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17年1月7日 新春書評:レフト3.0がわかる本(その2)



(追記:読者のかたからのご指摘で、「檄を飛ばす」の「檄」を「激」と誤記していたことに気づきました。お恥ずかしいミスで失礼しました。ご指摘ありがとうございました。わざとではありません、みかこさん。訂正線を引いて残さず、きれいに直しておきました。それから、ネット書店へのリンクを忘れていたので、つけておきました。ちなみに本サイトはアフィリエイトはしておりません。そもそもやり方がわからないし。2017年1月10日)

 『週間ダイヤモンド』誌新年合併特大号の「2016年ベスト経済書」20位に拙著『この経済政策が民主主義を救う』がランクインしました。投票して下さった経済学者・エコノミストのみなさん、本当にありがとうございました。同書は、田中秀臣さんの「2016年心に残る経済書ベスト20」では、12位にランクインしました。投票して下さったみなさんありがとうございます。
 同書はまた、ウェブ雑誌「リテラ」の、1月5日の野尻民夫さんの記事「野党が安倍政権に勝てないのは経済政策のせいだ! 民進党は緊縮財政路線を捨て庶民のために金を使う政策を」でも書名をあげていただいています。ここではさらに、私の『世界』11月号の論説を詳しくご紹介くださり(ちょっとニュアンスのずれを感じる所はありますが)、論旨にご賛同いただいています。大変ありがたいかぎりです。結論は100%そのとおりで、新年早々心強く思います。(私が「不気味」と表現しているのは極右の台頭の方だけですけどね。)

 さて、今日も前回に引き続き、「レフト3.0」がわかる本の書評をします。「レフト1.0」「レフト2.0」「レフト3.0」が初見の人は、前回のエッセーを読んでね。

 でもその前に一言。今年こそ「レフト3.0」の政治勢力が出ないと、いよいよ危ないぞということを言っておきたいです。
 ただでさえ、安倍さんの景気拡大作戦は大詰めで、本格的好景気の中で解散して国会を完全制圧する恐れがマックスに向かいつつありますが、それだけにとどまらない要素が加わってきました。トランプ政権の誕生です。

 私は以前から、安倍さん個人の復古主義的な野望は、必ずしも財界やワシントンの利害と一致しているわけではないと言ってきました。そもそも、景気がよくなることは財界にとってうれしいことばかりではありません。失業者がなくなって人手の確保に苦労して、賃金を上げたり、従業員をなだめすかしたりする事態は、あまり続いてほしくないのが本音だと思います。それに、長期的にはお金持ちや大企業に高い税金がかかってきたりしたら嫌ですし、インフレで資産が目減りするのも嫌ですから、やっぱり財政削減して財政赤字は減らしたいはずです。それに金利があんまり低いと銀行ももうかりません。やっぱり財政緊縮と金融引締めの方が、安倍さんの掲げた経済政策よりも、長期的には財界や多国籍企業にとってはトクなのです。
 別に、今の民進党が政権をとっても、多少自民党が議席を減らしても、財界や国際ブルジョワジーにとっては痛くもなんともないですから、わざわざ安倍さんの野望を満たす選挙のために景気刺激路線につきあう義理は、本当はないのだと思います。

 たしかに、まあデフレ脱却は企業ももうかるから、やってもらう分には、当分はいいと思っているかもしれません。円安になれば輸出産業はウハウハですし。
 でも、中国や韓国との関係が悪くなることはどうですか。財界にとっては全然いいことではないでしょう。輸出企業にとっても、進出企業にとっても、関係良好にこしたことはありません。アメリカの支配層の総意としても、中国の進出は防ぎたいとは思いつつ、日中韓の関係がこじれて世界経済の不安要因になる事態は避けたいと思っているはずです。

 2014年6月、日中関係が緊張していたとき、安倍さんの経済ブレーンの浜田宏一さんが、河合正弘東京大学教授らの経済学者・エコノミストたちと18人で「平和と安全を考えるエコノミストの会」を作り、日中韓の関係改善を提言する文書を渡そうとして、官邸から受け取り拒否されるというできごとがありました。
ロイター「浜田・河合教授らが日中韓関係改善を提言、首相官邸は受け取らず」
ここでは、「河野談話」「村山談話」の明確な踏襲や、靖国参拝を控えることや、領土問題の事実上の棚上げが提案され、日中関係がこじれることの経済的悪影響が強調されています。これは、財界主流サイドのブレーンたちなら当然の見解でしょうね。

 その前年の2013年10月、来日したアメリカのケリー国務長官とヘーゲル国防長官が、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れて献花しました。これは、安倍さんが靖国神社をアメリカの戦没者墓地のアーリントン墓地になぞらえたことへの牽制と見られ、「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じように」戦没者に哀悼の意を示したと発言しました。
AFPBBニュース「米国務長官らが千鳥ヶ淵墓苑で献花」
 このメッセージにもかかわらず、安倍さんは12月26日に靖国神社参拝を強行したのですが、すると即日、アメリカ大使館が「米国政府は失望している」とする声明を発表しました。
ブロゴス「安倍首相の靖国神社参拝(12月26日)についての声明」

