松尾匡のページ

17年1月1日 新春書評:レフト3.0がわかる本(その1)



 あけましておめでとうございます。プラベートな急な事情のため、11月の初めから、毎週のように週末久留米の家に帰る日が続いていて、いろんなことが滞りがちです。周りのみなさんにはご迷惑をおかけしているのに、ご理解、ご協力をいただいており、感謝にたえません。ありがとうございます。

 このかん、10月23日のエッセーでお知らせした岩波さんの『世界』11月号に続き、文春さんの『2017年の論点100』、集英社さんの『イミダス』でも、拙論を発表する機会をいただいています。イミダスのは、バックナンバーがスマートフォン・携帯版imidasで読めるそうで、リンク先からお手続き下さい。
 また、11月3日初回放送で、「デモクラTV」の「池田香代子の「100人に会いたい」」でトークを放送いただきました。池田さん、スタッフのみなさんにはお世話になりました。
 10月29日には仙台で、宮城県保険医協会さんの会合で講演させていただきました。お世話になりました理事長先生、事務局のみなさんありがとうございます。

 11月16日には立命館大学社会システム研究所主催で、慶応大学の金子勝さんと私とをプロレスさせようというやくざな企画が、職場の草津キャンパスでありました。企画した同僚の先生に「和気あいあいとできたらいいですけど」と言ったら、「和気あいあいなんてダメだよ!バトルしないと!」とハッパをかけられ…(笑)。でも博識で弁舌さわやかな金子さんにかなうわけがないので、戦意ゼロで臨んだら、まあ、あまりやり合わないで互いの主張を言いあって終わったって感じでしたね。こっちとしては無事終わってほっとしました。懇親会もホントにそこそこ和気あいあいだったしね。
 金子さんには、お忙しいところやくざな企画のために遠いところまでお越しいただき、ご協力ありがとうございました。大勢お集りいただきましたみなさまにも深く感謝もうしあげます。流血を期待していたかたは肩すかしですみません。
 このときの講演用パワーポイントファイル「反緊縮時代の世界標準経済政策」を、本サイト「講演資料」のコーナーにアップしてあります。持ち時間40分と言われたので、コンパクトに分かりやすく作ったつもりなので、ぜひご覧下さい。拡散歓迎です。

 11月27日には、古巣の神戸で、主に社会主義協会のみなさんが中心の「ひょうご社会主義ゼミナール」で講演させていただきました。金融緩和マネーで財政をまかなう主張など、オールドタイプ社会主義者には一見刺激が強そうに思えますが、みなさん暖かく受け止めていただいて、ありがたかったです。
 上記の金子さんとの対論講演のパワポでも書いて、結局そこでは時間がなくて飛ばしたのですが、社会主義ゼミナール講演では、「レフト1.0」「レフト2.0」「レフト3.0」という話をしました。このときがこの話の初お披露めですね。実は社会主義協会の人たちは「レフト1.0」の色をかなり残しているので、かえってウケるという予感はありました。

 「レフト1.0」は70年代ぐらいが全盛。急進的なのはマルクス=レーニン主義を掲げて国営中央計画経済を目指したし、穏健派の社会民主主義は資本主義体制をちょっと改良した福祉国家を目指しましたが、どっちも結局同じ性質を持っていました。渦中の当事者にとっては、両者の方針はすごい大きな違いで、お互い相手といっしょにされたくないでしょうけど、後の「レフト2.0」と比べたら全く同じ本質があるということです。
 それはまず、(1)国家行政主導で「大きな政府」を志向するということです。そして(2)生産力拡大を目指すこと。特にマルクス=レーニン主義にとっては、「資本主義の仕組みは生産力拡大にとって、もはや障害物になってしまっているから、それを取り除いて社会主義の仕組みに変えることが、さらなる生産力発展にとって必要なことだ」ということが革命の理由付けになっていました。社会民主主義にとっても、高度な福祉国家を実現するために、生産力の発展は当然必要なこととみなされていました。
 さらに(3)労働者階級主義があげられます。マルクス=レーニン主義にとっても、雇われて働く労働者階級の階級闘争こそが革命の王道とされていましたし、社会民主主義にとっても、大きな労働組合がメインの支持基盤で、そこに結集した雇用労働者に恩恵を施すことが政治の第一の目的でした。
 最後に(4)「社会主義」を名乗る大国をひいきする傾向もあげておきましょう。世界中でソ連なり中国なりの共産党とそれぞれつながっていた各種マルクス=レーニン主義勢力が、それぞれの親分のいいなりになっていたことは言うまでもありません。しかし、社会民主主義政党の中にも、どちらかというとこれらの大国に甘い傾向がみられたことは否めません。

