが、私の解釈にとってはありがたく ない文章です。
 それが「nur(〜でしかない)」という読み方にすると、「資本主義的な生産力が使われるのは、ちゃんともうけが出るように生産がなされるだけでなく、 ちゃんともうけが出るように売れる限りでしかない」となります。これだと、実需を離れた生産手段部門の不均衡な拡大の話をしているわけではないことになり ます。
 で、大谷先生は別に私のような読み方を擁護するために主張されているのではないのですが、上記の論文で、「nur」としか読めないことを論証されてい て、私としてはこれを読んで非常に意を強くしたというわけです。
 上記の論文では、問題となっているマルクスの手書き原稿全28ページ中にある、「nie」の画像15点、「nun」の画像25点、「nur」の画像 162点をもれなく示し、問題となっている文字が、「nie」や「nun」の画像には見られない「r」の特徴を持っていることを示しています。さらに、マ ルクスの主要著作集と後の『資本論』第2巻用の草稿とを検索にかけて、問題の文章がnie説に従った場合の「否定表現+so weit...als」(及び類似表現)はただの一件も見つからず、nur説に従った場合の「nur+so weit...als」(及び類似表現)は15箇所見つかったとして、その15例をすべてあげておられます。
 私はこれは非常に説得的だと思いますし、MEGA第2部第11巻もnur説をとったそうです。まあしかし、他方の当事者の方々はまだ納得されてないみた いだし、一応まだ現に論争自体は存在しているという扱いでご容赦いただきたいと思っています。

 えー、まだまだほかにも間違いとか至らぬところはあると思います。お気づきのかたはご指摘いただければ助かります。


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