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09年9月22日 『脱貧困の経済学』と最低賃金問題と置塩モデル



 まず、拙著へのご書評、コメントへのお礼から。
 『商人道のスヽメ』、週刊ダイヤモンド(9月12日号)にて、原田泰さんから約一面使って非常に正確な紹介の書評をいただいています。ありがとうございます。
 また、8月9日には、日本経済新聞さんにも、書評欄でも取り上げていただきました。ありがとうございます。
 『痛快明解経済学史』については、以下のウェブでのご書評、コメントをいただきました。ありがとうございます。
小飼弾さん。経済学的思考の正当化という本書の主題には賛同いただけなかったようですが。
はてなid: J-S-5さん。好意的なご紹介ありがとうございます。
はてなid: bunz0uさん。いつも好意的なご紹介ありがとうございます。
2ちゃんねる経済学板の、くまきちさん。過分なお誉めをいただき恐縮です。

 さて...。
 怒濤の締め切り集中の8月末が過ぎてしばらくそれをひきずっているうちに、京都フォーラムから今度は書評の要請がきて、さらに筑摩書房のウェブ雑誌の連載の最終回の締め切りがきて、それが終わってやっと世間の連休と一緒にボクも夏休みが来たという感じです。このかん、9月はじめには、本務校のセールスで福岡県内の高校まわりをするのに、事務の手違いで資料が届かない事件があって一時肝を冷やしたし。まあ、結局立命館の福岡市の出張所があって、そこに一通りあったから、なんてことなかったんだけど。ちなみにこの高校訪問のときも、最後の最後で帰り道おもいきり道に迷ったのだった。アッハッハ。
 田中秀臣さんみたいな猛者(インフルエンザ流行の時節柄ちょっとは気をつけてもらわないと...)と違って、締め切りに迫られると(家のご奉公の義務は別として)、ほかのことが何にもできなくなるので、今になってやっと本が読めています。こないだ吉原直毅さんから、よくまとまった搾取論の展望論文「21世紀における労働搾取理論の新展開」(一橋大学『経済研究』第60巻第3号)が送られてきて、いつもの文字化けみたいなトポロジーの証明がほとんど省略されていて行列がならんでいるだけなのでとても読みやすいのですが、こういう本業をいいかげん進めなければならないと焦りつつ、結局その点ではこの夏も何もせずに終わりそうです。
 とはいえ、前々回のエッセーで書きましたように、激動の8月終わりに若田部昌澄さんの『危機の経済政策』が送られてきた時には、あまりのおもしろさについつい読んでしまいましたが、まあ今から思い出せば逃避行動だったんですな。おもしろいのは事実ですが、結局自分の首を絞めまくった。もちろん読んで後悔はしてませんよ。前々回のエッセーの段階ではまだそこまで読んでませんでしたけど、現下の経済危機についても、経過と諸説を緻密にウラをとって書いてあって、とても役に立ちました。
 それにしてもあのころ、大西広さんの共著原稿A4で12枚位、存在を意識しないまま締め切りを一週間以上過ぎていたのを、数日のうちにでっちあげ書き上げなければならなくなって、どうしようと悩んだ末思いついたのが、引用しまくるという手。結局、『資本論』からの引用だらけのボクの文章じゃないみたいな文章になりましたけど、書き上げてみたら、かえってその筋には今までより説得力があっていいんじゃないかという気になったりして...。

 で、ちょっと暇になってまず一気に読んだのが、今話題の飯田泰之さんの、雨宮処凛さんとの対談本、『脱貧困の経済学』(自由国民社、amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン)。いやあいいですねえ。おカネのあるところから取って貧しいところにまわせって話とか、日本型身内主義世間の圧力批判とかしているのにもかかわらず、山形浩生さんに誉められるというのは、飯田さんの人徳でしょう(笑)。日本は税金とる前は平等な国で、再分配したら不平等になっちゃう話など、もっと世の中に知られて欲しい。
 飯田さんは、こないだ出た『経済成長って何で必要なんだろう?』(光文社、amazon bk1 セブンアンドワイ 本やタウン)でも、湯浅誠さんとかをオルグって、いい仕事してます。
 いやあ、ボクは自分では、リフレ派で左派系説得担当みたいな位置にあるんだろうなと自覚していたけど、そんな機会もないまま時を重ねていっていたところ、ようやくこないだ8月3日のエッセーで書いたように大阪の生協に講演に呼ばれて、はりきって行ってきたんだけど。
 会場のすぐ近くに吉本の施設がある土地柄である。百戦錬磨の大阪のおばちゃんたちである。これは通り一遍の冗談を言っていたのでは相手にされないぞ。もう捨て身の自分のヘタレ話ネタでいくしかない。
 そう思って、久留米大学の退職金の運用がリーマンショックで失敗して大損だした話とか、通勤の交通費浮かすために退職金の残りで株主優待狙いでJR西日本株を買ったら高速千円で株価下がって大損した話とか、デフレの真ん中で家を建てて、デフレの間中ローン払い続けた話とか、「経済学者なんてどうせこんなもんや」って話を次々と繰り出したら、どんどん笑い声が高まっていって、とうとう爆笑。
おっしゃーっ!大阪のおばちゃんつかんだー。
と喜んでいたら、あとでもらった感想で、「経済学者がいかにいいかげんなものかということがよくわかった」というようなご意見がちらほら。
 ああー、かえって経済学の評判を落としてしまいました。すみません。OΓ乙。
 商人道がらみでブルジョワの皆様相手の講演の話などが舞い込んだりしてまして、ありがとうごぜえますだ(手モミモミ)。もうワタシゃそっちでいいです。
 左派系担当は飯田さんに任せた!