 だから、安倍さんのやっていることには、財界主流やワシントンの意向からは相対的に自立している側面があると見るべきです。問題はこれが、安倍さん個人や「日本会議」系の極右政治家たちの、政治的文化的価値観のためにだけやっているのかということです。もちろん、政治家は支持者大衆の意向を気にしないと当選できないわけですから、いかに非合理な思い込みでも票のためには従わざるを得ないという要素はあるでしょう。でも、では実利的な思惑とは無縁かというと、そうでもないように思います。財界の主流は、中国の市場もアメリカの市場もないと困るので、原則は親米親中が望みだと思いますが、財界の一部にはそれとは微妙にずれる思惑を持ったグループもあるものと思います。

 これは、確証があるわけではないので、あくまで単なる推測としてお読み下さい。ただ、今EUは、ドイツ資本主義の一人勝ちで、アメリカから相対的に自立したドイツ帝国ができつつあります。これを見て、「我々も」と思うエリートが現われるのは自然だと思います。つまり、東南アジアあたりを基盤として、アメリカから相対的に自立した地域帝国を作る野望です。
 低賃金で現地の人々を搾取するために企業がどんどんと進出し、その結果激しい労働運動やテロなどで進出企業やその駐在役員が危険にさらされたり、政権が転覆して国有化されようとしたりしたとき、最終的には自衛隊を派遣して実力で守る。他の先進国よりも優先して日本が資金を貸し、それを利益をつけて確実に回収する。そのような勢力圏を、同様の思惑を持った中国と張り合いつつ作るということです。装備の国産化や武器輸出でもうかる軍需産業も同様の路線に利益を持つでしょう。
 こんなことは、低賃金を目指して企業の海外移転が進んで国内の雇用がなくなっちゃうわ、海外子会社からの利潤送金のせいで円高が進んで国内景気は悪化しちゃうわ、労働者階級にとってはろくなことはない路線ですが、大資本の側にとっては、たしかにおいしい話のオプションのひとつではあります。
 要するに、「大東亜共栄圏」を今度こそという野望です。

 このような思惑は、日本の支配エリートの中に、戦後ずっと伏流水としてあったと思いますが、対米従属レジームのもとで抑え込まれてきたと思います。安倍政権下でも、これまではあくまで対米従属図式の中に、なんとか微妙な修正や布石をもぐり込ませるぐらいのものだったと思います。
 しかし、トランプ政権ができるということで、在日米軍縮小、自主防衛圧力の高まりを奇貨としてこの動きが俄然積極的になってくるのではないかと思います。

 考えてみれば、なぜアメリカが抜けるTPPにこだわる必要があるのでしょうか。今の野党の反対論と言えば、TPPはアメリカに押し付けられたものであって、「アメリカに食い物にされるからダメ」とばかり言ってきました。そんな認識でいるから、アメリカが抜けたにもかかわらずTPPにこだわる安倍さんを、滑稽な道化として描くような反対論議をしてしまうのです。アメリカ抜きでの発効をという声が現実にでているそうですが、主要な先進国の地位を日本が独占するTPPというものの意味をよく考えてみれば、とても「道化」扱いなどしていられないことに気づくと思います。

 あるいは、クリミア問題などで欧米から冷たくされているロシアになぜわざわざ接近するのでしょうか。「安倍さんが領土問題で成果をあげて選挙に向けて人気をとろうとしている」ぐらいの認識でいるので、「何も領土で成果をとれずに経済協力を食い逃げされた」などという批判を野党がしてしまうのです。右傾化に反対する野党なら「領土なんかのために戦争犯罪人と取引するな」と言うべき立場でしょうに。
 今から南方で中国帝国主義とのショバ争いに乗り出すと考えれば、多少欧米の不興を買ったとしても、北方を安全にしておくことは安倍さんにとっては大きな成果だったと言えるでしょう。

 そうすると、集団的自衛権を口実にして自衛隊を海外派兵できるようにすることにも、さらに先を見据えた思惑があるのではないかと勘ぐってしまいます。

 こんな中で私が一番恐怖するシナリオは次のようなものです。もしかしたら解散がすぐある可能性も捨てきるわけにはいきませんが、安倍さんサイドのタイミングのとりかたによっては、ひょっとしたらこんなシナリオを考えているかもしれません。

