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15年3月11日 塩沢先生から拙著感想いただいている件



 前回のエッセーの最後でお知らせした、月刊誌『サイゾー』のインタビュー記事は、こちらで有料で読めるようです。
 題名が「安倍政権の自国中心経済は勘違いのたまもの?経済理論が政策に与えた影響と誤解」となっていますが、後半が私が提案した題名です。前半は編集さんがつけてくださったもので、別に異存はないものの、記事内容とはほとんど関係はないです。内容は、昨秋出していただいたPHP新書『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』の要約みたいなものです。ライターさんが本当によく拙著を勉強して下さっていて、拙著の内容を簡潔適切にまとめて下さって、うれしく思っています。
 一応、流行のピケティ特集の一環のようで、飯田泰之さんや稲葉振一郎さんや大竹文雄さんが、ピケティさんの議論をふまえた上、経済を知るための本はピケティ本だけじゃないよと、いろいろな本を紹介する記事を書いていらっしゃいます。ご自分の本の紹介も大々的にしたいところなんでしょうけど、みなさん謙虚にほかの人の本を紹介されている。そんな記事のあとで、私ひとりだけ、自分の本だけの紹介のためにページをとってもらっていて、なんだかもうしわけないです。

 まあ、ピケティブーム便乗企画は世にあふれていまして、私のところにも、この忙しい中、ピケティ仕事をさせようという話はくるのですけど、まだ読んでませんし(笑)。
 こっちは、どんな編集者も黙らせる鉄壁の断る口実持ってますし(笑)。
 笑いをとろうと思ったのに、あとでやたら恐縮される反応されても対応に困るのですが(笑)。

 さて、前回のエッセー以降の近況報告ですが、前回お知らせしたとおり、2月21日に、「市民社会フォーラム第139回学習会」で『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』の出版記念講演会を開いていただきました。岡林信一さんには毎度ながらお世話になりました。
 大阪の十三の「シアターセブン」で開いていただいたのですが、いつもになく、ほとんど迷わずにゆうゆう会場に間に合ったと思いきや、私のマックノートではプロジェクターにつながらず、主催者側のかたがたもパソコンを持ってきていないことが判明!
 これはコネクターを買ってくるしかないということで、隣駅梅田の「ヨドバシカメラ」までコネクターを買いに走ることになりました。なぜか参加していた学部ゼミ生約1名がついてきてくれたのですが、全然心強くないぞ。ともかく二人で大騒ぎしながら買ってきて、最後は「走れメロス」。ぎりぎり間に合った!
 と思ったら、ドライバーをインストールしないといけない。ところが、マックのノートにはCD-ROMドライブがないので、付属のCD-ROMが読めない!
 仕方ないので、説明書にしたがってコネクターの販売元のサイトからダウンロードしようと、会場の人にお願いしてウェブにつないでもらって、ダウンロードしようとしたら、なんともうウェブ上からなくなってしまっている!
 万事休す!…と思ったら、会場のパソコンを貸してくれたのでした。だったら最初から言ってよ〜。

 当日の講演の模様はこちらから動画でご覧いただけます。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/234575
最初15分は、買ってきたコネクターがつなげないと四苦八苦しているところで、16分からやっと始まります。

 翌22日は「基礎経済科学研究所」で市民のかた数名と月例で開いているケインズ『一般理論』のゼミ。

 25日から27日は、夏にもやった大学院のゼミ合宿で、夏と同じ石川県加賀市橋立町にある民宿「北前船」で、酒も飲まずに夜中までセンの『正義のアイデア』の訳書を読んでいました。
 9月5日のエッセーでも書きましたが、「北前船」さんは、江戸時代の海運商である北前船船主の家をそのまま民宿にしているところです。そこでも「文化財の塊」と言って、狩野派の襖の写真を載せておきましたが、今回も別の襖の、同じく狩野派の絵を撮ってきましたのでお見せしましょう。

北前船襖2

北前船襖3

北前船襖4

 夏は、橋立港はだいたいの魚で休漁期間でしたけど、今回は冬なのでなんと言ってもカニ。
北前船蟹
港のタグがついています。
 ちなみに黒いつぶつぶは、魚の血を吸うカニビルの卵(カニは卵をつける場所としてだけ利用)で、蓮コラ系でゾワゾワ感がたまりませんが、たくさんついているほど脱皮してから日が経っているということで、身が締まっておいしい目安とされています。もっとも、ウィキペディアには、カニビルのライフサイクルは比較的短いからあまり当てにならないと書いてありました。ちなみにカニの甲羅にはフジツボが寄生していることもあるのですが、これはマジで年期ものでおいしいらしい。そういえば、2年前に九州大学の数理生物学研究室に内地留学していたとき、カニの甲羅に寄生するフジツボの性選択戦略をゲーム理論でモデル化していた人がいました。