 で、『脱貧困の経済学』なんですが、雨宮さんが最低賃金の引き上げを唱えているのに対して、飯田さんがたしなめています。雨宮さんがそう言いたくなる気持ちに十分理解を示した上で、どうせ守られないケースがいっぱいでるし、中小企業では給料払えなくて倒産するところがでるし、最低賃金で雇う雇用は減って、しかも母子家庭のお母さんのような人から先にしわ寄せがくる、補助金の方が筋がいいと言っています。
 この問題に関しては、ボクはこのサイトの以前のエッセーで、最低賃金引き上げは悪くない政策ではないかと論じたことがありました。そこでは、正社員が増える効果があるということと、十分な金融緩和と組み合わせれば、デフレを退治してインフレに変える確実な策になるという理由をあげました。

 実際のところどうなのかは、実証分析をしてみないとわからないと思いますが、この問題については、先日はてなダイアリーでid:himaginaryさんが、ネットで見られる限りの議論を網羅し、そのうえ簡単な実証までされています。コメント欄も参照のこと。
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20090726/minimum_wage_1000yen
 また、大竹文雄さんがブログで、川口大司さんと森悠子さんの実証研究を紹介されています。
http://ohtake.cocolog-nifty.com/ohtake/2009/07/post-c74b.html
これをまたhimaginaryさんが取り上げられていて、
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20090731/minimun_wage_hike_gain_loss
これへのコメントのようなエントリーを大竹先生が書かれています。
http://ohtake.cocolog-nifty.com/ohtake/2009/08/post-def9.html
さらにhimaginaryさんが、これへのコメントを書かれています。
http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20090804/minimum_wage_diagram

 しかし、ざっと見たところ、正社員が増えるかどうかという研究はないみたい。理論家の勘としてはこの効果はあると思うんですけど。正確には、非正社員から正社員に替える効果と、そもそももうからなくなって生産を減らすから正社員も減る効果と、どっちが大きいかということでしょうけど。
 それから、マクロな景気への効果は、事業投資資金にかかる金額が増えるので、金融緩和なしでは利子率が上がってしまいマイナスでしょうけど、それを打ち消すだけの金融緩和があれば確実に一般物価水準を上げる効果があると思います。
 簡単なモデルにしたら修士生にとっては手頃な練習になるからやってみたらいいと思います。(単純なIS−LMと、セスかなんかで労働が二種類の生産関数の限界条件で雇用が決まる式を組み合わせて、両労働の貨幣賃金率をパラメータにすればよい。正社員向け労働供給は、雇用されなかったら非正社員向け労働供給に加わることにする。もっとも、物価が上がることが投資増大をもたらしたりする効果まで入れることは、動学化して期待を入れることになるのでもう少し複雑になる。)

 実際、ちまたで言われた最低賃金1000円などということになると、すぐには無理でしょうから、長い時間をかけた調整になるので、将来の予想に与える影響が大きくて、リフレ効果があるような気がします。払う余力のない企業は、当該労働者から賃金上昇分を前借りして、後年の賃金につけて分割して返すことを認めれば、事実上の正社員化と同じですね。途中で雇い止めしたらその分をいっぺんに返さなければならないので、一種の退職金みたいになって、勝手にクビにしたりせず、なるべく長期に雇う方がトクになると思います。

