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12年8月24日 前回のエッセーの続き──外部性を抑える方法はあるか



 前回のエッセーについて、早速田中秀臣さんがとりあげてくださっています。ありがとうございます。
学校選択制といじめ(メモ書き)

 田中さんはあんまり論旨に納得されなかったみたい。まあ「いじめ」一般にまで手を広げると、いろんな要因がありますから、学校選択制の設計がどうかというようなことだけでカバーできなくなると思います。今回の大津事件の場合、学校側による隠蔽が事態を悪化させたと思いますので、ことその問題をもたらした要因に学校選択制があるというのが前回のエッセーの論旨です。しかも今回のような少数の主導的な加害者が特定できるケースについて特にあてはまる議論だと考えています。
 安田洋祐さんがご指摘の、学校側にいじめの事前抑制のインセンティブ(誘因)がかかるとか、(新入生の)父母に情報探索のインセンティブがかかるとかという、学校選択制の効果については、当然の前提だと思います。それを乗り越えて、外部性の悪影響(を学校側に予想させる効果)が大きかったということでしょう。

 なお、田中さんご紹介の安田さんのこの論考
より良い学校選択制を目指して
は、全体としては理解するのですが、田中さんが、「特にありがちな学校選択制が「格差」を生むという誤解を解いている」と評される点については、理屈にただちには納得できないところがあります。
 おおざっぱにまとめると、自由に学校を選ばせて学校間に人数の格差が出るのは、機内食を肉料理にするか魚料理にするか選ばせて、提供された肉料理と魚料理の数に格差が出ることと同じで何の問題もないという理屈だと思います。
 しかし、機内食を自由に選ばせた結果肉料理が多くて魚料理が少ないというのは、人々のニーズに合わせて適切に供給が配分されています。それに対して、学校選択制の場合、前回のエッセーで指摘した、需要側が商品の便益に影響する外部性の問題がありますので、こんな仮想例が起こり得ます。

 A校にはカリスマ予備校教師みたいな受験対策術に優れた授業のうまい先生がいて、B校にはどんな不良も100%手なづけて更生させる夜回り先生がいたとします。ヨシオ君はカリスマ予備校教師に習う便益は高いのですが、夜回り先生の授業はものたりないです。ワルオ君は夜回り先生につく便益は高いのですが、カリスマ予備校教師の授業を聴いてもしかたないと思っています。またカリスマ予備校教師は、ヨシオ君は教えがいがあると思っていますが、ワルオ君の相手は苦手です。夜回り先生は、ヨシオ君のウザい質問や受験技術志向はストレスに感じますが、ワルオ君を見ると熱血が騒ぎます。(ヨシオ君、ワルオ君がわからない人はググってね。)
 このとき、たまたまそれまでにいろんな要因で、A校にワルオ君タイプの生徒が、B校にヨシオ君タイプの生徒がある程度の数まとまって入っていたとします。残りはフツオ君ね(笑)。
 そしたらその生徒たちの状況を見て、入学にあたって、ヨシオ君はB校を、ワルオ君はA校を、合理的に選ぶことになります。新入生のヨシオ君タイプ、ワルオ君タイプがみんな同じように選択しますので、A校はワルオ君タイプの集まりに、B校はヨシオ君タイプの集まりになることが均衡になります。
 しかし、A校、B校の生徒をそっくり入れ替えるならば、ヨシオ君、ワルオ君たち生徒にとっても、カリスマ予備校教師、夜回り先生にとっても、みんなにとってより良い状態に改善できます。

 つまり、落ち着く先の均衡が複数あり得て、たまたま最初の状態がへんだったら、当事者みんなにとって不幸な均衡に落ち着くかもしれないわけです。かならずしも、人々のニーズに合わせて適切に供給が配分される状態が実現できないことになります。学校間の人数の「格差」というのも、多くの生徒たちにとって適切な資源を持った学校なのに、結果的に少ない生徒にしか選択されないということが起こり得ることが問題なのだと思います。

 安田さんの学校選択のデザインはおもしろいと思っているのですが、私の不勉強かもしれませんが、まだこの種の外部性を考慮に入れたものを見てはいません。
 例えば、ヨシオ君は本来A校の方がB校よりよく、ワルオ君は本来B校の方がA校よりよいと思っているのですが、どちらもヨシオ君、ワルオ君、フツオ君がトリオで同じ学校に行くのが一番いいと思っている場合とかです。ヨシオ君は、自分だけA校に行くよりはトリオでB校に行く方がいいと思っていて、ワルオ君は自分だけB校に行くぐらいならトリオでA校に行きたい。
 あるいは、フツオ君は「とびきりの美少女」と同じ学校に行きたいと思っているのですが、100%片思いで、彼女の方はどんな学校であれフツオ君と同じ学校に行きたくない場合とか(笑)。
 同じ小学校の友達といっしょな学校に行かないとイジメられるんじゃないかとか、自分をイジメたあいつと同じ学校はいやだとか、この種のことが学校選択の大きな要因として効いてくることは、いたって現実的なことです。
 こういうことを考慮すると、直感的には、均衡があるのかないのかとか、死ぬほどたくさん均衡が出てくるのじゃないかとか気になるのですが、そのなかでも、みんなにとって良くなる均衡に落ち着くアルゴリズムを組み立てるのはとても難しそうと感じてしまいます。もうできてるのかもしれないけど(糟谷祐介さんのってそれなのかな)、できてなかったら今後に期待したいと思います。

 自分としては、外部性をなんとかしてコントロールする方法がないかというアプローチで考えたいと思っています。
 学校側が入学拒否や強制退学ができるというのは、一番直接的な外部性のコントロールですね。「隠蔽」も一種の外部性のコントロールだったのだと思います。
 経済学で普通素直に出てくる外部性の「内部化」というやつをそのまま適応したら、問題児から追加料金をとるという話になって現実的でないです。

 全員どこかの学校に行けなければならないという義務教育制度の制約条件をふまえるならば、純経済学的理屈だけを突き詰めて理想的なのは、学校側に生徒の選択権を与えた上で、どこにも受け入れてもらえない生徒を学校間でセリにかけて、地方政府からセリで決まった追加予算枠をもらうようにするという方法でしょうね。そのおカネで、人員拡充も含め、いろんな意味での教育効果を高めて、広く父母に、受け入れにともなう悪影響が相殺される効果があることを納得してもらうという。
 受け入れの影響とか、追加予算の教育改善効果とかが、学校、父母に共通の情報として正確にわかるならば、これがたぶんベストでしょう。(最初からこれを狙って受け入れ拒否を連発されないように工夫しなければならないけど。)

 しかしこれは現実的ではないし、経済学の理屈以外では問題多すぎですので無理でしょう。
 結局は、いじめなどの事件が起こった後で、それに適切に対処する人員や予算が配置されることが周知されるとか、障害児などの受け入れには適切な人員や予算が措置されることが周知され、いっしょに学ぶことのプラスの影響も周知されるとか、陰にこもった問題児の押し付け合いで陰にこもった追加予算措置の交渉とかがあって、結局問題児が来てもマイナスばかりでないことがなんとなく周知されるとか、なんかそんな感じのことで、結局上の「セリ」方式の結果から歪みはしてもそうかけ離れていない解が実現されることになるのが現実的でしょう。
 まあこの程度のことでも、ハシストのもとでの学校選択制では決して実現されないでしょうけど。

 前回エッセーを書いてから、なんかほかにいい方法がないかということは考えてはいるんですけどね。今のところスッキリしたものは思いつきません。 


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