松尾匡のページ
10年8月20日 小野善康さんからお電話をいただいた件ほか

(※ 下記Apemanさんのエントリーの説明には誤解がありました。詳しくは次回エッセーをご覧下さい。)


 筑摩書房の編集者様から、新著についての自虐ネタ中止要請が来た...。すみません。
OΓ乙

 という話自体が自虐ネタですから...。
OΓ乙

 でもまあ、久留米大学法学部の児玉昌己さんからは、こんな好意的なご書評をいただきましたし。
好著のご紹介 松尾匡「不況は人災です」筑摩書房 2010年 上
好著のご紹介 松尾匡「不況は人災です」筑摩書房 2010年 下
ありがとうございます。おっしゃるとおり「愛の鞭」をふるってますことよ、ホホホ。自虐じゃありませんわ。

 また、地元のまちでブログを出していらっしゃる知り合いの飲食店二軒に拙著持っていって、紹介を書いていただきました。
「かっぱ洞」さま 本の紹介
「たこ姫」さま 出版おめでとうございます!
ありがとうございます。助かります。
 ということで、販売促進にも努力していますので、お許し下さいませませ...。

 そのほか、関学の鈴木謙介さんから、こんなご書評をいただいております。
6月と7月のいただきもの
ご紹介いただきありがとうございます。「中身はまっとうな本」だけど「伝え方」に違和感があるとのご主旨。
 本書が想定している読者は、不況を天災だと思っており、デフレってモノの値段が下がるからオトクじゃーん、と思っており、景気のいい悪いは自分とはあまり関係のない出来事だと思っている人だ。そんな人、いるのか?
とおっしゃっているのですが、残念ながらたくさんいらっしゃると思います。
 そのような人は、ご指摘のような「過剰に典型的なバカ」では決してありません。他の分野では非常に聡明な方々や、尊敬するべき実践をなさっている方々が、議論を交わすとこのような経済観をお持ちで当惑することが多々あります。
 特に、本書はいわゆる「左派」系が主たる想定読者で(そうでない人にとっても有益な入門書になっているつもりですが)、その世界ではなぜか、「経済停滞は受け入れるべき必然」とみなすドグマがかなり行き渡っています。それをなんとか解きほぐしていくのが目的だとご理解下さい。

 関連する話になりますが、id: demianさんが、丁寧なご書評を書いて下さいました。
完全雇用マニュアル入門編:松尾匡著「不況は人災です!―みんなで元気になる経済学・入門」
各章にわけて内容をご紹介下さったうえ、とても好意的な感想をいただいています。本当にありがとうございます。
 まあ、第2章の、「天井」の成長と、落ち込んだ経済を「天井」まで持っていく成長とを区別しようという話では、後者の成長は大事だけど、「天井」自体の成長はボチボチでかまわないというのが拙著の結論なので、「二つの経済成長はどちらも重要ですよね」というまとめ方は本の主旨からはちょっとズレるかな。まあ重要には違いないとは思いますけど。
 これは、「天井」の成長率(「潜在成長率」)を上げることが、デフレ脱却にもプラスになるかどうかという、ちょっと前に経済学ブログ界をにぎわせていた問題につながるので、ボクも一度まとめてみたいと思っているのですが、とりあえずここでは省略ということで。

 で、このエントリーに対して、歴史問題でブログ上で、尊敬すべき秀逸な仕事をされてきたid:Apemanさんが、次のような批判エントリーをあげました。
植民地支配も人災です
 簡潔な文章なので、目を通していただきたいのですが、いわゆるリフレ派の中にいる金子洋一議員が、「日韓併合は悪くない」的立場の言動をしていることに、demianさんが、言わば「連帯責任」を負わされているようです。
 Apemanさんは拙著をお読みではないということだし、ご批判は拙著に対するものではなくて、demianさんのエントリーに対するものでして、こちらとしては、これで騒動になって、id: rnaさんbewaadさんと関連エントリーも立って、拙著の売り上げにつながったようでワーイなのですが、demianさんには、拙著を一人でも多くの人に読んでもらおうと一生懸命書いてくださったせいで、こんな目にあってしまって気の毒な限りです。
 demianさんのエントリーでは、別に一言も金子洋一氏を支持することを書かれているわけでないし、ブログをご覧になったらわかるとおり、demianさんは歴史修正主義(日本の戦争はよかったみたいな立場)に反対だし、教育基本法改悪にも反対したし、基本的にApemanさんと同じ立場とお見受けするのですが...。
 ちなみに、Apemanさんの記事のコメント欄でいろんな人が言及されている「この人」というのは、demianさんのことではなくて、金子議員をさしていることが多いので、読者のみなさんは誤解のないようにして下さい。