 それで、ここで考えてみたいのが、こうした将来の賃金上昇予想が、企業の設備投資に与える影響です。金融緩和が信頼されていて、賃金上昇といっしょに自分のところの製品の売値も上昇すると予想されるならば、リフレ効果だけが出て、投資が増えるのは当然です。しかし、検討してみたいのは、製品の需要条件については変わらなくて、賃金の上昇だけが予想される場合です。そんなもの、投資を減らすに決まっていると思われるかもしれませんが、実はそう言い切れないのです。
 この問題については、師匠置塩信雄の手がけた研究があります。
 もともとは、問題意識はある意味で逆で、ケインズが、将来の賃金の下落が予想されると設備投資が減ると言っていて、その推論の妥当性を検討するためにやったものです。
 この研究は次の二つが発表されています。
鷲田豊明・置塩信雄「予想貨幣賃金率と投資決定──ケインズ投資モデルの再考」『季刊理論経済学』第38巻第3号、1987年9月。
置塩信雄「新投資決定のパラドックス」『現代経済学II』(筑摩書房、1988年)第4章、第3節。
 どちらのモデルでも、将来の賃金が下落するとケインズの言う通り設備投資が減る、逆に言えば将来の賃上げが予想されると設備投資が増えるという結論が導かれています。なぜこのようなことが起こるのかについては、前者の鷲田・置塩論文では詳しく検討されているのに対して、後者の著書中のモデル分析では詳しく解説されておらず、これまでは鷲田・置塩論文のメカニズムと同じだろうというぐらいに思われてきたと思います。しかし、このほど後者のモデルをよく検討してみたら、実は違うメカニズムで起こっていることのようだということがわかりました。
 鷲田・置塩モデルは、規模に関して収穫逓減(生産が増えると生産性が落ちる)の生産関数で、資本(機械や工場)が二期間存続して消える仮定のもとで、利子率で割り引いた利潤和を最大にするように設備投資を決める問題を解いています。その結果、三期目の貨幣賃金率が下落すると、そのときにはもう存在しないはずの一期目の資本の設備投資が増える減るということを導いています(10年4月4日修正)。その原因は、三期目の賃金下落が見込まれるならば、そのとき使用される資本を買う二期目の設備投資が増えるのですが、二期目の市場状態の予想に変わりがなければ、そのときに計画される生産を担う一方の資本の量が増えるので、他方の、一期目に投資される資本の量は減らなければならないというわけです。すなわち、異時点に投資される資本間の代替からこのような結論が導かれることになります。
 だから、この結論は一般化されるものではなく、三期目の賃金が下がれば一期目の投資は増え減りますが、四期目の賃金が下がれば今度は二期目の投資が増える減るので一期目の投資は減って増えてしまいます。一期目の投資は、一般に奇数期目の賃金が下がれば増え減り、偶数期目の賃金が下がれば減る増えることになります。(9月23日修正)

 これではケインズの推論は一般にはあてはまらないということになってしまいます。二番目の『現代経済学II』中のモデルも同じメカニズムだったならば、やはりそうなっているおそれがあります。しかし、実は『現代経済学II』のモデルの仕組みは別のもののように思われます。
 今度の生産関数は一次同時(生産が増えても生産性不変)を仮定していますが、「技術選択関数」と「稼働関数」を区別します。資本・労働の組み合わせを机上で計画する時の生産関数は「技術選択関数」で、一旦この中の技術が一つ選ばれて据え付けられると、その技術の資本・労働比率を正常稼働としながら、労働の投入を増減させることによって、技術選択関数上よりは非効率な「稼働関数」にしたがって、正常稼働よりも高い生産や低い生産を実現できるというわけです。このもとで、右下がりの需要曲線に直面する不完全競争を仮定して、二期間存続する資本の投資量を、利子率で割り引いた利潤和を最大にするように求めます。同時に、各期、各設備の、技術や稼働率も利潤和を最大にするように求めるわけです。
 そうしたら、やはり三期目の賃金が上昇したら、一期目の設備投資が増えるという結論が出たわけですが、これはよく検討すると、次のようなメカニズムによって起こっていることのようです。
 今度のモデルの想定では、一期目に設備投資された資本は、二期目、三期目と生きることになっています。二期目の賃金が不変で、三期目の賃金が上がると予想されるので、この資本の技術は、二期目の賃金と三期目の賃金の中間の賃金に対応した技術にして、二期目は正常より高い稼働にして、三期目は正常より低い稼働にして運転するのが最適になります。それゆえ、三期目の賃金予想が上昇する前と比べて、この技術は資本集約的になります。ところが、二期目の生産は需要曲線に直面してある程度制約されていて、この制約の中で資本集約的になるためには、労働を減らすよりむしろ資本を増やして対応しなければならないことになります。そこで、一期目での設備投資が増えるということになるわけです。
 早い話が、将来の賃金が上がると予想されたならば、それに備えて機械化を進めるために、今の設備投資が増えるということです。
 置塩のこの研究は、企業のミクロ的な最適決定の話しかしていなくて、このマクロ的効果は検討していないのですが、もしこの効果が大きければ、この設備投資増加の結果総需要が拡大して景気がよくなっていくということもある得るということになります。


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