 これまでトランプさんの唱えてきたマクロ経済政策は、金融緩和の停止、大幅減税、大規模なインフラ公共投資の三つです。この三者は普通なら相容れないので、金融緩和は結局継続されるという可能性も大いにあると思うのですが、ここでは、三つともやり遂げるととりあえず考えておきましょう。そうすると何が起こるでしょうか。
 大幅減税する一方で公共投資に政府支出するのですから、財源がないので民間から借金します。ところが金融緩和をやめて中央銀行が資金を作らなくなっているので、政府が無理に借金すると金利がとても高くなります。アメリカの金利が高いと、アメリカで資金を運用したらトクですので、世界中からアメリカに資金が集まってドルが高くなります。ドル高ではアメリカは輸出ができなくなります。輸出ができない上に高金利で借金しにくいので民間企業が設備投資しなくなります。国内の工場はほったらかして、海外に工場を建てて、そこからアメリカに輸入してくることになります。
 トランプさんは海外移転する企業に重税を課すと息巻いていますが、国内の設備投資を意図的にボイコットして、直接その企業の名を名乗らない工場を海外に建てることは防ぎようがないでしょう。空洞化が進むのは避けられないと思います。

 日本経済は今ようやく好況感を取り戻しつつあり、今から補正予算の執行が本格化して、賃上げが消費につながることも期待されるところです。そこに加えて、ドル高円安で輸出が拡大する効果が加わり、やがてかなり本格的な好景気を迎えることになると思います。
 そうするとトランプさんはおもしろくない。貿易赤字が増えて経済が思ったほどうまくいかないのは自分の政策のせいとは言わないで、「日本が金融緩和で円安誘導して、輸出を増やして我々の雇用を奪っているのだ」と言い出すに決まっています。
 そこでおそらく日本に対して「金融緩和をやめろ」と圧力をかけてきます。さあどうする。

 たいていの自民党内閣では、おとなしく言うことを聞く以外の選択肢はないのが通例です。もしその通例どおりにして、その結果景気が挫折して安倍政権の支持が下がったならば、その次に大衆の支持が向かうのは民進党や共産党ではありません。特に、トランプさんの金融緩和批判に対して、やんやと手をたたいて喜んでいたら、いざそれで不況になったとき絶対に民意の支持が得られません。替わって大衆の支持を得るのは安倍さんよりもはるかに危険なさらなる極右勢力ということになるでしょう。

 しかし、安倍さんが通例をくつがえす選択をする可能性も考えておかなければならないでしょう。
 景気が絶好調になっているときに、トランプさんが金融緩和をやめろと圧力をかけてきて、野党がそれに喝采しているとき、「アベノミクスの継続」を争点にして衆議院を解散する!
 そして、「アメリカに対して民意を示す」と称するわけです。さらに、これで在日米軍の撤退などの安全保障上の脅しを受ける恐れを口実に、「自主防衛力の拡充」等々を掲げる。いよいよ九条改憲を表に掲げてくるかもしれません。
 このとき野党が、金融緩和に反対したり、財政出動を批判したりしていたならば、ひとたまりもないと思います。どれだけ野党共闘してもだめです。もう誰も安倍さんを止められません。この前後におあつらえむきに北朝鮮がミサイル打ったりしそうで怖い。

 安倍さんが解散するタイミングとしてはほかにもあります。日本経済は今後かなり本格的な好況になっていくと思いますが、アメリカが利上げを続けていくと、どこかで中国あたりでいわゆる「バブル」がはじける可能性があります。この直後に解散するという手です。
 人々は好況にやっと安心しているときです。それが「また元に戻るのか!」とビビるわけです。そこで、大胆な景気対策を掲げて解散します。野党が財政再建論を唱えてそれを批判したりすると、やっぱりひとたまりもなくねじ伏せられるという案配です。
 もっと悪いことは、このあいだの参議院選挙の前に、イギリスのEU離脱投票結果を受けて世界市場が荒れた時に、野党が「アベノミクス破綻!」と叫んで大衆の危機感を煽り、自民党の得票を増やしてしまったことをすっかり忘れてしまうことです。またも「アベノミクス破綻!」と言って喜んで、やっぱり自民党の得票を増やしてしまいそうで怖いです。

 もう、単なるアメリカポチとして安倍さんを描く批判も、おバカな道化として安倍さんを描く批判も、やめるべきだと思います。「怖い」「怖い」と言いながら、いったいどれだけこの人の怖さを本当にわかっているのだろうかと思います。不況の苦しさをおもんぱかることなく、ささやかな景気の成果に飛びついて自民党を支持する大衆を呪詛し、いつか経済破綻で安倍さんが慌てふためき、大衆が悔い改めてようやく自分の味方になる日がくることを夢見ていては、永久に勝利の日はこないです。野党側がこんな姿勢では、いくら景気の挫折を期待しても、毎度の景気循環の景気後退程度では、かえって自民党への期待が高まるだけですし、いつか大危機が本当にきても、もっと極右が台頭するだけでしょう。
 二回の都知事選やアメリカ大統領選挙を経験して、もう十分にわかったはずです。新自由主義と「第三の道」の「小さな政府」路線に痛めつけられてきた大衆は、縮小志向の「レフト2.0」に振り向くことは決してないということです。有権者は「大盤振る舞い」を約束するなら右でも左でもいい。左にそれを約束する選択肢がなければ、確実に右に向くということです。
 だから安倍さんと闘うのに、野党共闘は決して万能薬ではない。「レフト2.0」の、全く「レフト」でも何でもない成れの果てといっしょになっていたら、ヒラリーさんと心中するだけになります。
 共闘しないならしないで、有権者から見て今の共産党と区別がつかない同じこと(あるいはもっとヘタレたこと)を言って立候補して、共産党の足をひっぱったならばかえって有害無益です。

