松尾匡のページ

14年5月3日 執行残も貿易赤字も雇用拡大を止めない



 ひと月以上エッセー更新が止まりました。このかんに、新年度にあわせて九州から京都市内に単身赴任で引っ越してきて、生活が一変しています。
 やっぱり片腎臓になったせいか、自己暗示にすぎないのかわかりませんが、かなり疲れやすくなった気がして、引っ越し作業やその後片付けは思った以上に手間取りました。そこに、波状攻撃で仕事が入ってくるのでとても自分の個人ホームページを更新する余裕はなかったのです。

 ちょっとこのかんのことを思い出してみると…
 前回のエッセーで、3月17日に退院して22日の卒業式に行ってきたまでは書きましたが、帰ってから、息子と自分の引っ越し準備が始まったわけです。といっても、この段階での主な仕事はこの十何年に溜まった(ものによっては三十年来の)書類を要るもの要らないものに仕分けることでしたけど。

 そんな中、ひっこしの準備は疲れるわりには全然進まないけど大丈夫だろうか。…とか言ってハラハラしながら、3月28日の経済教育学会でシンポジウムのパネリストを頼まれて、三重大学まで行ったのであります(富山大学大坂洋ブログの宣伝記事)。
 消費税の増税を控え、税教育をテーマにした研究集会でした。立派な教育実践や調査報告を聞かされて、こっちとしては感心して畏れ入って聞いているほかない気持ちなのですが、水を差すようなことを言うやつを一人入れたいという主催側の意向で自分が選ばれたようなので、仕方ない。デフレ不況のときは無からおカネを作って財源にすればいいんだとか、現在世代に課税したらその分将来世代が手にする遺産が減るので、一世代全体をまとめたら、課税を将来世代に延ばしても世代間負担は変わらないとか、場を壊すような水をたくさん差してきました。いや…あのぉ〜やりたくてやってるんじゃないからね。
 家計のやりくりや企業の経理は誰でも常識的にわかるけど、一国の税や財政の問題は、その気になればおカネが自由に増減できて外的制約にならないので、生産資源の配分のあり方の問題としてとらえないと本質がつかめない。これこそ経済学教育をしないとなかなか理解が難しい論点である──というのが、真面目に強調したことです。まあ、おもしろがってもらえたみたいで幸い。

 この帰途、大学で家から研究室に送った本・書類を搬入したり、京都で消費税増税前駆け込みのラッシュ中、家電・日用品の注文をしたり、息子の進学先の岡山に行って引っ越し片付けを手伝ったりして、月末帰りました。

 それから怒濤の肉体労働だ。
 実は入院中寝ころがりながら、このエッセーコーナーに書くエイプリルフールのネタを考えていたんですけどね。脱原発集会アイドルの藤波一本化を主張して制服向上委員会に降りろと言うやつ。「勝てるアイドル」とか言って。…何にや!AKBとかモモクロとか。…ダブルスコアどころやないわ!
 前回のエッセー書いてからは、そのもじりで、藤波・制服向上委のDVD購入額の差とキモオタ度の相関を示す散布図を作るとか、脱原発集会に行くかモモクロの公演に行くか迷っているという証言とかも思いついたんですけどね。
 で、オチは「ノーサイド」。
 実際にはそんなクダラナイものを書いている暇はもちろんない。引っ越しシーズンということもあって、授業開始に間に合わせるためには、四月頭のうちに業者に引き渡しておかないと。
 大量の本・書類と必要限度の衣類を詰めて送り、自分と息子の大量の不要品の山を運び出したら、感慨にふける暇もなく夜中に上洛だ。
 翌日家電・日用品と引っ越し荷物が相次いで届くのを搬入し、翌朝何よりの優先事項のインターネット開通。午後教授会で、翌日から授業。そして授業が始まった中で引っ越しの片付けの肉体労働が続いたのであります。