 でも、リフレ派の中にはいろんな立場の人がいて、中にはけしからぬ言動をする人もいるでしょうけど、その責任を全部負わさせたらかなわないという気はしますね。「リフレ派」なんて集団はないと何回言っても、どうしてもリフレ派をカルトとみなしたい人もいるようですが、仮にカルトだとすると(笑)、「教祖」は間違いなく石橋湛山でしょう。リフレ派主要論客が思想的源流として、共通して崇敬している人ですから。
 ご承知のように、石橋湛山は戦前において全植民地放棄を唱えた人です。朝鮮独立運動に理解を示し、戦争に反対し、敗戦直後には靖国神社廃止を主張しています。このようなことを発想する思考様式から、リフレ論は自然に出てくるものです。金子議員のような人がこの点で例外で自己矛盾があるのだと思います。
 もっともリフレ論は、再分配政策の程度については、かなり幅広い立場のどれとも両立可能なので、社会保障嫌いの市場自由化論者が中にいることは不自然ではありません。濱口桂一郎さんが問題にしているのもそういうことでしたよね。(ただし濱口さんは、戦前の社会大衆党が、貧困者に冷淡なブルジョワハト派を敵視して、再分配に理解のありそうな軍部を後押しした歴史に同情的なので、Apemanさんとは問題の優先順位が違うはずですが。)

 しかしこの件についても、「弱肉強食の競争でこそみんながんばる」式のシバキ主義は、リフレ論とはあいいれない共通の敵だと思います。リフレ派の中にもそんなシバキ主義者もいるかもしれませんが、やはりそれは例外で自己矛盾がある。リフレ派主要論客が現実に過去やってきた最も目立つ業績は、「構造改革主義」に対する批判だったことはよく知られているとおりでしょう。
 「リフレ派」なんて集団はないのですが、これを言ったらリフレ論は出てこないという議論は確実にあるわけです。国際競争論だとか、ゾンビ企業退治論だとか、資金流入で好景気だとか。要するに、国ごとにまとまって、食うか食われるかの国どうしのおカネの取り合い競争をやっていて、これに勝ち抜くために生産性を上げなければならないという経済観ですが、これがリフレ論の発想が普及することへの最大の妨げとなっています。だから、このような「小泉的なるもの」──ナショナリズムに基づくシバキ主義は、リフレ派主要論客すべての批判の的でした。ナショナリズムやいわゆる「ネオリベ」と、リフレ論との内的な親和性は決して高くありません。