 だから真っ赤に燃える「レフト3.0」が出てこないといけません。「レフト1.0」にも「レフト2.0」にも、それぞれの内部で急進派と穏健派があったように、「レフト3.0」の内部にもあるでしょう。一方の端には中央銀行制度も信用創造も廃止して世界人民政府の樹立を目指す革命派があるかもしれません。他方の端には、もはや「レフト」でもない、田中角栄的な親米親中ハト派護憲保守の経済刺激主義があるかもしれません。「共闘」と言うなら、このあいだの諸勢力の共闘なら勝機はあると思います。


 ではここで、「レフト3.0」がわかる本の書評。残りは二冊ご紹介します。二冊とも、ブレイディみかこさんの去年出た本です。
 ブレイディさんは、福岡出身で、イギリスの労働者階級地域に住む自称「パンク保育士」です。ヤフーニュースの記事やご自身のブログで、「地べた」の目線から、現代の「イギリスにおける労働者階級の状態」と彼らの闘いを伝えてくれている人です。コービンさんとかスコットランド国民党とかの日本語情報は、ほとんどこの人のネット情報が唯一と言っていい状態じゃないですか。

ヤフーニュース「ブレイディみかこの記事」
個人ブログ THE BRADY BLOG

…って、これ、最新1月3日のブログを見たら、なんとこんなことが書いてあるぞっ!

     でもこれを読んでやる気になりました、松尾匡先生。いつか久留米ラーメンをご一緒するのが夢です。

で、前回のエッセーへのリンクを貼ってくださっています。
 うわぁ〜。どーしましょ、どーしましょ。このサイトをフォローいただいていたなんて恐縮極まりない。いやいや「これを読んでやる気になりました」とは全くこっちのセリフですぞ!
 久留米ラーメンは元祖豚骨で、一般に博多のものよりも濃厚でクセが強いです。久留米はカミさんがいて怖いので、立命館の職場キャンパスに最寄り駅の南草津駅から上がる途中に一軒あるので、そちらではいかがでしょうか。
 と思ったら、『エレキング』という雑誌の「緊急アンケート」で、ブレイディさんが私の本を読めと書いて下さっているという情報が入りました。重ね重ねありがたいことです。これからもよろしくお願いします。

 では出版された順番に…
ブレイディみかこ『ヨーロッパ・コーリング──地べたからのポリティカル・レポート』岩波書店、1800円+税
amazon HonyaClub honto 楽天

 ヤフーニュースの記事などをまとめたものですが、まだ読んでなかったものもありましたし、もう読んだものも改めて通読すると全体の状況がよく伝わります。
 保守党政府のもとの新自由主義の緊縮政策が絶望的な格差の拡大と固定をもたらし、労働者に苦しい人生を強いていること。それに対して、コービン前のかつての労働党主流派が、何もまともな対案を出さず、保守党とどこが違うのかわからないことをしてきたこと。この両者に対する怒りから、暮らしと尊厳のための大衆の闘いが繰り広げられていること。そんな人々から今、スコットランド国民党のスタージョンさんや労働党最左派党首コービンさんのような、反緊縮の姿勢をブレず示して闘う政治家が圧倒的に支持されるようになっていること。同様の図式が、スペインの新興左翼ポデモスの台頭の背景にあること。…このサイトなどでもしばしば指摘してきたこうした状況が、具体的な体験によって生々しくレポートされています。

 そしてそれだけではないです。この同じ虐げられた大衆の怒りが、極右にもつながるし、イスラム系移民の若者の場合ISにもつながるということが指摘されています。
 例えば、下層労働者の支持で極右政党がEU議会選挙で躍進しています。あるいは、保守党政権が担い、かつての労働党主流派も賛同したシリア空爆に対して、右翼新聞が反対しています。その意味で、左翼反緊縮派と共通の基盤に立ち共通の敵と対していると言えます。しかし、著者ブレイディさんも、この本の中に出てくる左翼反緊縮派のリーダーも、右翼排外主義には決然と反対しています。この本を読むと、民族などを超えた階級性は胃袋レベルで現実に存在し、個人としてどんな人格かということは地べたの人間関係では民族性より重要になるのだということが伝わってきます。排外主義は、緊縮政策のせいで社会サービスが細っているところに、移民がやってくるために起こるのだとみなしています。

