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20年7月18日 大西つねきさんの発言をめぐって



※ 本エッセーは7月18日昼にアップしましたが、文中不適切な表現があることを同日夜ご指摘いただいたため、即時一時削除し、修正の上、翌日未明に再公開しました。委細は文末をご覧ください。

【つねき発言事件でショック】
 前回のエッセーで、山本太郎東京都知事選挙出馬によって、反緊縮運動における左派・リベラル派の影響力が減退し、極右的な影響力が増すのではないかという危惧を表明しましたが、それをアップしたあと、れいわ新選組のメンバー(当時)の大西つねきさんが、例の「命の選別」発言をしていたことを知り一気に気持ちが沈みました。この事件の結果、私の危惧した方向が、ますます進行したような気がします。
 何よりもショックなことは、れいわ新選組の支持者らしき人はじめ、反緊縮政策に理解があると思われる人たちの間で、こんなにも大西つねきさんを擁護する人がいるのかということでした。私のつたないネット技術で見る限り、反緊縮勢がつねき擁護し、反・反緊縮勢がつねき批判・れい新批判しているような印象で、それ以外は存在感が薄い感じがしました。
 それだから、れいわ新選組の立候補予定者で、私が代表をしている薔薇マークキャンペーンの事務局(念のために書いておくと、ここには共産党員も立民支持者もいて反緊縮だが特定政党に偏ってはいない)の大石あきこさんが早い段階で問題を指摘してくれたことは大きな功績だったと思います。遅れていたらどうなっていたことか。もっと手のつけられない大きな傷になったと思います。でもそのために大西つねきさんの発言の擁護者からたくさんのバッシングを受けているようで、これもまた心が沈む事態です。
 つねき発言が、反緊縮思想にもれいわ新選組の基本思想——「すべての人は生きているだけで価値がある」——にも、根本的に相容れないことは明白なことで、筋金入りの反緊縮の大石あきこさんがすばやく反応したことは当然のことと思いますが、中にはそんな彼女の反緊縮を「ウケ狙い」と疑う人もいるそうで、残念に思いました。彼女は、私の反緊縮経済理論を深いところから理解してくれている数少ない人の一人だと思っています。

【大西つねきさんの発言がどんなものでなぜいけないのか】
 大西つねきさんは私と同じく日本における数少ない政府貨幣論者で、これについての日頃の啓蒙・宣伝活動には常々心強く思っていました。れいわ新選組の経済政策も、大西さんがいるなら安心だと思っていました。それだけに今度の事態はとても残念です。
 一時は大西つねきさんも発言の撤回、謝罪をされていましたので、期待するところはあったのですが、残念ながら謝罪撤回されてしまって、開き直られては、「除籍」ということに至ったのは当然のことだったと思います。「構成員」のみなさんは、みんな傷ついて、お疲れになったことと思います。しばらくお疲れをいやしていただけたらと思います。

 大西さんの発言がどんなもので、何がいけないのかは、下記リンクの荻上チキさんのnoteをご覧いただければ、おわかりいただけると思います。つねき発言の動画の文字起こしが載っています。

大西つねき氏の「命の選別」発言の問題点(文字起こし付き)

 私は荻上さんとほとんど同じ意見ですし、大西さんの処分を報告した山本太郎さんの記者会見の説明ともほとんど同じなのですが、若干荻上さんの議論の繰り返しになるところもありますが、以下に私見を述べておきます。(山本太郎さんの記者会見で出たコロナの問題については、私の医療知識がないので保留します。)
 以下に述べることは、私、松尾匡の個人的な見解であり、薔薇マークキャンペーンの見解ではありません。薔薇マークキャンペーン事務局での議論は方向性として私と同じですが、対外的な意見表明となるには、今しばらく慎重な議論が必要です。
 また、私はれいわ新選組の外部の人間ですので、以下の見解はれいわ新選組の見解でもありません。

【トリアージや個人・家族の選択の問題ではない】
 まずおさえておかなければならないのは、トリアージとか個人の生死観の問題とかは、この議論とは関係ない筋違いな問題だということです。つねき発言の問題は、平時に継続的に維持される公的システムをこう変えようという話だから問題なのです。しかも、結局は個人の人権とか個人の願望を根拠にした話ではなくて、あからさまに労働制約を究極根拠にした全体論だから問題だという、このことがおさえられなければ議論がへんになると思います。