 Apemanさんや、コメント欄にお書き込みの仲間のみなさんのような方々にこそ、是非拙著を読んでいただきたいと思っております。私がそこで主張しておりますのは、左翼的価値観の望むことを実現するためには、不況の脱却は必要条件だということです。十分条件ではないかもしれないが、必要条件。
 失業が蔓延する中にあっては、雇われて働く人々は取り替えの脅威にさらされて、支配階級側の言うことを何でも聞かざるを得ない立場に追い込まれます。この中で連帯を形成することは莫大な労力がかかります。いきおい、人々は自分だけは助かろうと足を引っ張りあい、しわ寄せを外に向けようとします。だから自己責任論や排外主義の宣伝が非常に通りやすくなります。
 これは自然法則みたいなものです。
 労働組合の戦闘性が失業率と逆行することは世界的に知られた話ですが、試しに、日本のこのファイルの、労働争議による「労働損失日数」の1953年から2004年までの年次データの自然対数を完全失業率で単純に回帰させてみると、自由度修正済み決定係数が74.73%で、切片のp値が小数点以下45桁、失業率の係数のp値が小数点以下17桁の微小値で、高いマイナスの相関がたしかに観測されます。もっともこれはダービン・ワトソン値が低いので確証にはなっていませんが。
 また、このファイルの参議院比例区(全国区)の政党得票率のデータから、社会党(左派、右派、社民党)、共産党、労農党、社民連(社会市民連合)、革新自由連合、平和・市民の得票率合計の時系列データを、やはり完全失業率で回帰させてみました。ただし、1989年の「マドンナブーム」の社会党圧勝の選挙についてだけは、異常に得票率が高いのでダミーをいれました。すると、自由度修正済み決定係数が68.27%で、切片のp値が小数点以下11桁、失業率の係数のp値は0.00079で、やはりマイナスの高い相関が観測されました。これはダービン・ワトソン値もいいのですが、標本数が18個と少なすぎて本当は正確な分析とは言えないことにはご注意下さい。
 まあ、社民党や共産党が左翼かいなという根本的なご批判はおいておいていただいて(笑)、ともかく、失業率が高くなると世の中右傾化するというのは、私の乏しい知識の及ぶ限り、古今東西に共通する例外なき経験則だという気がします。
 たしかにリフレ左派の非力さのために、リフレが実現しても我々の望んだものは当面得られないかもしれない。しかし、それを求めるための闘いは今よりもはるかに容易になる。これは間違いないことです。

 ボクはあの本では陰謀論的なことは一切書かなかったのですが、労働力人口が傾向的に減少する現代にあっては、もし本格的な好景気が実現したらあっという間に人手不足になります。その結果、組織的にせよ個人的にせよ抵抗が効くようになり、支配階級が働く者に言うことを聞かせることは今よりも困難になります。また、支配層が人手不足を切り抜けるためには、一層の外国人労働力の導入や女性の社会進出などについて、日本の保守層のコア心情をゆるがす政治決断が不可避になります。
 それがわかっているから、支配エリートはそれを避けるためにわざと長期停滞を続けているという説明をする人がいてもおかしくないなとは思います。陰謀論は言わないというのは大原則ですけど。

 なお、Apemanさんご本人はそんなつもりはさらさらないのでしょうが、
なるほど、“不況は人を殺す”でしょう。そして不況に「人災」としての側面があるなら、亡くなっていたかもしれない人を助けることもできるでしょう。しかしそれが“いま1万人を助けるために50年後に10万人が死ぬ”という取引ではないという保証――とは言わないまでも見込みがあるという確信をどうやって手に入れることができるか?
ということを一旦おっしゃると、このお言葉を肯定する側の人によって、50年後の10万人を救うためには今の1万人が死んでもいいという意味に、たちまち一人歩きしていきます。スターリンも日本軍国主義も、「景気が回復すると改革する意欲がなくなってしまう」と言って「痛み」を押し付けた小泉さんも、みんな将来を理由にして現在の犠牲に目をつむり、最悪のシニシズムに至ったのでした。まさにApemanさんが重視する人権というものは、不確実な将来のために、目の前の現実の人間を犠牲にしないためにあるはずのものです。目の前で、まっとうな仕事がなくて生存することが脅かされている人々が、現実にたくさん出現していることこそ、最悪の人権侵害です。この問題へのシニシズムにつながりかねない言動には慎重でなければならないと思います。

 ともかく、リフレ派は組織でも派閥でもない上に、金子議員はリフレ派の中でもただの一ユーザーで、リーダーでもなんでもないのですから、リフレ政策に賛同することが金子議員の主張を許容することになるわけでは全くありません。別に自ら「リフレ派」と称さなくても、失業者をなくすために、多少のインフレはむしろ望ましいものと思って、無からおカネをどんどん作る政策を要求なさるならばそれでいいのです。その経済的なメカニズムについては、是非拙著をご検討下さい。
 まあ、たとえのために極端なケースを探したら、「一人一票実現国民会議」という札付きのワルが発起人に名前を連ねる会があります。一票の格差を正せという会で、最高裁判事の国民審査で一票の格差に合憲判断をした裁判官を不信任しようというような運動をしています。まあボクは無条件に賛成というわけではないからかかわっていませんが、左翼の中でこの主張に合意する人はいるでしょうね。実際、ネットを検索したら、左派系ブログとおぼしきところで、この運動にコミットしているものがいくつか見つかります。それを責めるべきかというと、ボクは別に責める必要は感じませんけどね。