 結局問題の根幹は緊縮政策にある。それゆえあくまで反緊縮。それがこの本の伝える「レフト3.0」の基本姿勢です。

 それと同時に、「レフト2.0」との違いを見せるのが、いわゆる多文化主義に対する姿勢だと言えます。典型的な論調が「フェミニズムとIS問題」の章で見られます。
 笑い事ではない題材ですが笑ってしまったのが、この中で引用されているジュリー・バーチルという人の「レフト2.0」型左翼に対するおちょくりです。その発想のしかたを、「紛争地域の各陣営の信条体系や、その信条がどのように人間を扱うものかということとは関係なく、原則として、肌の色が濃いほうの味方をしろという考え方」と要約して曰く、「…ダルフールでは左翼はくせ球を投げられた。アラブ系ムスリムの民兵が、黒人キリスト教徒を恐怖に陥れたからだ。うーむ。ムスリムはGOOD。キリスト教徒がBAD。の図式のはずなんだが、待てよ、ここではキリスト教徒のほうが黒人ではないか。」(笑)。
 戦闘的フェミニストであるバーチルさんは、「レフト2.0」型左翼の男たちがISISの女性蹂躙に無批判なのを「部分的には「自分は白人の西洋人だ」というバカバカしい罪悪感のせい」として、「このビクついた男たちは、たとえ自分たちの愛しい白髪の母親が、一方でISISに、また他方ではアルカイダに陵辱されていたとしても、「いったい彼女のどのような行為が、罪もない若者たちにあんなことをさせてしまったのだろう」と問うているのだろう。私に言わせれば、多くの場合、彼らは単に性的欲求を満たしているだけだ」と一刀両断します。

 ブレイディさんはこれを受けて、女性の(「レフト2.0」型)左翼だって変らないと言います。「ISISへのアンチ感情をストレートに表現するのは左翼としていかがなものか、みたいな空気がある」として、「ISISが組織文書で兵士たちに九歳以上の女子と性交することを公然と許可し(補足されたらレイプされる前に自殺する少女たちが続出しているという報道もある)、バス停で赤ん坊に授乳していた女性の乳房に拷問具を突き立て、同性愛者の次は高学歴の女性たちを「処刑」対象にすると宣言しているときに、同じ女たちが目を瞑り、耳を塞ぐのはなぜだろう。彼女たちは自国民ではないのでスルーすると言うのなら、フェミニストとはまたずいぶんとナショナリストだ」と批判しています。

 同様のことは「左派はなぜケルンの集団性暴行事件について語らないのか」の章でも取り上げられています。今度はムスリム系移民による性暴力の問題です。
 イギリスでは、パキスタン系移民のギャングが、1400人の10代の下層階級の子どもを、暴力下でレイプ、監禁し、強制売春させていた事件があったそうですが、関係者がみな「レイシズム」が絡むのに尻込みして明るみに出るのが遅れてしまったとのことです。ブレイディさんは、こんな姿勢の左派に対して、「一方では「女性がどんな格好をしてストリートを歩こうが非はない」という女性の権利を信じているくせに、パキスタン系ギャングに狙われたティーンたちには「非がある」と思っているのだとしたら、これは左派のジレンマというより、単なるダブルスタンダードだ」と断じています。
 ドイツのケルンで起こった移民による集団性暴行事件でも、「左派からまず出たのは陰謀説だった。難民受け入れに反対する右翼が、わざと仕組んだ事件だったというのだ。/どうして左派にとって難民は「聖人」でなくてはいけないのだろう?」と怒っています。

 もうひとつ興味深いケースが書かれています。「右翼はLGBTパレードに参加してはならないのか」の章で、性的少数派のパレートに、映画『バレードへようこそ』のモデルになった同性愛グループが先頭を歩くよう提案されて、結局実現しなかった事件が紹介されています。この映画は、1980年代の炭坑労働者のストライキを同性愛者のグループが支援した実話を描いたものですが、先頭を歩くよう要請された同性愛グループは、労働組合のグループといっしょに歩くことを提案しかえし、それが受け入れられなかったために先頭を歩くことを断ったとのことです。1マイルあとから行進するならいいと言われたそうで、ブレイディさんは、不信や偏見を乗り越えた連帯を実現した80年代と引き比べ、「一マイルも離れたところで歩けというのが現代という時代の後退ぶりを象徴している」と評しています。

 もちろん、だからといってムスリム移民を排斥しようという主張に、いささかも同調しているわけではありません。「元人質が語る「ISが空爆より怖がるもの」」の章では、ISの兵士たちが「非常に子どもっぽく幼稚」だったと言う元IS人質の言葉を紹介しています。そして引用して曰く。「彼らの世界観の中核をなすものは、ムスリムとその他のコミュニティは共存できないというものだ。そして彼らは毎日アンテナを張り巡らせて、その説を裏づけする証拠を探している。だから、ドイツの人々が移民を歓迎している写真は彼らを大いに悩ませた。」
 だから、排外主義が高まることこそがISの望むところだというわけです。欧米が爆撃してくることこそ彼らが欲しいものだと言います。どうしてそんなことをして、彼らを勝たせようとするのかと憤っています。