 結局数次にわたる本棚の追加注文の末、新居の本がとうとう片付いたのが19日日曜日。
 よし、これから4月のシノドス連載の原稿を書くぞ、と締め切りを確認したら「21日」となっている。書けるわけないやん。
 編集者さまに泣きついて一週間延ばしてもらい、なんとかぎりぎり4月末日に掲載してもらえたのであります。
なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1:シノドス連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

 今回のテーマは「ベーシックインカム」。
 私はこのエッセーなどでずっと「基礎所得」と書いてきましたけど…。
 このところ何でもカタカナ語にするのが目につきますが、私はできるかぎりそういう言い方は避けるつもりできています。日本には「女王様」という素晴らしい言葉があるのに、なぜわざわざ「ミストレス」と別に、ナショナリズム的心情のためでは決してなくて、お年寄りとか、英語を知らない人はたくさんいますから、そういう人にも一見でだいたいの意味は直感できるようにすべきだと思うのです。
 でもいつのまにか「ベーシックインカム」でずいぶん通用するようになったので、結局大勢に合わせるようになったヘタレの私であります。OΓ乙

 26日夕方に原稿を送信したら、その晩は風呂に入る気力もなく、11時間睡眠になったのでした。このところ、毎晩深夜になると眠くてどうにもならなくて寝るので、それほど睡眠不足ということはなかったはずなのですけどね。
 翌日から、残る課題の研究室の本の片付けに取りかかり、28日に完成したときには、「市民諸君、革命は終わった」という、ナポレオンの勝ち誇った言葉が頭に浮かんだのです。


 ともかく一人暮らしが始まったぞ。これからは、今までよりちょっとは研究できると意気込んでいます。
 早速、学内で週二回のドブリューの一般均衡の教科書の読書会と、学外で月一回のケインズの『一般理論』の読書会を設定しました。

 新居は京都の市街地のわりと通勤に便利なところにあって、古い4階にある2Kの物件の一室を書庫に使って一室で寝起きしています。ベランダから大文字山が見えたりして極めて快適なのですが、とても安く借りることができて周りの人がみんな驚きます。かかりつけ医が近くにあるところということで探したのですけど、鍼灸院まであって(このかん肩凝りのために通っていた)、外食とかコンビニとか24時間スーパーとかいろいろ近くにあって困ることがなくていいです。
 何よりいいのは、銭湯がごく近くにあることで、毎日のように入りにいっています。

 きのうからは、息子と石川県の実家にきていて、今実家で書いています。これまで赤点とりまくって、じいさんばあさんに心配かけてたから、無事大学に入った顔を見せないと。
 連休明けには、某学術雑誌(英文)の投稿論文の査読の締め切りがあるのですけど、英語が不自由なくせにまだ読みはじめていません。大丈夫か自分。弟子が連休明けまでに投稿すると言う論文も目を通さないといけないし。
 そのあとには、別の雑誌の査読も待っている。これもけっこうめんどうなんだよねえ。
 5月末には、経済理論学会の幹事会で上京するのにあわせて、また朝日カルチャーセンターで公演します。
「ケインズの逆襲」申し込みページ
(学生向け申し込みページ)

 この準備も早めにしておかないといけませんね。下旬には次のシノドスの原稿も出さないといけないし…。

【人手不足進行しブラック企業タジタジ】
 さて、カミさんの知人が派遣で働いているのですが、もっと条件のいいところに移ろうと応募出してたら、あちこちスイスイ面接まで行って、結局めでたく決まったとのこと。去年も同じように応募出しまくってたのですが、有能な人なのに当時はどこからも門前払いされていたそうです。それと比べると一年で大違いだって。
 別の知人は逆に採用担当の部局で働いているのですが、採用が決まった派遣さんが、もっといい所が決まって三人も辞退したそうです。こんなことは今までなかったことだと。

 そんな話を聞いていた矢先、なんとこんなニュースが…
【衝撃】すき家が次々と「人手不足」で閉店… 実際に働いているアルバイト達の悲痛な声をご覧ください:NAVERまとめ
ワタミ、人手不足解消へ60店閉鎖 居酒屋の1割 :日経