 これらの特徴が、1980年代ぐらいから行き詰まって批判にさらされていくことになります。
 (1)の国家行政主導ということに関しては、官僚的な非効率性とか、当事者の選択の余地のない画一性が批判されます。特に、ソ連東欧体制の崩壊で、そのことが強く認識されることになります。
 (2)の生産力主義については、生産力の拡大ならば保守側の方がよっぽどすごく実現してしまったじゃないかとされました。特に日本の自民党政権下の経済成長はそうですね。それにひきかえ、ソ連・東欧の社会システムのもとの生産力は足下にも及ばなかった。むしろ、そんな問題よりも、生産力の発展の結果もたらされた環境破壊の方がよっぽど問題ではないかと認識されるようになりました。
 (3)の労働者階級主義については、労働組合のマッチョな男性中心文化が批判にさらされたり、障害者や少数民族の問題に無頓着だったりした傾向が批判にさらされていきました。
 そして(4)の「社会主義」を名乗る大国をひいきする傾向については、中国軍のベトナムへの侵攻や、ソ連によるポーランドの労働運動への干渉やアフガニスタン侵略など、「社会主義」を名乗る大国による侵略が相次ぎ、やはり深刻な反省を迫られることになります。結局、東欧革命やソ連の崩壊が起こることで、いかに諸民族への力づくの支配がなされていたかが思い知らされたわけです。

 こうしてこれらの論点を反省して現われたのが「レフト2.0」だということになります。これは、70年代ぐらいから起こってきて、ソ連崩壊後の90年代に隆盛を極めることになります。
 これも、急進的なのはイスラムテロを容認したり、ディープエコロジーを掲げて田舎にみんな帰農して有機農法の小共同体を作ることを目指したりした一方、穏健派はブレア=クリントン流の「第三の道」を掲げて、ほとんど新自由主義と見まごう企業親和的路線を打ち出したのですが、実はどちらも同じ性質を持っています。やはり、渦中の当事者にとっては、両者の方針はすごい大きな違いで、お互い相手といっしょにされたくないでしょうけど、「レフト1.0」や「レフト3.0」と比べたら全く同じ本質があるということです。言うまでもなく、この最穏健派に位置するのが、日本の民主党政権だったと言えます。

 すなわちその特徴は、(1)国家行政主導に替えて、大なり小なり市場原理を利用することを志向します。その担い手として、民間企業に加えて、NPO・NGOや地域のコミュニティに期待することになります。そして、中央集権的な国家行政の支配をなくし、地方分権と、なるべく財政を使わない「小さな政府」が志向されることになります。
 また(2)生産力主義に替えて、全く逆の反生産力主義の傾向を持つようになりました。特に、エコロジー志向が反資本主義運動の重要なモチベーションになります。「もはや成長の時代ではない」「モノの豊かさから心の豊かさへ」等々が典型的スローガンになります。
 そして(3)の労働者階級主義に替えて、脱労組依存がスローガンになります。豊かになってしまった雇用労働者は、むしろ自らの豊かな暮らしを反省するべき存在で、それに替えて、移民などの少数民族、性的少数者、被差別身分、障害者、女性などの、差別されたマイノリティのアイデンティティを認めさせることに運動の力点が移ります。「多様性の共生」がスローガンになります。
 最後に(4)については、「社会主義」を名乗る大国による侵略と支配の現実を反省し、発展途上の小国の自立性を尊重することがスローガンになります。(3)の論点とも合わせ、アメリカ一極支配とアメリカ式物質文明の世界支配に抵抗し、発展途上国の独自の文化や価値観を尊重するべきだとされます。
 こうした志向は、一言で言えば「豊かさの上に立った豊かさ批判」であったと言えるでしょう。「レフト1.0」の志向が、貧しい労働者を救おうというものであったことからは大きく変わったわけです。

 ところが、こうして「レフト1.0」の行き詰まった点を一つ一つ反省してできた「レフト2.0」の論点ですが、その後、現代資本主義の猛威で中間層が没落し、長期の不況が続く中で、その一つ一つがすべて裏目に出てしまうことになります。
 (1)の市場原理の利用や「小さな政府」志向は、財政的保障が乏しい中で、行政がNPOや地域コミュニティを安上がりに利用することにつながりがちでした。そして、ドイツのシュレーダー社民党政権の雇用流動化政策に典型的に見られるように、しばしば企業ばかりに有利な競争強化政策がなされました。結局、搾取も貧困も新自由主義とたいして変らないじゃないかということになります。また、(2)の反生産力主義とエコロジー志向は、ゼロ成長をいいことのように見る論調をもたらしました。その結果、総需要拡大政策に後ろ向きになり、不況を長引かせ、失業問題を深刻化させてしまいました。特に日本についてそのことが強調されます。
 こうして新自由主義時代にもまして、低賃金で雇用が不安定な労働者や長期の失業者が大量に生み出されたのですが、その中で(3)の論点はどのように人々にとらえられたでしょうか。今や、先進国主流アイデンティティ層の、かつて豊かさを享受していた中間層が没落の危機に直面したり、あるいは実際に低賃金の不安定労働者や失業者になってしまいました。彼らはこの苦境を何とかしてくれと願っているのに、「レフト2.0」は「豊かさ」を反省しようと言って景気拡大に取り組まず、かえって財政縮小をしようとします。その一方でマイノリティの人々に対しては、中には既得権でいい思いをしている人や、エリートや資本家になった人もいるにもかかわらず、それがマイノリティだというだけで一律にひいきしているように映ります。そしてイスラム系などの移民コミュニティの中にしばしば見られる人権抑圧に対して、伝統文化を理由に無批判だったりします。先進国主流に対しては、同性愛への寛容を説き女性差別を批判して、伝統的価値観の変更を迫りながら、移民には伝統的な同性愛差別も女性差別も容認することが「多様性の共生」の実態だったりします。
 さらに、冷戦後、発展途上国の自立性を尊重する(4)の論点がもたらしたものは、ソ連の属国であった方がよっぽどマシな一層野蛮な国が続々現われたことに対して、何も言えないということでした。「レフト1.0」がソ連や中国に甘かったのは、それが「労働者の天国」であるかのように幻想を抱いていたからであり、現実を知っていたならば、昔の韓国であれインドネシアであれアフリカのどこかの国であれ、人権を抑圧する独裁政権に対しては厳しい批判的姿勢で臨んでいたはずでした。しかし、「レフト2.0」は、誰も幻想を抱いていない万人周知の人権蹂躙的独裁政権や人権蹂躙的因習に対しても、それがただ外国の発展途上国であるというだけで、口出しせずに放置する姿勢をとりがちだったのでした。