 そういうわけで、さんざん「左派」をクサしていながら、本来の左派の大義は決してはずさないわけです。「コービンは党大会の演説で「我々は社会主義者である。だから社会主義の政治を行わねばならない」という、過去二〇年間の労働党を見てきた人間からすればそっくり返るようなことも言った。日本が「自由と民主主義」を求めて一国の平和を死守しようとしている間に、欧州は次の段階に移行している。それは国境を超えたグローバル資本主義との戦いだ…」と檄を飛ばします。もちろん「日本」「欧州」と言うのは、左派世界の話ね。時代に合わせた転換というのは、ヘタれた中道にコビを売ることではなくて、旗幟鮮明に闘う姿勢を示すことだという檄だと思います。
 同じ「左派」という言葉を使いながら、ディスったり、ものすごくポジティブに使ったりして、たぶん指すのが同じ人であったりもするんでしょうけど。もちろんブレイディさんは私が前回のエッセーで初めて提唱した「2.0」「3.0」という概念はこの時点で知るわけもないですから、ご自分の中の労働者としてのまっとうな実感で「いいものはいい」「悪いものは悪い」と正直に言っているんだと思います。こっちはただそのドまっとうな判断に、あとからラベルを貼っているだけです。

 そして大事なのはこれ。
「そもそもポデモスもコービンも、第一に掲げているのは経済の変革だ。貧困、格差、非正規雇用、非道徳なまでの緊縮財政。そこをまずなんとかしようと訴えて、地べたの人々の生活など顧みることもない(SEALs風に言えば「国民を舐めている」)エリートやテクノクラートの政権に取って代わろうとしている。」
「日本の左派の人々には、「何でも結局は金の話か」と経済を嫌がるというか、まるで劣ったもののように扱う傾向があるが、そういう風潮こそが、貧者が堂々と立ち上がることを困難にしている風土と表裏一体のものだ。米と薔薇、すなわち金と尊厳は両立する。米をもらう代わりに薔薇を捨てるわけでもないし、米を求めたら薔薇が廃るわけでもない。むしろわたしたちは、薔薇を胸に抱くからこそ、正当に与えられてしかるべき米を要求するのだ。この正当に受け取るべき米とはバラマキなどという一時のまやかしではない。金の話はけっして穢れたものではないし、軽視すべきものでもない。むしろ、欧州の反緊縮派が社会民主主義の基礎(すなわち労働者階級とミドルクラス・リベラルの連合)を修復することに成功しているのは、勇気を持ってオルタナティヴな経済政策を打ち出しているからだ。」
そのとおり!

 それからもうひとつ。この本には「反知性主義」という批判文句はない。
 …って、いや、なかったと思うけど。なんか自信がなくなってきたけど、たしかなかったはずです。
 「ポピュリズム」を悪口にしているところもありません。こっちについては「あとがき」ではっきり書いています。コービンさんやポデモスを支持する運動について次のように書いています。
「そして若者を熱狂させるこれらの左派たちは、ポピュリズムと呼ばれることをまったく気にしていない。それどころか、誇りにすら思っている節がある。それもそうだろう。ポピュリズムのイギリス英語での意味をオックスフォード英英辞典…で引くとこう書かれている。/ポピュリズム 庶民の意見や願いを代表することを標榜する政治の種類/ポピュリズムというと日本では「大衆迎合主義」や「大衆動員主義」と訳されて、頭ごなしにネガティヴなものとして解釈されがちだ。が、昨今人気の欧州の左派たちの理念はオックスフォード現代英英辞典が定義するところの根源的なポピュリズムの意味に立脚している。」

 そうなんです。「レフト3.0」を一言で表すならば、「左翼ポピュリズム」なんですね。一方に「異質な者への憎悪」のような大衆感情があり、他方に理性的な人権理論があり、前者に依拠する主情派が右翼ポピュリズムで、後者に依拠する知性派が左翼だというような図式は大間違いです。「レフト1.0」の様々な誤りをひとつひとつ反省したはずの「レフト2.0」が、反省し漏らし、むしろ悪化させた誤りが、「上から目線」のエリート主義的な理論の押しつけだったと思います。
 そうではなく、空腹の胃袋や過労の筋肉痛といったレベルの、生活実感に基づく大衆の怒りや願望こそが、左翼が真に依拠するべきものです。しかしそれが普遍的なものではなくて国ごと民族ごとに対立を生むものならば、結局その分断の上に支配階級のやりほうだいが永続し、惨めで生きにくい暮らしから解放されないことになってしまう。そして結局国家とお上への崇敬を強要する理論と、強者に都合のいい道徳が、やはり「上から目線」で押し付けられることになってしまう。
 だから相互交流などを通じて、そうした生活の怒りや願望の中から、普遍性のあるものに気づいていかなければならない。理性はそのための「お手伝い」をするのだと思います。だから、いつかは自発的に大衆に受け入れられてこその理論なのであり、それを目指すのがポピュリズムならば、ポピュリズムこそが正しいのだと思います。