 さて、膨大な答案を抱えながら、12日から14日まで家族とボクの実家に帰省して、帰省中も採点を続け、久留米に戻ってやっと終わったら、16日と17日は日田市で市民参加型観光まちづくりの調査でした。立命館の観光学の先生から、学部研究プロジェクトで九州に視察に行くから先進事例を手配せよと要望されたのでセッティングしたものです。結局こういう仕事から逃れられないのね。
 それで、帰ってきた翌日。菅総理ブレーンの大阪大学の小野善康先生から直々お電話をいただきました。
 小野さんは、飯田泰之さんにも同じように電話かけて説明されているみたいですけど、私のような下々にまで...。新著やこんな拙ブログまでお読みいただいているようで、恐縮でございます。

 小野さんのお話のひとつは、前回のエッセーでの「乗数」の問題です。小野さんは乗数という概念の批判をなさっているのですが、これは、上のリンク先の飯田さんのブログでも解説されていると思いますが、乗数が高いとか低いとかは問題ではないというのがご主旨です。たとえ世間で乗数が低いとされるような政府支出であっても、ちょっとでも人を雇えるなら意味があるからやるべきだとおっしゃりたいわけです。
 そのことはわかっていたのですが、関連はあるけど別の論点として、小野さんは、意味のない公共事業は、GDP会計上は全額GDPの増加になるけど、本当は何も生産を増やしていないのだとおっしゃっています。役に立った分だけがその増分にカウントされるべきだというわけです。
 これはご本人の意図としては、だから一般に乗数が高いとされる土建公共事業にこだわる必要はなくて、一般に乗数が低いとされる福祉のような政府支出でも効果は劣らないのだとおっしゃりたいために出してきている話です。
 ボクもそれはわかっている上で、しかし、どんな支出が価値を生むのかということを、経済学が客観命題として言っているような気がして、昔のマル経の「生産的労働/不生産的労働」の話などを思い出して気持ち悪いと思ったのでした。結局論者の主観でしかないものを学問的命題として押し付けることにならないかと危惧したのです。前回のエッセーではそのことを指摘したつもりです。
 しかし世間では、小野さんのこの乗数論をもって、景気対策としての効果が大きい政府支出と、その効果が小さい政府支出があるという主張と誤読した批判が多いようです。ボクの前回のエッセーも、景気対策の話の流れの中で不用意に書き加えたために、そのような批判をしているものと小野さんは受け取られたようです。そこでその誤解を解きたいとお電話を下さったようなのですが、ボクが誤解していたわけではなかったということでご理解いただきました。ただ、まぎらわしい書き方をしてしまったと思いますので、その点はすみませんでした。
 ただ、ボクが批判した点は、もちろん小野さんも自覚されていました。これについては、どんな政府支出が価値を生むかは、客観命題ではなくて、あくまで政治判断。民主主義国家においては、結局選挙を通じて国民が選ぶものだとおっしゃっています。

 それから、拙著210ページの註10で、小野さんが消費税増税は景気を悪くすると言っている旨書いてあります。前回のエッセーでも、小野さんがもともと消費税増税に反対されていたと書きました。
 が、これはその後撤回されたそうです。そ...そうだったのか!
 小野さんの昔の議論、ボクは非常にすんなり頭に入ったのですが、これは、名目貨幣額を物価で割って実質貨幣にするときに、消費税を上乗せしない物価で割ってしまったからでた結果だそうです。消費税を上乗せした物価でわったならば、いろいろ式がキャンセル・アウトされて、消費税であろうが所得税であろうが変わらなくなるということです。
 ボクは昔読んだとき、消費せずに貨幣で持つのならば、その分は消費税のことは関係なくなると思って、そこでのご記述がごく自然に受け止められたのですが、実は当時小野さんもそう思ってこれでいいと考えたそうです。しかし、貨幣を財何個分と認識するかは、当然消費税込みの物価で考えることのはずですので、実質貨幣は本当は消費税込みの物価で割らなければならなかったわけです。
 このことは、岩波書店の『金融』の第1版の124ページに書かれているそうですが、第2版では削ってしまったそうです。
 小野さんは、ボクが小野さんをどちらかというと擁護するつもりで消費税増税に反対していたことを書いたことはわかっていて、あえてこの話をしたわけで、その知的誠実さは尊敬します。しかし内容的にはちょっと残念に思いました。反論する力はまだないのですが。