 ちなみにこのたびの騒動で、れい新支持者にも、財政制約を根拠にする人がいるのだとわかりましたが、これはまずもって入り口で、財政制約などないと説得することがれい新の役目でしょう。そこまで言い切っているところがれい新の反緊縮のオリジナリティなのですから、世の中に流布する命の選別論が結局ほとんどが財政制約を根拠にしている以上、それをちゃぶ台返ししないと何のためにれい新の反緊縮論があるのかわからなくなります。

 大西つねきさんはもちろん、財政制約などないということはご存知です。だから労働制約の話をされているわけです。これが、個人を超えた全体論的な理屈づけで政治が個々人の命を選別する話になっている点で問題なのです。

 だから、つねき発言を問題にすることは、経済的理由が(本音では)根拠で延命治療を断らざるを得ない家族や、医療資源不足でコロナのトリアージを余儀なくされた医療労働者を責めるものではないということを理解してほしいです。
 これらのことは緊縮をはじめとした貧弱な体制のせいです。だから、政治運動として公的に実現を訴えることは、まずは緊縮をやめろ、誰もが長生きしたくなる社会を作れと言うことです。しのごの言わずに政府が金費やして今のうちに人工呼吸器量産しろ、危険手当ていっぱい出して医療従事者をたくさん確保しろと言うことです。現状の貧弱な体制を話の前提にしてはなりません。
 肉親の延命治療を止めざるを得なくなった家族、トリアージを余儀なくされた医療労働者の、苦渋の思いは、みんなでその重みをシェアして緊縮への怒りに向けるようにめざすのが反緊縮運動だと思います。こんな現状でも現場の関係者が思い悩まずスッキリさせる方向に公的制度を向けようというのは反緊縮運動としてちょっと違うと思います。

 それから、つねき発言を問題にすることは、残された命を苦痛なく快適に生きるために、寿命が縮むリスクはあるけど緩和ケアを優先することを本人が選ぶことを否定するものでもありません。むしろ本当に当人にとって生きててよかったと思える丁寧なケアを実現するためには、単なる延命治療よりも多くの人手と医療資源を必要とする可能性があります。十分にそうした資源をつぎ込める保障があってこそ、本当の意味で個々人にとって自由な選択が機能できるのだと思います。大西さん流の労働制約の根拠づけからは、むしろこうしたことは根拠づけられなくなります。
 (17日の大西つねきさんの除籍後の記者会見でも、個人が「生きる質」を享受する自由の問題と全体論的な労働制約の問題の混同が見られましたが、労働制約を根拠にすると「生きる質」の充実にとっても制約になるということを認識しておられない気がします。)
 大西さんの根拠づけの問題は、そういう、個人の快適さとか人権とか尊厳とかのことにはないのだということに気をつけてください。上のリンクさきの荻上さんのnoteの文字起こしをよく読んだらわかります。

【「人は生きているだけで価値がある」の真のポピュリズム】
 なによりも、私は、山本太郎さんが常々語るれい新の基本哲学、「人は生きているだけで価値がある」という言葉は、非常に革命的な言葉だと思っています。どこが革命的かというと——
 普通の政治勢力は、新自由主義者もリベラルも、人格の所在を「理性」に見て、身体を理性の持ち物のようにみなします。そして、理性的にお金儲けを計算するとか、理性的に公共的なことを考えるとかを個人に課してきます。そしてその優劣で人をランクづけし、不遇な結果を自己責任扱いします。
 れい新はそうした押し付けに生きづらさを感じた人たちにアピールできたのです。それは、それに代えて、「生きているだけ」でも存在する生身の個人を人格の主人公にすえ、空腹の胃袋や筋肉痛の手足を変革の根拠にして、エリートの「理性」が作った強者の都合の押し付けに反逆したからだと思います。

 これが本当のポピュリズムというものだと思います。
 荻上チキさんの上のリンク先の文章で一つだけ全面的には納得できないのは、れい新のポビュリズム的側面を支える情念がこのような「命の選別」を合理化する危険を持つとされた点です。
 大西つねきさんの動画での言い方は、合理的な自分が政治判断して、生身の命を救うか救わないかを決めるということです。これはエリートの理性が支配して、生身の個々人のコントロールのきかない外から、生身の個々人の誰彼を損壊してくるということであり、ポピュリズム的情念が本来最も敵視してきた図式の極端な例と言えます。これを「犬笛」として出てきたいろいろな「命の選別」論は、やっぱり自分の方が情緒を離れて合理的だということを互いに競い合っている感があります。おそらく大西さんのこういう議論を、街頭の大観衆の前でしたら、大衆が熱狂するかと言うとしないでしょう。引くと思います。