 だから、この本に引用されている、ポデモスのリーダーのイグレシアスさんの次の言葉が、私たちにとっての結論だと思います。なかなか難しいことですけどね。
「勝つためには、我々は左翼であることを宗教にするのをやめなければいけない。左翼とは、ピープルのツールであることだ。左翼はピープルにならなければならない」


 次は、
ブレイディみかこ『THIS IS JAPAN──英国保育士が見た日本』太田出版、1500円+税
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 ブレイディさんが日本にきて、各地の現場で現代資本主義のもたらす悲惨と立ち向かっている人たちに案内され、日本社会の今に触れたルポルタージュです。
 出版社のひとからコメントを頼まれたので読んだのですが、これがまた引き込まれて一気に読みました。コメントは、私なんかかすむ有名人の人たちのやつと並んで、太田出版の特設の宣伝ページに掲載されています。私よりもっと気のきいたコメントもいっぱいありますので、読んでみて下さい。
『THIS IS JAPAN英国保育士が見た日本』特設ページ - ブレイディみかこ/太田出版

 字数の関係で当初のものから削ったので、ここに当初稿の文章を載せておきます。やっぱりちょっと決定稿と比べて固いかも。

 緊縮政策と資本の横暴に、ついに「地べた」の民衆の反逆が起こり、「中道」が崩壊しつつあるイギリス──かの地にて、常に「地べた」の目線で闘いのリアルを伝えてきた「パンク保育士」が、わが日本の「地べた」に降り立って闘いのリアルに触れた…。そこにあったのは、イギリスをしのぐ資本の論理と緊縮の蔓延であり、「地べた」の人々の信じられない犠牲であり、その中で身の回りの個々人の暮らしを守り抜くグラスルーツの超人的取組みの数々であり、そしてそれがマクロな政治変革へつながらない絶望的な悲しさであった!
 本書からは、コービン=サンダース現象につながる素地は日本にも満ちていると感じる。「中道」に手を広げれば支持が広がるのか。著者は、日本の左派に、経済を劣ったもののようにみなす傾向があることを批判し、「政府は人民のために金を使え。メシ食わせろ」という庶民の叫びを政治に反映させようとするのが隆盛する欧州左翼の主張なのだと強調する。参院選、東京都知事選と連敗した今こそ、本書に学ぶことは多いだろう。

 大事なことですので、この最後の主張の該当箇所をいくつか引用しておきます。
「しかし、わたしには日本の左派が経済問題を扱うのを嫌がるのは「ダサい」というイメージだけが理由ではないように思えた。何かこう、日本の左派には「結局何でも金の話か」と経済を劣ったもののようにみなす傾向がある。反戦や人権や環境問題は左派が語るに足る高尚なテーマなのに、経済はどこか汚れたサブジェクトでもあるかのように扱われてきた。左派はもっと意味のある人道的なことを語るべきで、金の問題は自民党がやること。みたいな偏見こそが、野党が政権を取っても経済を回せず短命に終わり、結局は与党がいつも同じという政治状況をつくりだしてきたのではないだろうか。」(60ページ)
「つまり、基本中の基本の部分で、英国の左派とは、まず第一に富と力の分配を信じる人々のことなのだ。だから左派こそ経済を考えて当たり前なのであり、経済というサブジェクトが穢れていたりダサかったりするわけがない。どちらかといえば最重要だ。」(62ページ)
「英国人にとって、「貧困の時代」は、「貧しくとも民衆が粛々と生きたけなげな時代」ではなく、「民衆の人権が踏みにじられていた間違った時代」なのである。」(209ページ)

 それから、「レフト3.0」が「レフト1.0」への単純な回帰であってはならず、「レフト2.0」の積極面を取り込んだ総合でなければならないと言いましたが、それがどんなことかを考えるヒントも、この本の中にあるように思います。

 「レフト1.0」に対する反省の筆頭にあがるのは何かと言えば、やはり、もっぱら組合や党組織を通じて上から動員して成り立った運動という点だったと思います。「学習会」も上からの一方的な意思統一の手段でした。それで、自分でものを考える個性が抑圧されてしまっていた。
 それに対する反省というのは、「レフト2.0」への転換のかなり大きなモチベーションだったように思うのですが、では「レフト2.0」がその問題を解決できたかというと、やっぱり裏目に出た側面はあったと思います。マイノリティなどの集団の自立や、小国の自立を強調した結果、その中の個性の抑圧を見逃してしまうのはその典型だったと思います。そして、「個人の自立を」というかけ声が、自己責任論に回収されて緊縮政策を支えてしまった事実もあったと思います。