 牛丼「すき家」の話は、2月から新規導入した「鍋定食」が時間と手間がかかりすぎ、従業員が続々辞めてしまって閉店が相次いでいるという記事。「ワタミ」の話は、離職率が高いのを改善するために、店舗の1割を減らして、人員を集約することにしたというニュース。すっかり「ブラック企業」の汚名がついてしまっているワタミさんですが、とうとうこんなことに追い込まれているとは。
 これまで不況の間は、辞めても代わりの職が簡単には見つからないから、いくら過酷な職場でもしがみついているしかなかったのですね。それが今や事態は一変しつつあるわけです。

 そんな中、賃上げの動きが非正規労働者にも広がっているという報道がされています。そこで、大手の人材派遣業者は、派遣料金を3〜5%引上げる交渉を顧客企業としはじめているということです。「日本経済新聞」の記事ですが。
賃上げの波、非正規にも 派遣大手が顧客に料金上げ要請:日経


 厚生労働省からは5月2日に、3月までのハローワークでの求人、求職状況が発表されています。2月、3月の求人数が頭打ちになっているところは心配ですが、求職数は順調に下がっていて、昨年11月以来、求人が求職を上回っています。求人倍率は順調に上昇中です。厚生労働省のホームページのグラフに直リンクをつけておきましょう。
求人・求職推移140502発表

 マスコミなどでは、「景気回復の実感はない」と決まり文句のように言っていますけど、そんなふうにおっしゃる人はたいてい、もともと安定して、比較的まともな賃金の職の人なんですよね。過去20年の「改革」不況で最も苦しんできた層の人たちの間では、明らかに事態が動いています。
 「実感はない」派の人たちは、景気回復がコケて安倍さんに失脚してほしいあまり、現実から目をそむけているのかもしれませんが、今後、景気回復を否定するようなことを言えば言うほど、私たちが最も依拠すべきこうした層の人たちを、かえって安倍さんの側に追いやる結果になるでしょう。

 不安定就業の人たちだけでなくて、正社員も人手不足になってきているようです。厚生労働省の三ヶ月ごとの労働経済動向調査ですが、2月の調査では、「労働者過不足判断DIは、正社員でプラス22と2008年2月調査以来、6年ぶりの高い水準だった」とのことです。もちろん、パートはもっと人手不足で、同DIは「25と前回調査から3ポイント上がり、6年9カ月ぶりの高い水準となった」ということです。
正社員「不足」が6年ぶり高水準 2月、厚労省調査:日経

 先日の鹿児島補選も、与党過半数票の大勝でしたしね。歯止めない解釈改憲とか、反対世論の方が大きいのに、今のままでは何回選挙やっても安倍暴走を止められませんよ。そういえば、職場のある滋賀県の嘉田知事は7月の知事選挙に出ないそうで、後任は今の民主党では勝てる見込みは薄いですねえ。滋賀県知事まで自民党の手に落ちると思うと気持ちが沈みます。一言「この景気を後退させない!」と言いさえすれば止められるのに…。(追記:幸運にも予想ははずれました。14年7月14日)

 もちろん、何度も言いますが、消費税増税の景気引き下げ効果は大きいです。その点での政府批判は大いにすべきだと思います。夏が近づいてくると、だんだんマイナス効果が目につき出すかもしれません。
 しかし、相手は改憲で歴史に名を残す野望に燃えた人です。来年の参議院選挙を同日選挙にして、(次回参議院選挙は16年7月でした。大変初歩的で重大なミスをお詫びいたします。14年7月14日)公明党抜きの自民党単独でも圧倒的多数の議席を勝ち取ってやろうと企んでいると思います。消費税増税で不況に戻って票を減らすわけにはいかない。あらゆる景気対策をつぎ込んでくると見るべきでしょう。
 ひどい低賃金も不安定な雇用も、最初からこんなものと思っていたら我慢できたかもしれません。しかし一回浮かび上がったら、また沈むことはとても耐えられないことです。こんなときに、我々の側が最もすべきでないことは、景気対策におカネを使うこと自体を批判してしまうことです。それをやってしまったら、不況で苦しんできた大衆から、決定的に見放されてしまうに違いありません。(政府支出の振り向け先に対する批判をするならいいですが。)
 どんな質の雇用かはともかく、これから景気は拡大し、雇用は増える──本気で改憲を阻止して戦後民主主義を守りたいならば、これを前提して闘いを組み立てないと怖いですよ。