 こうしたことが、没落の危機を感じたり、実際に貧困に陥ったりした先進国主流派の労働者大衆から、「ヨソ者ばかり大事にして俺達は救われない」との反発を生み、「裏切られた」と感じたこれらの層の人々を続々と極右に走らせたのだと思います。日本の民主党政権の挫折とその後の党勢衰退、それと対称的な安倍政権の経済政策への期待と高支持率はその一環で、目下アメリカで起こっていることもその跡をたどっているだけだと言えます。社民党の福島執行部が一生懸命やってきたことは、時代に合わせなければ衰退するとの危機感を抱いて「レフト1.0」から「レフト2.0」への転換を推進し、その結果かえってますます党を衰退させただけに終わったことだったと思います。

 コービンさんやサンダースさんや欧州左翼党やポデモスなどの欧米左翼の新しい潮流は、こうした「レフト2.0」に対する左からの決別なのだと言えます。その姿勢は、国有化や財政出動などの「大きな政府」の復権であり、アイデンティティよりもむしろ労働者の階級的視点の復権です。そして、経済成長と雇用の拡大を追求するという意味では生産力主義の復権でもあります。
 そして、こうした姿勢が、新自由主義緊縮路線に痛めつけられた大衆からの支持を、今急速に集めているのです。特に、「レフト1.0」を知らない若者にとっては新鮮でウケているのです。

 すなわち、「レフト3.0」の時代がきたと言えます。
 これがただの「レフト1.0」への回帰に終わるのか、中途半端に「レフト1.5」に戻るだけなのか、それとも、「レフト2.0」の積極面を引き継いで総合した「レフト1.0」の高次元での復活になるのか、今後の動きを見守らなければならないでしょう。欧州左翼党にベネズエラ問題について致命的な欠陥があるように、ただの「レフト1.0」への回帰に終わる恐れも否定できないと思います。しかし、「レフト2.0」が世の中のどのような必然的な動きへの適応だったのか、そしてどのようにその適応を誤解したのかをちゃんと理解したならば、その積極面を正しく汲み取った総合は可能だと思います。私としては『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』で、それを考える道筋を検討したつもりです。

 さてでは、「レフト3.0」の主張は具体的にはどんなものなのか。このサイトでも、英語が不自由なくせにヘタな訳をしたりしていくつか紹介してきましたし、「ひとびとの経済政策研究会」のサイトでも、いくつかのウェブ上で公表されている文書の訳を掲載してきました。最新のものは、ローナーガンさんとジョーダンさんの「ひとびとの貨幣配当」という政策提言文書です。いわゆる狭義の「ヘリコプターマネー」ですけど、中央銀行が作ったおカネを全市民にばらまくという提案で、いかにそれが現実的なのかが詳しく検討されています。
 でも、本では読めないのかと尋ねる人がいるかもしれません。まだまだ十分に本にはなっていないのですけど、私の知っている数少ないものを、以下でご紹介したいと思います。


 まず最初はこちら…
ビセンス・ナバロ、ホアン・トーレス・ロペス、アルベルト・ガルソン・エスピノサ『もうひとつの道はある──スペインで雇用と社会福祉を創出するための提案』吾郷健二、海老原弘子、廣田裕之訳、ATTAC Japan(首都圏)編集、つげ書房新社、2013年、2500円+税
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 訳者のうちお二人が知り合いなのに、この本の存在は2016年になって初めて知ったんです。もうしわけない。もう2013年でこんな本が日本語で読めたとは。もっともっと知られていいはずの本です。

