松尾匡のページ18年7月11日 白井聡さんの反論白熱講義
前回のエッセーで取り上げた白井聡さんの『国体論』の感想について、白井さんご本人からの反論をいただきました。それが、大阪労働学校のご自分の講義の一回をまるまるあてていただいたもので、あと二回かそれくらいしか残ってなかったと思いますけど、それはかたじけない。
いや何より、労働学校のHさん、学校の宣伝になってホクホクですな(笑)。
白井さんの講義(90分)は下記より聴けますので、聴いてみてください。
http://twitcasting.tv/roudouassocia/show/
「7/10白井聡の政治ラジオ」の三ファイルに分かれているものです。
私の書き方がうまくないのか、私が書評全体を通じて言いたいことへの直接のお答えはいただけなかった気がします。
「大衆にやさしくない」話は別にして、残りのところでの私の問題意識は、「日本を今のメルケル・ドイツのような悪い国にしてはならない」ということです。つまり、東アジア地域帝国主義を目指す動きに警戒しなければならないということです。私はここで基本的にそのことだけを終始言っています。
現政権にそうした志向があることは白井さんも認識しておられるとのことでした。それはよかった。「おまえの妄想だ」とか言われたらどないしようかと思った。ともに闘おう!
で、私は白井さんの本がこんな路線を志向していると言いたいわけではもちろん毛頭ありません。私が「現実に対米自立が実現したらどんな自立になる可能性が一番高いかということについて、怖い想定を何もしていないところが不満なところです」ともうした「怖い想定」とは、この、東アジア地域帝国主義の経済関係という「土台」に整合的な「上部構造」であるところの対米自立、つまりアメリカからの自立性が比較的高い独自帝国主義体制のことです。
白井さんはご自分も「怖い想定してますよ」とおっしゃって、「独自核武装」をあげられましたが、それを言いたいのではないのです。独自核武装は日本の独自帝国主義路線にとってセットで持ち出される可能性はとても高いと思いますが、今のドイツも核武装はしていないわけで、必ずしも必須のものではないと思います。私はここで、すぐ上で述べた地域帝国主義を目指す動きを指して「怖い想定」と言っているのです。
「階級的視点」という言葉で言いたかったことも、うまく伝わっていない感じがしますが、これも今の論点にかかわって言ったことです。
私がここで「階級的視点」と言っているのは、社会を見るときに、資本蓄積機能を担う人々と、他人の命令で働いて賃金をもらって生活する人々の間に、第一義的な利害対立を見る見方のことです。私がこれと対立させている概念は、国民を利害共同体とみなして、国と国との間に第一義的な利害対立を見る見方になります。もっと一般的には「階級的見方/アイデンティティ的見方」「ヨコで分ける見方/タテで分ける見方」などと言ってきましたが、ここの文脈では、国を利害単位とする見方に対する対語として「階級」を使っています。
だからここで言う階級とは客観的な利害関係のことです。「階級意識」というお話がありましたが、白井さんがおっしゃるとおり自分の置かれた客観的立場を自覚して「階級意識」ができるのですが、この際、しばしば階級的自覚の妨げになる大きな要因が、国民共同体意識なのだと思います。20世紀には国民利害共同体意識の根拠になりそうな経済的現実も多少あるにはあったと思いますが、それは今日日に日に崩れていっていると思います。
東アジア地域帝国主義路線を志向するエリートは、この路線が「日本の利益」だと言うはずです。極端には、日本がアメリカに食い物にされないためにはこれが一番なのだというような言い方をするかもしれません。これに対抗するには、いやいや「日本」などという利害共同体はありません、この体制で大資本は大もうけしますが、労働者はひどい目にあうだけですよと言っていかなくてはなりません。そのためには、国民共同体意識は払拭させる方向で努めるべきだと思います。
だから、「階級的視点が弱い」などと言って、勘に触る表現をしてしまったかもしれず反省するところですが、言いたいことは、『国体論』は「日本」という利害単位とアメリカとの関係が基本的な説明原理になっているということです。アメリカは事実上支配階級のことしか言っていないのでこれでいいのですが、日本は大枠の説明としては上から下まで損得を同じくしているように見えます。
この説明の場合、東アジア地域帝国主義の自立路線が力を増して「これが日本の利益だ」と言ってきた時、この論理だけで抵抗することは困難です。『国体論』に喝采した人たちのかなりの人が、内的葛藤なく自然にその路線を支持するということはあり得ると思います。やはり、自立は自立でも、地域帝国主義的な自立の危険性を示し、自分の望む自立はこれではないのだということを示す一文は欲しいところだったと思います。
天皇の「お言葉」の話もこの同じ文脈で言っていることです。白井さんは「お言葉」はひとつのきっかけにすぎないとおっしゃっていました。たとえきっかけでも、天皇の声に応答して、しかもその声が国民統合の仕事をさせてくれという声で、しかもその仕事が霊的な「祈り」である時に、現れる可能性が一番高いのは、やはり右翼ナショナリズムの運動でしょう。歴史のはずみがつけばそれが地域帝国主義体制を生みだす危険は杞憂ではないと思います。
天皇の「お言葉」に世の腐朽がここまできたのかということを感じるのはひとつの興味深い提起だと思いますが、それを実践につなげるような締め方は、なくてもよかったのではないかと思います。
なお、天皇が生前退位したければ「私の人権を認めろ」と言えばよかったという私の叙述に対して、白井さんは「では参政権を認めるのか」とおっしゃっていますが、私が日本よりももっとまっとうに人権が認められる国に遊びにいっても、参政権は認められないと思いますが、意に反する労役を課されない人権は守られると思います。あるいは参政権のない子供でも、意に反する労役を強制されることはないと思います。
ちなみに私はファーストベストは天皇制をなくすことだと思っています。「国民統合」も不要と思っています。でもヘタレの日和見ですので、セカンドベスト、サードベストと何段階も現実妥協を作る姿勢があります。現実には野党が政権をとっても宮中祭祀も御幸もとてもなくならないことは重々承知した上、でもおかしいんじゃないのと誰かが一言言うだけでも、それはいいことだと思いますし、天皇が必然的に持ってしまう政治力をちょっとでも削ぐような現実的対応を考えること自体は、必要なことだと思います。
ところで「大衆にやさしくない」話の件は、石原さとみネタをどうしても書きたいせいで入れたので本筋には関係ないですが、実は私たちの間の結構大きい哲学の違いのようなものを反映していると思います。いずれ将来、この件をめぐって白井さんから私に対する批判はあるだろうと思っていますので応答はそのときに先送りしたいと思います。まあ水掛け論にはなるでしょうけど。
もっとも、白井さんの読者までディスったような一文は書くことはなかったと反省。自分より売れてるのでヒガんでいるというツッコミネタとして読んでください。
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