 そう言うと、消費税以外にも景気の先行きに疑問を抱かせる材料は色々あるぞとおっしゃるかもしれません。今回はちまたでよく聞く典型的なのを二つ検討しましょう。


◆公共事業の執行残で景気は止まるか

 今、公共事業で人手不足が起こっていて、執行残がたくさん出ていると言われます。需要超過で資材の値段や人件費も上がっていますから、業者が公共事業を受けるときの金額もつり上がっていて、同じ予算をかけても実際にできるものは少なくなっているようです。このために、予想していたほど実質GDPは増えていないとの指摘がなされています。
 しかしこのことだけでは、景気がコケてしまう原因にはならないと思います。それどころか、私たちにとって望ましい好況に近づけるためには、かえっていいことかもしれない気がします。

【将来の労働配分から見て望ましい財政出動は?】
 将来、景気対策が効を奏して完全雇用が実現された暁に、世の中全体のいろいろな仕事にどのように労働配分がなされるのが望ましいかを考えてみて下さい。
 高齢化が進んでいきますから、福祉や医療にもっとたくさん労働が配分されなければなりません。人手が足りなくて女の人にももっと働いてもらわなければならないので、そのせいでますます少子化することのないように、子育て支援の関係にもたくさん労働が配分されなければなりません。そして、その他の消費財も、人々の暮らしを直接豊かにするためにもっと必要でしょう。これまでは不況でしたから、健康に悪い食品や、環境によくない消費財や、安い大量生産品しか買えず、文化的なことにおカネを費やす余裕などない人たちがたくさんいました。このような人たちが、もっと健康によくて、環境に優しくて、文化的に質の高い生活をしようとしたら、やはりそういう生産部門に、今よりもずっと多くの労働が配分されなければなりません。
 限られた労働人口の中で、これらのことに人手を十分割くためには、他の労働配分の割合は減らさなければなりません。労働人口は成長しないわけですから、機械や工場を純増させる必要はありません。だからこれらのものを生産するための労働配分は少なくていいわけです。また、道路や橋等々の公共設備はこれから老朽化していきますので、それを作り直すためにある程度、建設業に人手は必要でしょうけど、でも70年代や80年代のように、先進国の標準をはるかに超えた一割以上の労働を建設業に割いていく必要はないと思います。

 そう考えると、不況で失業者がたくさんいる状態から、景気回復して失業が解消されるプロセスでも、福祉や医療や子育て支援の分野で特に雇用が拡大し、ついで消費財生産で雇用が拡大し、設備投資財生産や建設業では雇用拡大が比較的軽微になるように、需要の拡大が調整されるべきだということになります。
 そのためには、「大胆な財政出動」は主として福祉や医療や子育て支援分野を中心に行い、今まで貧しかった人々の暮らしが豊かになるように、給付を拡充して賃上げを促進することが、望ましい景気対策だと言えるでしょう。

【消費財部門の労働配分を減らして建設部門のを増やす現行政策】
 その点からすると、消費税を増税して、その悪影響を打ち消すために公共事業中心の景気対策を行うという現行の政策は、この課題に逆行して部門間の労働配分を大きく歪めてしまうと評せざるを得ません。消費財生産に雇われるべき雇用を減らして、その分を建設業の人手を増やすためにまわすということになるのですから。
 だから一番いいのはもちろん今は消費税増税をしないことです。増税してもその分みんな景気対策に使ってしまう──結局そうなる気もします──なら、財政的には消費税増税を先延ばしすることと同じですし。
 でもそれがかなわないならば、同じ額の財政支出の景気対策をするならば、給付金にして全員にばらまいた方がいいです。消費税増税による消費需要の減少そのものが、いくぶんかは相殺され、部門間の労働配分の歪みがほとんどなくてすむからです。