 南欧どこでもそうですが、スペインでも、新自由主義のEU当局が押し付ける緊縮政策が押し進められてきました。その結果、若年層はじめ大量の失業者があふれ、社会保障も教育も崩されています。貧困層はうなぎ上りになりました。しかもその担い手が、中道左派政党のはずの社会労働党の政権でした。あまりにひどい裏切りに支持者があいそをつかし、同党は選挙で負けて右派の国民党政権ができたのですが、そしたらまた輪をかけて過激な緊縮政策が進められて、事態をますます悪化させたわけです。
 そんな中、当時はまだ社労党政権の時代でしたが、2011年に「M15運動」と呼ばれる反緊縮の全国13万人の大抗議デモが行われました。この本は同年、その熱気の中で、世代の異なる三人の経済学者によって書かれたものです。もちろん、訳者の面子からも、ATTACの編集ということからもわかるとおり、バリバリの左派の人たちです。

【デフレ政策が雇用創出を邪魔した】
 ここでは、緊縮政策は経済危機を解決する唯一の道と称して押し付けられたけど、むしろ緊縮政策こそが経済危機を悪化させていること、そして、緊縮政策は新自由主義を遂行する手段で、大衆の犠牲のもとに国際金融資本に奉仕していることを明らかにしています。緊縮政策のもたらした不況と失業それ自体が、資本側の利益になっているのだということです。「失業があることによって、権力を持つ一部の社会グループが手にする利益があることである。」(98ページ)
 そして「この数年現実に起こったことで、雇用創出に明らかにマイナスとなるマクロ経済的な政策や条件が用いられてきたことがいとも簡単に確かめられた」として、生産的活動から資金を吸い取る金融所得の特権(要するに高金利のことでしょう)、福祉関係の雇用を抑制する社会支出削減、市場に対する大企業の権力の増加と並んで、「インフレを誘発するという口実で、賃金と支出の削減へ向かわせるデフレ政策の優勢」をあげ、「これによって、特に中小企業向けの有効需要が絶え間なく減少した」と批判しています。(113-114ページ)

【景気刺激策を実施せよ─賃上げと公共支出で】
 そしてこの本では、対案となる経済政策を提案しています。もちろん、金融機関への統制・国有化や富裕層・大企業への課税強化などが掲げられているのは当然のことです。
 それだけではなく、重要なことは、「脱成長」を説くのではなくて、「危機への応急措置」としては、「社会的富や健全な雇用、男女平等、環境への配慮を擁し、持続可能で新しい経済活動の成長を推進する景気刺激策を実施する」(240ページ)と掲げていることです。長期的にも、環境や再生可能エネルギー関係の研究などを基盤にした「協力的で調整された成長」(204ページ)が唱われています。

 そのために提唱されているのは、例えば、最低賃金引き上げなどによって賃金分配率を上げて内需を拡大することなどですが、特に、緊縮財政をやめて財政支出を拡大することは、この本のメインの主張になっています。「高賃金と公共支出の増大に基づいた、国内市場向けの成長モデルを作成する」(242ページ)

【財政赤字危機問題は新自由主義のプロパガンダだ】
 その際、何度も何度も強調されているのは、「財政危機」なるものは、新自由主義者が緊縮政策をおしつけるためのプロパガンダだということです。「個人の借金が簡単になり、奨励されることに誰一人として異議申し立てしなかった一方で、国家の借金に対してはあらゆる障害が設けられたのだ。/これは驚くべきことだ。なぜなら公的債務は個人債務よりも低リスクでより多くの富をもたらすからである」(38ページ)として、その結果が「スペインの経済をさらに不公平にしただけではなく、さらに非効率にもしたのだ」(同)と言っています。
 「…新自由主義者が再生させた(とはいえ、彼ら自身が政治を行う場合には都合が悪くなると尊重しなくなる)自由主義時代の流行思想「赤字への聖なる恐怖」は、必ずしも正当化されるものではないと信じている。長期的に必要であるため債務で資金調達することが合理的な投資というものが存在し、あらゆる経済が能率的に機能するためには不可欠な資本の提供を促進するうえで、持続的な水準の債務を維持することは常に可能である。」(176ページ)
「公的支出は経済成長のカンフル剤であり…、その削減は経済活動における減少を必然的に引き起こす。そしてこの減少は必然的に政府にとっての収入減となり、これにより歳出減は同時に歳入減となり、最終的には収入と支出の関係は変らない。」(177ページ)
「…疑わしいことに、債務の望ましくない性質や深刻な結果が強調されると、常に公的債務が問題になる一方で民間債務は問題にならないのだ。…公的債務が増大するとすぐに公的支出の削減が義務づけられ、できるだけ早期に回避すべき政府の悪性浪費のせいであるという考え方が広まる。」(184ページ)
「現在欧州で起きていることは、新自由主義的な考え方により、一般に債務の拡大が政府の責任であり、そのため国民一般にツケを回す形で債務を賄うべきだと各国民が信じていることである。」(185ページ)
 こんなことは信じてはならないというのが、この本の一番のメッセージなのです。

【財源は中央銀行が作って社会支出を増やせ】
 この本では、特に第五章「社会支出の不足という障害」で、福祉も教育も医療も住宅保障もまだまだ足りない、もっと公的におカネを使えと主張しています。そうすると雇用も増えます。スウェーデンと同じ割合で社会サービスへの公的支出がなされたら、スペインから失業を解消することができると繰り返し(108ページ、139ページ)述べています。出生率も高まると言います。