 私見では、「人は生きているだけで価値がある」という姿勢は、「生きているだけ」でも存在する生身の個人を人格の主人公にすえているからこそ、たとえ一般に「意識」と呼ばれるものがない状態で生きている人でも、尊厳ある人格を持った権利主体として扱うことを要請します。その人の身体反応レベルの選択は、いわゆる理性的選択と優劣なく、最大限尊重しなければならないと思います。ここにはつねき流命の選別の入る余地はありません。

 そして、だからこそ反緊縮になるのだと思っています。
 緊縮政策とは、「生きているだけ」でも存在している生身の個人が損壊されるかされないかが、所得の大小や、総需要不足で限られた雇用にたまたまありつけているかどうかで、選別されるシステムです。それが、分別ぶった財政規律論のお説教で押し付けられるわけです。それに反対するからこその反緊縮です。
 私も多くの反緊縮派も、財政危機論は誤った幻想だとわかっています。しかし、たとえそれが間違ってなかったとしても、「財政」も「通貨」も、本来は人が生きていくためのツールとしての決まりごとにすぎません。それを自己目的にして、「生きているだけ」でも存在している生身の個人を犠牲にすることは本末転倒です。まずは、「生きているだけ」でも存在している生身の個人が、誰一人漏らすことなく「生きていてよかった」と言えることをめざすことが優先されるべきです。

【問うべきものは労働配分の選択】
 この立場は大西さんが指摘されている労働制約があったとしても変わるものではありません。
 将来的に、高齢化が進行することで、医療・介護などに人手がたくさん必要になり、それらの部門で必要になる物財の生産のためにも人手が必要になって、日本経済全体でどれだけの労働不足が発生するかという問題は、同僚の橋本貴彦教授と私が2030年について産業連関分析によって簡単な計算をしています。

高齢化時代における蓄積と社会サービスへの総労働配分と搾取:投下労働価値計測の応用

 ここでは、高齢者一人当たりの医療・介護サービスを2010年のスウェーデン並みにしたときに、必要となる総労働のうち約15.4%が,そのときに存在する推計総労働賦存量に比べて不足することをみいだしています。
 これは、医療・介護部門以外で、基準時点の2010年からの20年間で、年率0.84%の労働生産性の上昇があれば、医療・介護関連で必要になる不足分の労働は作り出されることを意味します。これまでの現実に照らして年率1〜2%ぐらいの労働生産性上昇はあるものだと考えれば、十分に達成されます。しかし、これは政策を考えるときに今あてにしていいものではないと思います。あえて労働生産性を上昇させる政策など、供給構造改革とかろくでもないものです。

 だとすればどうすればいいでしょうか。
 この場合、社会的合意をつけて選別されるべきものは大西さんの言うような「命」ではありません。どの分野の労働配分を減らすかということです。消費財を生産したり流通させたりする労働を減らすというのであれば、消費税を上げることになります。私たちは、日本の場合、固定資本形成(機械や工場などをつくること)のための直接・間接の労働配分割合が他の成熟先進国と比べて高く、民間のそれは高度成長期末期の1970年と変わらぬ約2割を維持し続けていることを発見しました。そこで私たちは、この労働配分割合をまず減らすことを提言しています。これは法人税を上げることなどを意味します。
 そのほかにも、労働配分を減らしていいと社会的合意をつけられる分野はあると思います。それが政府支出で維持されているならばその政府支出を削減すればいいし、そうでなければそこに税金をかければいいことになります。
 この計算は荒削りのもので、まだまだ改良が必要です。それに女性や高齢者の労働力化が、この計算で前提している政府の予想以上に進行することも考えないといけません。いきなり命の選別の話をはじめる前に、このような方向を考えていくことこそ必要なことなのだと思います。


※ 当初、文中、「たとえ大脳が全く機能しなくなった人でも、尊厳ある人格を持った権利主体として扱うことを要請します。もちろん殺してはならないことは健常者を殺してはならないことと同じです。その人の身体反応レベルの選択は、健常者の理性的選択と同等に、最大限尊重しなければならないと思います。」という表現がありました。ここで、大脳が機能する人を指して「健常者」という表現を使いましたが、「健常者」は「健常者/障害者」という対比の中で、上に立つグループという差別的ニュアンスのある言葉でした。したがって、無思慮にこの言葉を使うと、「障害者は殺してもいいのか」という大変恐ろしく差別的な意味で受け取られかねないことがわかりました。無思慮をおわびし、ご指摘に深く感謝いたします。大西つねきさんの発言が、差別・選別される側に痛みをもたらした問題をとりあげた文章で、同様にひとを傷つけることに気づかなかったことを大変恥ずかしく思います。

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