【公共事業の人手不足で消費財部門の需要が支えられる】
 そうした目で見ると、現在、公共事業が人手不足のために計画通りに進展していないことは、必ずしも悪いことではないと言えると思います。
 もちろん、東北の被災地の復興が、そのために遅れてしまったりすることは困った事態です。そうはならないように被災地には優先的に生産資源をまわしてほしいと思います。
 また、将来的に経済全体として完全雇用になったときにこんなことが起こったら、インフレが悪化して、人々の暮らしのために必要だったはずの生産資源が公共事業に無理矢理奪われて、人々の暮らしが苦しくなってしまいます。

 しかし、今はまだ経済全体で見ると失業者がたくさんいる状態ですから話は別です。
 建設業で人手不足になったら、その部門の賃金は高騰します。しかし、予算が立っている以上は、いずれ決まった額の支出は実現されるはずですから、原則としては需要拡大策の総額が時間を通じて減るわけではありません。結局、財政支出のうち人件費にまわる割合が当初の場合よりも高くなることになります。そうすると、直接建設される公共設備の実質量は減るかもしれませんが、その代わり、そこで雇われた人々の所得が増えて、そのおかげで消費支出が増えることになります。
 私は以前2010年2月28日のエッセーで、政府支出の総需要波及効果の倍率(乗数)が昔より小さくなっていると言われているのは、労働者への所得分配率が小さくなっているせいだと論じました。政府支出で企業が得られた所得が、雇われた人に賃金としてたくさんまわれば、消費需要が増えて景気拡大が波及していきます。しかし、小泉改革以降は労働者への分配が抑えられていたので、政府支出で得られた所得が企業に貯め込まれてしまって、なかなか需要として波及しなくなっていたのだと考えています。
 それが今回は、賃金にまわる割合が大きくなってきたわけですから、公共事業への財政支出が消費需要の増加に波及しやすくなっていると思われます。まだ経済全体の生産余力がある状態ですから、これはモノやサービスの消費財の生産増加をもたらし、これらの部門での雇用を増やす効果を持ちます。
 これが消費税増税による消費需要減の効果をみな相殺できかと言われれば、大いに疑問ですが、何の障害もなくスムーズに公共事業が実現された場合と比べたら、いくぶんかは消費需要の減少の悪影響を緩和できると思います。


◆貿易赤字は景気にマイナスか

【予想外だった貿易赤字】
 次に、今は貿易赤字だから景気にマイナスになっているとの議論があるようなので、それについて。
 私は今回の円安が始まった時、一時的に貿易赤字になっても、経験則からして約1年後には貿易収支は黒字に転ずると言いました。
 実際にはそうならず、財務省が4月21日発表した貿易統計速報によると、3月の貿易収支は依然として赤字でマイナス1兆4462億円億円でした。この事態を予見できなかった不明をおわびし、恥じ入る次第です。
 しかし、このことは必ずしも景気にマイナスであることを意味しません。もちろん、今後黒字に転じる可能性はまだあると思いますが、たとえそうならなくても、このことが理由で景気拡大が抑えられることはないのです。

【貿易赤字が景気にマイナスであることの教科書的説明】
 普通はもちろん、貿易黒字が小さくなったり、さらには貿易赤字になってそれが拡大したりしたら、景気にはマイナスです。これは以下のような理屈です。
 マクロ経済学の教科書では、世の中の財やサービス全体の、需要と供給の均衡式を次のように表しています。