 では公的債務を膨らませていけばそれでいいのか。もちろん、さきに述べたとおり、富裕層や大企業の所得や資産への課税強化は提唱しています。でもそれだけで足りるのでしょうか。公的債務の増加は金融資本にとっての利益になってきたというのがこの本の見方です。だとすれば、民間銀行の手の中の国債が増えないにこしたことはないのではないですか。
 実は、この本では、リーマンショック後のスペインの公的債務の急増を確認したあと、次のように言っています。
「これほど急激な債務の増大を食い止めるオルタナティブは存在した。欧州中央銀行の的確な行動である。中央銀行は資金を直接各国政府に貸し出したり、各国政府と緊密に調整された合意を通じて欧州中央銀行自身が債券を発行したりすることができただろう。そして各国政府が公立銀行を保有していたならば、投資を続けて雇用を生むうえで資金を必要としていた企業への資金提供はこれほど困難ではなかっただろう。」(167ページ)
 つまり、欧州中央銀行がおカネを作って政府に貸せばいいというわけです。

 もちろん現実には、インフレを心配して各国の国債を欧州中央銀行が買い入れないために、緊縮財政が強いられています。これについては次のように批判します。
「ドイツの銀行も、ドイツの通貨マルクがユーロに代替されることを認めるための条件を押しつける段階で決定的な影響を及ぼした。その中の一つとして、欧州中央銀行の最大の目的が、銀行にとって常に最大の敵であるインフレの抑制であったが、それはインフレが進むと貨幣価値が下がるからである。そしてまた、欧州中央銀行が各国政府の債券を購入することを禁止し、各国が通貨を印刷することも、中央銀行への債券の売却の保証を得ることもできない継続的な緊縮財政のもとに各国政府を置いた。」
 つまり、インフレを恐れて中央銀行による財政ファイナンスを禁止したのは、銀行業界の利益のためだと言うのです。

 欧州中銀が直接国債を買うのでなければ、せめて間接的でもいい。「スペインの公的債務額がそれほど大きくないことを考えると、提唱される解決策は財政赤字を現在の水準に抑えるか、あるいはこの赤字を増大させて経済を刺激し、米国の連邦準備制度や日本銀行が行っているように、スペイン政府が発行する新規債券の一部を欧州中央銀行が買い入れることである。/こうすることにより、欧州中央銀行が年間でスペインのGDPの四%に等しい額の債権を今後二年間購入し、スペイン政府がこの期間増税や財政支出を行わない場合、粗債務額は増大するが、純債務額は増大せず、GDPの約四%もの財政刺激策(四〇〇億ユーロ以上)が二年間、歳出削減をせず、現在の課税基盤を維持したままで実現する。こうすることにより対GDP比での債務の割合は、大幅には増大しなくなる。/さらに、私たちが擁護し続けているこの刺激戦略により、将来の債務増(銀行にだけ好都合であることを思い出そう)に加え、スペインが現在直面している生産の喪失と高失業率の長期化により引き起こされる社会的・経済的費用も回避できることになる。」(190ページ)

【中央銀行の独立性はやめろ】
 そしてこうしたことを可能にするために、欧州中央銀行の「独立性」をやめてしまうことが繰り返し提唱されています。
「欧州中央銀行の独立規定に終止符を打ち、代議制権力のもとに置き、完全雇用の実現と人間の必要の完全かつ総合的な充足という役割にむすびつけなければならない。」(173ページ)
「欧州中央銀行が民主的管理の対象となっておらず、欧州議会に対して報告を行う義務を持たず、金融資本の利害に非常に有利な、名目的目標を社会全体の目標よりも優先するという非常にイデオロギー化した概念によってのみ導かれていることにより、この問題は悪化する。」(192ページ)
「欧州中央銀行は真の意味での中央銀行になるべきであり、現在のように民間銀行のロビーであってはならない。米国の連邦準備制度と同様に、インフレの制御と同時に経済活動の推進において責任を負う必要がある。具体的には欧州中央銀行が、完全雇用、経済や環境面での持続可能性、平等性に取り組まなければならない。そして当然欧州中央銀行に対して報告義務を負い、経済政策においてさらなる責任を負わなければならない。」(201ページ)
「欧州中銀基本法を改訂して欧州議会への報告を義務づけし、金融投機家による攻撃に際してはユーロ圏各国を保護する金融制度の枠組み内で、完全雇用、平等、福祉の維持を優先課題化する。」(238ページ)

【信用創造の廃止を】
 さらに掲げられている金融システムの改革案はなかなかにラジカルです。貯蓄金庫や、融資せずに経済危機でもうけた銀行の国有化を提唱し(171-172ページ)、政策銀行である「欧州開発投資銀行を強化する」(238ページ)とされている上に、銀行が融資によって貨幣を創造する「特権」を「問題の根幹」として批判して、「この特権を排除し、債務を通じた通貨創造に基づかない銀行制度に向けて進まなければならない」(172ページ)と言っています。「準備預金率の引き上げから始まり準備預金制度の廃止を目指す」(236ページ)とも書かれています。要するに信用創造を廃止するということです。(信用創造の廃止については、井上智洋さんの話題の新著『ヘリコプターマネー』でも提唱されていましたので、機会があったらこちらも書評して取り上げようと思っています。)
 他方で「経済活動への資金提供と融資を必要とする企業や市民への融資を保証する公立銀行を設立する」(241ページ)として、「公立銀行を通じて中小企業への資金融資を保証する」(242ページ)ことを提唱しているのですから、中央銀行の独立性否定と合わせれば、結局、銀行部門の私有を事実上否定し、金融を通じて産業全体の社会化を実現するというプランだと解釈できます。