 小野さんからはまた、浜田宏一さんのワルラス法則理解が間違っているというご指摘も受けました。
 ボクは間違っていないと思ったので、パティンキンのワルラス法則の説明で反論したのですが、小野さんはもちろんそれくらいご存知でした。しかも、それが置塩信雄のワルラス法則理解であることもご存知でした。そうした上で、パティンキン=置塩=浜田=松尾のワルラス法則理解が間違っているとおっしゃるのです。
 もしそれが本当ならば、『痛快明快経済学史』でのボクの説明は間違いということになって非常に困ります。そればかりかこれまでやってきた経済学理解が全部間違っていたということになります。ボクが大学院時代に神戸大学にいたマクロ理論の先生は、足立英之さんも中谷武さんもみんな間違いということになります。いやそもそも、そうなるとヒックスも間違いということになるんですけど。
 うーむ。これは話が大きすぎて手におえないわ。ゆっくり考えてみないと。

 最後に、インフレ目標政策が有効かどうかという話になりました。
 ここでかわした議論から、ボクの小野モデル理解そのものは間違っていないことが確認されたと思います。しかしそこからどんな含意を引き出すかが違っていました。流動性のわなのデフレ均衡では、貨幣供給を増やしても物価に影響することはできない──このモデルでは、その通りだと思います。そして、デフレ均衡と、一定率のインフレを織り込んだ完全雇用均衡の二種類の均衡があり得るとき、当初デフレ均衡の中にあれば、みんなその持続を予想するからその均衡が続き、完全雇用均衡への移行は困難である──これもその通りだと思います。完全雇用均衡になれば、貨幣供給増加率と同率のインフレが起こることを人々が予想してそれが実現できるのですが、デフレ均衡の中に一旦いると、どれだけ貨幣供給を増やしてもデフレの予想を変えることはできません。
 しかし、これは一時的な貨幣供給増大ぐらいでは駄目だということであり、「革命宣言」並みの政策の枠組みの転換によって、「せーのどん」で人々の予想を協調的に変えれば均衡の移行はできるはずです。インフレ目標政策というのは、そういう意味で単なる金融緩和から区別されて提唱されたものです。いわゆる「レジーム転換」というやつですね。だから、ボクから見たら、小野モデルというものは、単なる金融緩和では効果はない、「レジーム転換」を伴うインフレ目標政策でなければならないということを正当化するモデルに見えるのです。
 こうした読み方ができることは、小野さんも納得してくださいました。しかし、そんな困難なことをするくらいなら、政府支出を増やした方が簡単だし確実だというのが小野さんの意見でした。ボクはそれも否定しない。それもやったらいいですねと答えました。
 なおついでに言えば、これはそのときには言うのを思いつかなかったのですが、小野さんが政府支出増大を提唱するのは、上記リンク先の飯田さんの説明にもありますとおり、労働市場の需給を締めることによって、貨幣賃金率を増加させ、物価上昇を引き起こすためです。このモデルではこれは合理的で正しいです。しかしだとしたら、最低賃金引き上げのスケジュールを示すことも同じ効果になるのではないかと思いました。