   Y = C + I + G + Ex - Im

ここで、Yは国内総生産(GDP)、Cは消費、Iは企業が機械を買ったり工場を建てたりする設備投資、Gは政府支出、Exは輸出、Imは輸入を表します。
 この式の左辺はひとつの国の中の財やサービス全体の供給を表しています。
 右辺は、ひとつの国の中の財やサービス全体への需要を表しています。つまり、財やサービスの需要全体は、人々が暮らしていくために財やサービスを食べたり着たりして消費する需要と、企業が将来の生産のために機械を買ったり工場を建てたりする需要と、政府がダムを作ったり福祉サービスを買ったりする需要と、そして輸出から輸入を引いた「純輸出」、すなわち貿易収支からなるというわけです。
 この式は、この両者がイコールでつながっていますので、需要と供給が一致することを表していますが、ケインズの有効需要の原理によれば、これは右辺が左辺を決める式だと読みます。すなわち、需要されて売れる分生産されるというわけです。まだ完全雇用に到達しないで失業がある間はこれが成り立つと考えられます。

 ここからわかるように、右辺の各項目が大きくなったら、この式のイコールを維持するように左辺のGDPが大きくなります。だから、消費Cが増えた場合、企業の設備投資Iが増えた場合、政府支出Gが増えた場合、財やサービスの生産Yは大きくなるというわけです。
 同様の理屈で、貿易収支Ex - Imが増えたならば、Yは増えます。つまり、貿易黒字が大きくなった場合、財やサービスの生産は増えます。逆に言えば、貿易収支が赤字ということは、世の中の総需要がその分マイナスされてしまい、景気の足をひっぱるということになります。

 ここで輸入Imがマイナスで入っていることは、上の式の輸入の項を左辺に移項して次のように表してみたらわかりやすいと思います。

   Y + Im = C + I + G + Ex

 左辺はこの国全体の財やサービスの市場に持ち込まれる供給で、それには、国内生産物Yと、海外から輸入してきたImとがあるというわけです。右辺が需要で、販売先を表していると考えればいいです。家計が消費のために需要する、企業が需要する、政府が需要する、海外の人が需要するということです。右辺の需要が変わらないのに、輸入が増加したら、国内の生産Yはそれに圧迫されて減ってしまうということになります。

 以上が、普通のマクロ経済学の教科書でなされている説明です。
 これは間違いというわけではないのですが、この図式を今回のケースにそのままあてはめると、貿易赤字になったらGDPは減ってしまう、景気の足をひっぱるぞという解釈がされてしまうと思います。でもそれは違うのです。

【GDPは生産総額から中間投入額を引いたもの】
 上の式でYと表記されているGDPは、実を言えば、国内で生産されたもの全部ではありません。原料や燃料などとして使われる「中間投入財」は除いた「最終生産物」です。例えば、パンは最終段階の生産物ですのでYに含まれていますが、小麦粉はそれを作るための投入物なので、その生産はYに含まれていません。
 ところで景気がいいとか悪いとかで、私たちが結局のところ問題にしているのは雇用です。不況対策として生産を増やすことは、それ自体が目的なのではなくて、それによって雇用を増やして失業を減らすのが目的です。
 そうすると、雇用というものは、最終生産物を直接生産する段階だけで発生するのではありません。製パン段階だけで雇用が発生するのではなくて、小麦粉を製粉する段階でも雇用は発生するわけです。ですから、本来を言えば、景気がいいとか悪いとかを考える時に使うべき「生産量」というのは、中間段階の生産物も含む一国内の総生産を使った方が素直だと思います。これをXと表記することにしましょう。
 もっとも、国内の生産だけを考えている場合には、XYは連動していますから、結局はどっちで考えても同じです。パンの生産が増えれば、当然小麦粉の生産も増えて製粉労働の雇用も増えますから。「川上」段階の中間投入物の雇用も含めて、最終生産物で発生した雇用とみなせばいいだけです。

【国内生産は国内の国産品需要と輸出で決まる】
 ところが、海外との貿易を考慮に入れるとそうはいきません。XYが連動しなくなるので、Yの変動に国内の雇用の変動が対応しなくなるのです。
 今、話をわかりやすくするために、一国全体の中間投入財はすべて輸入品だという極端なケースを考えます。また、やはり話を簡単にするために、設備投資と政府支出はすべて国内財に需要が向かうことにして、輸入品が入ってくるのは消費財だけだとします。これは、単に記号を少なくして式を短くするためだけの想定で、設備投資や政府支出で輸入品に需要が向かうものがあっても、話は全く変わりません。
 