【欧州労働者の連帯で人民のための欧州統合制度を】
 それからもう一点、注意すべきことですが、この著者のような立場は、一般に「反グローバリズム」「反EU」とみなされやすいのですが、必ずしもそうとは言い切れないということです。上記(4)の論点にかかわることなのですが、「レフト2.0」が国の自立性を尊重することを原則としていたこととは明らかに違う姿勢があるのです。
 たしかに著者たちは、スペインに独自通貨がないデメリットを指摘しています。「スペインが競争力を高めるために通貨の切り下げに関心を持っても、それは実現できない。そのため、スペイン経済の国際的な立ち位置が深刻な損害を受け、スペインの貿易赤字がさらに持続不可能なものとなっている。」(192ページ)
 また、205-206ページのユーロ離脱を論じている節を読んでみましょう。たしかに、現状のEUの政策を変えることができないならば、ユーロからの離脱しか方策はないとして、明確にそれをオプションの一つとしてあげています。
 しかし同じ箇所では、ユーロ離脱が膨大なコストを伴うことも認識しており、「ユーロが金融資本と大企業のみに仕えるのではなく、もっと良い別のものを提供しているとしたらどうなるだろうか」として、人々のためにきちんとデザインされた通貨統合のメリットも述べています。

 ではそのデザインの中身はどんなものでしょうか。各国が金融政策をとる手を失ってしまったならば、国ごとの景気の違いは財政を使って調整するほかありません。ということは、税金や財政支出の仕組みがEUで統一したものでなければならないことになります。そこで「欧州全体における経済活動の総合的推進に基盤を置く再調整機構が導入され、増大する一方の富の集中を防止することが不可欠である」として、税制の統一と「欧州財務省」が提案されています(200ページ)。それによって「税率引き下げ競争にピリオドを打つ」(238ページ)ということです。あるいは、金融取引への規制や賃金政策について、欧州全体で協力して調整することや、欧州レベルでの労資協定も提唱されています(201-204ページ)。つまり「反EU」どころか、一層の政治システム統合ということになるでしょう。

 これを実現するための著者達の基本的な立場は、EU全体の労働者が連帯することで、EUの支配システムを変えることです。
「ここで示されることは、たとえばドイツ人労働者とスペイン人労働者を競争させ敵対させる代わりに、中心諸国と周辺諸国の民衆階級の利害が合致することは可能であるということである。現実はまったく違うのに、ドイツの労働者は周辺諸国の労働者を助けており、周辺諸国の労働者の方が大きな便益を受けていると主張している。まさにこれら対立を生み出そうとしているEU、欧州評議会、欧州委員会と欧州中央銀行を制御している中心諸国と周辺諸国の支配階級の連合に対して、労働者の連合を成立させなければならないのだ。」(198ページ)
まさにその通り!

【多国籍企業に立ち向かう人民の世界政府を目指せ】
 この基本的な姿勢は欧州レベルにとどまるものではありません。全世界的に同様のことが志向されています。
 そもそも終章である第一〇章の「一一五の具体的な提案」の最初の節が「世界のガバナンス」です。そしていきなり最初のテーゼが、「国際的な私有企業グループの権力の相殺と削減が可能で、かつ異なる世界の構築も促進できる世界政府を創設する。」(234ページ)
「世界政府」ですよ!
 そして、世界銀行やIMFを解体せよと言っているのではない。後進国も正当な代表権を持つように民主的機関に改変しようと言っています(208-209ページ)。

【人権尊重や政治腐敗克服を国際的に義務づける】
 ここで注目すべきことは、経済についての国連の執行権を「世界人権宣言に即した決定内容」で要求したり、国際機関への加盟に際して、「世界人権宣言で定義された人権の尊重および実現」を義務づけるとしている点です(234ページ)。欧州通貨同盟への参加についても、「完全雇用のような社会的目標の達成や人権・社会権の普遍化などを義務づける」(238ページ)としています。
 また、「政府開発援助の効果を大幅に削減する問題である政治腐敗との闘い」(210ページ)とも言っています。
 つまり、「レフト2.0」が陥った上記(4)の論点の問題、発展途上国の人権抑圧や政治腐敗に口出ししない姿勢は克服されているわけです。