 ブレイディさんは、日本の路上デモが雑談もせずに画一的にコールを連呼し、外の非参加者との間で全く混じりあわないことへの違和感を記しています。個人の自由への拘束を感じているわけですが、そのときにひきあいに出しているのが、日英の保育園の光景だというところに着目したいです。日本の保育園の演奏風景は、笑わずしゃべらず先生の指示どおりだったのに対して、英国では幼児が好き勝手やる中から「曲らしきもの」を作り上げて行くのだと言います。
 この本のいたるところで、著者と案内者がともに、状況に対して従順で自立なき日本人へのなげきを表明している様子が出てきて、個人の自立の希求はこの本のテーマのひとつみたいなものと言えますが、このときの「個性」というのが、あまのじゃくでアナーキーな幼児の個性と同レベルで論じられているところが重要なのだと思います。

 日本のリベラル派や左派、特に「レフト2.0」にはそうではない傾向がありました。この本の中に出てくるアムネスティの寺中誠さんの言葉によれば、「自己の意志で決定できる、立派な自立した近代的人間が、人権の主体になっている。そういう考えを現代まで引きずっている人は、いまだにリベラルのなかにもたくさんいます」(229ページ)、「そうなってくると、人権を持つためには自分の意志を持てとか、個人としての意識の高さが必要だとか、まるで自己啓発セミナーみたいになってしまう。」(230ページ)
 そう!氷河期時代に一番手強いゴリゴリのネオリベの若者を揶揄する言葉が「意識高い系」でした。

 このような考え方が、日本における人権意識の低さにつながっているというわけです。特に貧困者についてそうです。日本の生活貧困者は大人しいのにイギリスの貧困者は「獰猛」だと言います。イギリスの貧困者は、人が人としてあるだけで誰でももともとそなえている人権を意識しているのだと思います。

 このへんのブレイディさんの感覚はとても共感するのですが、この感覚は、単にイギリス経験が長いからというだけではない気がします。本の中でも、現在の水商売がとんでもないひどいブラックな労働条件になっていることと引き比べ、バブル時代の若かった頃に経験した水商売がとても恵まれた職場だったことが描写されています。やっぱり、バブル世代の感覚が全体に通底していることを感じます。
 これ自体10年ほど前になったかもしれませんが、日経の一面に、バブル時代の入社式の写真とその当時の入社式の写真が並べてあったのを覚えています。その当時の入社式の写真はみんな同じ服を着て真っ黒なのに対して、バブル時代の入社式の写真ではみんな色とりどり違う服を着ていました。バブル時代は、世の中時代が経つごとに、どんどん自由になっていくことを信じて疑っていませんでした。その自由というのは「レフト2.0」が考えるようなご大層な自由ではなくて、さしあたってはダンスパーティを開いてナンパしあうというレベルの自由です(私自身はその意味では永遠の「負け組」でしたけど)。それが世の中逆に動いていることにものすごく衝撃を受けたものです。
 やっぱり景気がよくないと個人は自由にならない!

 それからもう一つ。今の話と密接に関連したことなのですが、「レフト1.0」が行政による一方的な供給を目指したのに対して、それを反省した「レフト2.0」は、NPOや協同組合などの民衆による自発的事業の取組みを重視する姿勢を打ち出しました。この本でもそのような「グラスルーツ」の取組みの数々が出てくるのですが、それ自体に対しては、ブレイディさんの暖かいまなざしと心からのリスペクトを感じます。不況と緊縮政策、雇用流動化の中で、次々と犠牲になる人々が出てくることに直面し、やむにやまれず立ち上がって、地域に「どっしりと根をはって」、超人的努力で人々の暮らしを支える事業をしているスゴい人たち。読んでいるとこちらも深いリスペクトの念が起こります。「レフト3.0」はこの成果の上に立たないと始まらないと思います。

 しかし、この本がえぐり出しているのは、そうしたミクロな偉大な取組みが、マクロな変革につながっていないという絶望的な現実です。そのために、結局いつまでたっても超人の努力に依存してしまう。
 マクロな変革につながらないというのは、一つは、政策としてのサポートや解決のための政治運動につながらないということであり、もう一つは、各取り組みがタコツボを脱して相互理解と連携を広げていくということができていないということだと読めます。やはり、公的に潤沢に資金を使っていろんな意味で状況を改善していく政策追求と、特定の属性グループの価値観にとどまらない普遍性を求める姿勢が「レフト3.0」には必要なのだと思います。


 と、執筆しているうちに、ブレイディさんご本人からメールをいただきました。なんたる光栄。今年はどんな年になるか。安倍さんの作戦を考えたら恐ろしくもありますが、いい年になりそうという気持ちにもなりました。



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