 この場合、財やサービス全体の需給一致式は次のようになります。
   X = Cd + I + G +Ex
ここで、Cdというのは、消費のうち、国内産の財やサービスに対する消費需要とします。それに対して、消費のうち、輸入品に対する需要はCmと表すことにしましょう。すなわち、Cd + Cm = Cとなります。
 すなわち、上の式の右辺は、国内産の財やサービスに対する需要は、国内財への消費需要と、設備投資のための需要と、政府による需要と、海外からの需要からなるということです。これが左辺の国内財の総供給とイコールになるというのが、財市場需給均衡式の正体だということです。ケインズの有効需要の原理が働く不完全雇用の状態においては、この右辺がXを決め、それに従って雇用が決まるわけです。

 これがどうして最初に出したY = C + I + G + Ex - Imという教科書的な式になるのかというと、上のX = Cd + I + G +Exの両辺から、あとで説明するeZを引いて、右辺にCm を足してまた同じCm を引くと、こうなります。
   XeZ = Cd + Cm + I + G +Ex − (eZ + Cm)
ただし、Zは中間投入で、今の想定では全部輸入品ですのでドル表示だとします。これを円表示に直すために、為替レート(1ドルの円価格)eをかけてあるということです。
 すると、左辺の総生産Xから中間投入を引いたのがY、右辺第1項のCd+ CmC、輸入Imは今の想定では輸入中間財eZ と輸入消費財の合計Cmで右辺の最後のかっこの中になりますので、今の式は、Y = C + I + G + Ex - Imと表されるというわけです。これはもっと複雑な想定にしても成り立ちます。

【輸入中間財の金額が増えた貿易赤字は国内生産物需要に直接関係ない】
 さて、今回の貿易赤字の特徴は、以前のように円高でもたらされたわけではなくて、円安にもかかわらず解消されず、かえって増えたことにあります。
 上の想定では、貿易収支はEx − (eZ + Cm)ですが、円安になれば、輸出Exは増えますし、輸入消費財Cmは割高になるので国内財に取り替えられて減るのが普通です。どちらも貿易収支を黒字方向に増やす働きをします。今回の貿易赤字の主な原因は、原油などの輸入額が膨らんだことにあります。原油は円安で割高になったからといって国内産のものに取り替えるわけにはいかないし、総生産が増えるならかえって輸入は増えます。しかも円安で単価は上がるので原油輸入の金額はさらに増えたわけです。今の定式のケースでは、Zが減らずにかえって増え、e が上がったことで、eZ が増えて貿易収支がマイナスになったというわけです。

 そうすると、GDPすなわちXeZ は、なるほどこの結果として伸び悩み、場合によっては減ることもあるかもしれません。しかし、雇用を決めている生産X は、直接にはeZ とは関係なく、Cd + I + G +Exに等しくなるように決まるわけです。この需要項目はいずれも、円安になったら増える理由こそあれ、減る理由はあまり思いつきません。国内財の消費Cdは、円安で輸入品が割高になることで、取り替えが働いて増えます。設備投資I は、円安で海外に工場を建てる魅力が薄れ、輸出増強のチャンスがくれば増えます。輸出Exはもちろん増えます。輸出は最近円安でも増えなくなったと言いますが、それが本当ならば円安にならなかったら減っていたということです。どんどん円安が進めば増えないはずはありません。
 さらにこれらの結果生産が増えて雇用が増えれば、CdI はさらに増えます。ただ、 eZ が増えすぎてY = XeZ が減った場合、その結果としてCdを押し下げる効果が働くかもしれませんが、その効果が大きいとは思えません。総じて、目下の貿易赤字拡大が、雇用の拡大にマイナスに働くことはないと言えます。



「エッセー」目次へ

ホームページへもどる