【貧しい国からの輸入に対する障壁をなくせ】
 貿易問題についても、単なる反自由貿易ではないということに注意して下さい。保護貿易政策をとればいいと主張しているわけではないのです。「貧しい国の商品の棚には北の豊かな国の製品があふれている一方で、豊かな国は南の諸国の流入に対して障壁を設けている。/たとえばEUは、砂糖の生産は最も高くつくが、他国をその保護の対象から外す補助金のおかげで、世界最大の輸出国となった。同じことが、以前は貧しい国が輸出していた多くの製品が、現在、自分の都合に合わせて利害を保護する大国によって支配されている。/豊かな国によるこの二重倫理は、何百万人もの人たちが貧窮化する主な原因であり、このため国際貿易を律している現行制度に終止符を打つよう要求する必要がある。」(213ページ)
 終章の提言でも「北側諸国が課した貿易障壁を即時撤廃し、先進国の産業部門や企業への支援・補助金を即時撤廃する」(237ページ)、「貧窮国と競争する部門あるいは企業へのEUからの支援・補助金を廃止する」(239ページ)とあります。この問題はホワイトバンド運動などでも取り上げられていたと思いますが、日本ではフェアトレードが熱帯産品だけでなくて大豆などの先進国でも作っている作物の取り扱いに乗り出した時、ちょっと論争になりかけたように記憶しています。結局あまり深められないままになっているような気がしますが、でもこの論点は、「レフト2.0」と「レフト3.0」を分つ重大なメルクマールになるのかもしれません。あるいは、新自由主義や「第三の道」への大衆の反発を基盤とする点は同じながらも、「レフト3.0」は極右とどこが違うのかの要点とも言えます。
 とどのつまり、この本の姿勢は単なる「反グローバリズム」ではないということです。グローバリズムの問題を論じている節のタイトルは、「新自由主義的グローバリゼーションを超えて」となっています(207ページ)。「新自由主義的」ではないグローバリゼーションは望むところなのだということだと思います。

【企業の民主的経営と協同組合の推進】
 それから、「都合よく民営化された大企業を再国有化する」(240ページ)など、あちこちで国有化が掲げられていて、「レフト1.0」の臭いを濃くしています。しかし、だからといって、NPOや協同組合などのサードセクターに着目した「レフト2.0」の視点が捨て去られたわけではありません。「企業の民主的経営と社会的協同組合を推進する欧州政策を制定する」(239ページ)、「労働組合と労働者が企業の経営陣に参加する共同運営のモデルを導入して、企業を民主化する」(242ページ)とあります。「農家および原材料の販売者による協同組合の設立を推進する」(242ページ)ともあります。
 サードセクターが着目されたのは、行政主導の官僚的非効率や画一的な押しつけを克服するためであり、もともと予算をケチるためではなかったわけです。だからこの志向を「大きな政府」路線と両立させることは可能なのだと思います。


 さて次は、
バーニー・サンダース『バーニー・サンダース自伝』萩原伸次郎監訳、大月書店、2016年、2300円+税
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 私の『この経済政策が民主主義を救う』を出して下さった大月書店さんが、どんだけ叩かれるかと思いきや案外受け入れられたので安心したのか調子に乗ったのか(笑)、サンダースさんの自伝を出しちゃいました。言わずと知れた、2016年アメリカ大統領選挙の民主党候補選びで、ヒラリー・クリントンさんを僅差まで追いつめたガチ左翼候補。アメリカではあり得ない自称「社会主義者」です。
 原書は1997年に出版された自伝に、2015年に「まえがき」と「解説」をつけたものです。だから本文では最近の話は出てきません。1996の下院議員選挙で共和党のスーザン・スウィツァー候補を大差で破り、四選されたことが最新のエピソードで、今となってはずいぶん昔のその選挙戦の模様を冒頭から間に挟みつつ、もっと昔からの自分史を時系列にそって語っているので、注意しないとちょっと時間の前後関係が混乱するところがあります。

 政治的内容はともかく、この本を読んで一番印象に残ったのは、地元バーモント州って本当にきれいなところなんだろうなということ。湖や山の光景が目に浮かびます。中でも市長を務めていたバーリントン市の描写は、人々もみな魅力的で、一度行ってみたくなります。そんな気持ちになるのも、サンダースさんが地元の自然と人々を愛し抜いているからだろうなという気がします。
 冒頭の監訳者の解説によれば、「サンダースが政治家としてのスタートを切った頃、ヴァーモント州は、アメリカで最も共和党が強い保守的な州のひとつだったという。それが今では、社会主義者サンダースが七〇パーセントの得票率で圧勝する州になっている」(6ページ)とのことです。なんでそんなことが可能だったのか。この本を読むと、粘り強く粘り強く具体的な顔のある有権者に働きかけ、その声に耳を傾け続ける姿が浮かびます。そして、地元の酪農家を守るための協定を実現し、癌登録制度を作り、化学物質過敏症の人のためにカーペット業界と闘い…と、無所属のはぐれ者議員でありながら、(しばしば保守派共和党議員も含む)同僚議員達と縦横に連携しつつ、具体的な有権者のニーズに応えて、一見ちまちました仕事をこなしていることがわかります。