 それと、流動性のわなでは、金融緩和の効果はとても小さいということは一致しましたが、ボクは金融引締めをすると悪影響がすぐ出ると言ったのに対して、小野さんはそんなことはあるものかとおっしゃいました。引き締めの効果も緩和の効果も同様にゼロのはずだとおっしゃいます。
 議論するうちに、ここにも、ワルラス法則理解の違いが横たわっていることがわかりました。
 私たち二人とも、流動性のわなというのは、実質貨幣保有が増えた時に実質貨幣需要をどれだけ増やすかという割合が1になっている事態ということで認識が一致しました。このとき、貨幣供給を増やすと、貨幣需要も同じだけ増えるので、事態に何の影響も与えないということになるわけです。
 しかし、厳密に言うならば、貨幣市場均衡式における、貨幣供給である貨幣ストックと、貨幣需要関数に入る貨幣ストックとは、時点の違いがあるはずだとボクは考えます。貨幣需要関数に入っているのは、期首人々が持っていた貨幣ストックであるのに対して、貨幣供給となるのは中央銀行がその期に増やした分が入るはずだからです。だとしたら、その差の分が市場に影響するはずです。貨幣供給そのものではなくて、その変化が影響するのです。
 すなわち、ゼロ金利に至るまでは、中央銀行が毎期貨幣を増やし続けることによって、均衡GDPを落ち込ませずに一定に維持することができます。しかし逆に、貨幣供給の増加をちょっとやめたら、すぐに利子率が上がって産出が落ち込むわけです。
 これに対して、小野さんは、ストック変数に時点の違いをつける発想が、ヒックス=パティンキン=置塩=浜田のワルラス法則理解であり、間違いなのだとおっしゃいます。どうやらいろんな認識に影響する重大な問題であるようです。

 あと、流動性選好をいきなり効用関数に仮定するのではなく、内生的に導いたらどうなるかということを申し上げました。『一般理論』の「流動性選好」にはいろんなことが含まれていますが、はっきり重視しているのは、将来利子率が上がるかもしれないから怖いので債券を持たず貨幣で持つということです。これをモデル化したら、遠い将来まで金融緩和が続いて利子率が上がらないことが見込まれたなら、流動性選好が弱まり、流動性のわなから抜け出せることが示されるはずだと申したら、小野さんは同意して下さいました。しかしそれよりは財政政策の方が早くて確実だということでしたけど。

 小野先生には、とても丁寧に議論していただき、すごくエキサイティングな楽しい時間を過ごすことができました。とりあえず前回のエッセーには補足をいれて、拙著の註の件については、本サイトトップページで知らせておきます。



 そういえば、今、大学院時代の神戸大学の話をしましたが、大学院時代にゼミや講義で計量経済学を学ばせていただいた斎藤光雄名誉教授が、8月4日、逝去されました。83歳ということです。つつしんでご冥福をお祈りもうしあげます。
 新著献本しましたもので、筑摩書房の方に奥様から連絡があったことを先日聞き、ショックを受けています。
 先生は、計量経済学を創始してノーベル賞を受賞したローレンス・クラインに師事し、日本における計量経済学の確立に大きく貢献されました。理論・計量経済学界(現・日本経済学会)の会長を1991年度に務められています。
 先生からは、当時の基本的な計量経済学の技法を習ったのは言うまでもないことですが、計量分析に乗せる前の「技」の大事さを学んだことが大きかったと思います。実証すべき本質的な変数間関係を狙いすまし、誤差の系列相関や多重共線性を避けるために、理論に基づき変数変換を繰り返して、なるべく少数の独立変数にして分析に乗せるとか、適切な代理変数を加工するとかといった職人芸。どれだけ身に付いたかはなはだ心もとないのですが、心構えだけは染み付いている気がします。
 いつか学恩に報いるひとかどの実証研究をお見せしなければならないと思いつつ、ついつい諸務の後回しの理論研究の、これまた後回しになってしまい、ついにできないままになったことが悔しくてなりません。
 私は理論家ですので、自覚しなければついつい頭から天下り的にものを考えてしまうくせがあります。そうならないよう、常に現実をふまえるべく、少なくとも自戒だけはしているのは先生のご指導の賜物です。先生はいつもとても人当たりが柔らかい方なのですが、ただ一度、「保証成長率という概念は形而上学的で実証できないのではないか」と漏らしたとき、厳しく叱られたことがあります。理論で取り上げている以上は必ず現実に実証できるという信念を持つべきであり、そうでないならば理論で主張するべきではないというわけです。そのことがずっと思い出されます。どこまで言われたとおりできているか心もとないですが、いつも心がけだけはするようにはなっています。


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