 それでいて、いつも地元の特殊利益を超えた普遍性を貫いています。一部の大金持ちや大企業を向こうにまわして、常に庶民の側に立っています。それがブレない。そのことが有権者の信頼を獲得しているのだとわかります。
 下院議員になったばかりのときに湾岸戦争が起こりました。まだ地盤も盤石でないときです。大統領の判断を誉めたたえて戦争を支持する決議案に対して、圧倒的多数の議員が賛成し、マスコミが戦争を賞賛する中、サンダースさんは孤立無援の反対をします。これから選挙のたびにこの行為がつきまとうだろうと覚悟し、地元でもブーイングを浴びたと言います。
 しかし、この本では次のように言っています。「明るい話も言っておくと、その時期に発表された世論調査では、私の「好感度」がそれなりに高かった。ヴァーモントの多くの人々は、たとえ戦争に対する立場が私と違っていても、私が自分の信念を守っていることに敬意を払ってくれていたようだ。」

 ここに当時のサンダースさんが、空の議場に向けて反戦演説している動画があります。
空席の国会演説 バーニー・サンダース 1991年 (日本語字幕)

本当に何もかもその通りになったと、涙が出てくるわ!
 要は、人々の具体的な暮らしのニーズにどこまでも即した活動をちまちまこなしながら、決してブレずに信念を守る姿勢を示すならば、必ず人の信頼を獲得できるということですね。

 さてこの本から、「レフト3.0」が「レフト2.0」とどこが違うのかがよくわかる典型的な箇所を二箇所拾っておきましょう。サンダースさんは超ベテランで、むしろもともと「レフト1.0」の人なんでしょうけど、そのことがかえって「レフト3.0」への運動の進化にとってプラスに働いているのだと思います。
 要点は何かと言うと、「レフト2.0」は、アイデンティティで集団を分けて認識する傾向があります。「ウチ/ソト」です。「アメリカに侵略された国民/アメリカ国民」とか「黒人/白人」とか「女性/男性」とか「同性愛者/異性愛者」とかです。大企業べったりのヘタレたリベラルも、急進テロリストも、この図式は共有した上で、強者アイデンティティが弱者アイデンティティにどれだけ譲るかの程度問題で対立していただけと言えます。そして、アイデンティティを認めさせることが「解放」となります。経済的境遇よりもずっと大きなウェートが「誇り」にかかっています。
 この図式をそのままにしてこれに反発すると、白人男性のアイデンティティの「誇り」の「解放」を目指してトランプさんを支持することになります。
 それに対してもともと「レフト1.0」は、アイデンティティよりは階級で集団を分けて認識していました。「上/下」です。「資本家/労働者」「政治権力者/一般庶民」です。急進マルクス=レーニン主義者も穏健社会民主主義者も基本的にはこの図式は同じでした。そして、被支配者の暮らしのニーズが満たされること(あるいはそれが保障される体制)がゴールになります。
 「レフト3.0」はこの図式の復活だと言えると思います。

 まず、この本の313ページには次のように書かれています。
「それから、退役軍人の問題についての大会も開いた。私にとって重要性を増しつつある分野だ。…私は反戦議員だが、退役軍人を強く支援しているし、反戦活動家はみんなそうするべきだと思っている。/アメリカの戦争を戦い、アメリカの戦争で手足を失い、アメリカの戦争で病気やトラウマを抱えて帰ってきた若い労働者階級の男女は、自分たちが始めた戦争を戦ったのではない。戦争は、政治家が始めるのだ。政府のために命を危険にさらした男女が、いざ助けを必要としている時に、その同じ政府に背を向けられることがよくあるというのは、許しがたい非道だ。」(強調は著者)
 つまり、一般庶民の兵士を侵略の片棒をかついだとして非難せず、戦争の被害者として扱うということです。

 それから、362ページから363ページには次のようにあります。
「第一に、私たちは、人種差別、性差別、同性愛嫌悪を、その国から跡形もなく取り除かなければならない。すべての人にまともな仕事を提供し、若者により良い教育を提供することが、その取り組みの要になると私は確信している。リベラル派の多くは、ただ偏見に「反対」することだけが、公正で公平な社会の実現に必要なことだと思っている。それは正しくない。すべての男女が、アメリカ社会に居場所──それはまともな給料の仕事のことだと私は考えている──を持つようになって初めて、嫉妬と不安から生み出される憎悪を根絶やしはじめることができるのだ。そして、すべてのアメリカ人が、さまざまな侮辱に立ち向かえるだけの経済的ゆとりを持てた時こそ、アメリカ人は偏見から解放されるだろう。」(強調は著者)
 本当にその通りだ!何度も声に出して読みたいです。

 まあしかし、この本を読むと、大衆の貧困化の現実には、ほんと日本もこんな国になってきているなぁという感想が浮かぶのですが、それへの反発はトランプさん側に向かう道しかない現実が悲しい。内閣支持率は相変わらす高いし。「1兆ドルの公共投資で少なくとも1300万人の雇用を作り出す」(14ページ)というような、こんな「レフト3.0」のブレないガチ左翼政治家が日本にも出てほしい。

 「レフト3.0」がわかる本の書評は、あと少し続けたいのですけど、とりあえず一服。なるべく早く続きを書きます。後記:書きました。 (1月7日)



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