 二晩目は、港の近くのお店で魚三尾をそれぞれお造りと煮魚と唐揚げにしてたいらげました。
 しかし、橋立の温泉は濃厚な泉質の塩湯でとてもよかったのに、近くの住民向けの温泉場が潰れてしまっていて、隣の片山津温泉まで入りにいかなければならなかったのが残念でした。民宿のおかみさんが自動車で送り迎えしてくれましたけど。

 そのあと、私は石川県の実家で二日間久しぶりにゆっくりして、3月2日の金沢での研究会に出て、現代シュンペーター学派やカルドアについての報告を聞いて帰洛しました。まあ、ゆっくりしたと言うか、なんだか疲れがひどくてグータラしてしまったのです。最初、合宿で疲れたかと思ったけど、あとでよく考えてみたら、医者からタンパク質のとりすぎに注意するように言われていたのを忘れていたのだ。腎臓が一個しかないので、タンパク質を燃やしたあとの老廃物を浄化しきらないわけね。焼き肉とかあんまり食べないようにしていたのですが、魚介類だとそのことを意識しなかった…。

 3月5日は、公文俊平さんからNIRAのプロジェクトで講話するように言われて、組合の四役会議の途中を抜け出して上京し、『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』の内容に、シノドス連載の続きの部分も少しつけたお話をしてきました。公文先生はじめ、参加者のみなさんからは、大変ご関心をいただき、活発な質疑をいただいてありがたかったです。

 翌6日は、上京した機会にということで、出版社さんとライターさんの取材を受けることになりました。一般向けの経済学の入門書なんですけど、若田部昌澄さんや飯田泰之さんも担当されるらしい。私は忙しくて執筆する時間がないので、ライターさんをつけて下さるということにあいなったわけです。上機嫌で要領を得ないダダしゃべりをしていたらどんどん時間がたってしまい、夕方から組合活動家の職員の人と同僚教員との某謀議が予定されていたもので、途中で打ち切って帰ってきたのでした。
 それで、その続きはきのう、昼間組合の会議があったあと、わざわざ東京から研究室にきてもらってやったのでした。

 このかん毎週、火曜、水曜、木曜と組合の会議が三日連続であって、まだまだ何の知恵も回らないし、何の役にもたたずただ出ているだけでホント恐縮極まりないのですが、なぜだか多忙感だけはあります。
 その合間をぬって、ウェブ雑誌の「シノドス」連載記事を書き進め、なんと当初締め切りをめずらしく守って合宿に行く前日25日に提出したのですが、このかん担当編集者が交代したりいろいろあって、結局3月4日にご掲載いただきました。未読のかたはご検討下さい。
連載『リスク・責任・決定、そして自由!』:第15回「事前的ルールを選ぶ自由──リバタリアンはハイエクを越えよ」

*********ここから本題**********

 さて、『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』。このかんたくさんのかたからウェブ上でご書評いただきましたが、先日1月24日づけで、塩沢由典さんがご自身のサイトでこの本を批評して下さっていました。
松尾匡『ケインズの逆襲/ハイエクの慧眼 』の感想

 「一度読んだだけの印象論ですので、内容の正確さにはいささか欠けるところがあることをご了承ください」と書かれていますが、なにをおっしゃる。非常に適切に読み取っていただきまして、感謝しております。タイトルについて、「ひょっとしてこれは松尾さんがつけたものではなく、出版社がこれくらいにしないと売れないと思ってつけたもの/提案したものかもしれません」とありますのも全くよくお見通しで。
 内容的には、「塩沢先生ならこんな批判をされるだろうな」という通りの批判をされていて、読んでいてかえって安心しました。

 それにしても、さすがは塩沢さんと感服するのは、同じことを批判するにしても、凡百の半端なケインジアンからの批判と違って、こんな批判をしたらケインズ自身も批判の的に含まれることになることを、よくわかっておられることです。
 塩沢さんは、今の日本では高度成長時代のような総需要政策は有効ではないとおっしゃっていますが、「松尾さんは、第7章の中で、ケインズが総需要政策を考えたのは、成長が期待できるような時代ではなく,ケインズもそう考えていなかったと説明しています。このこと自体は正しいでしょうが、だから現在の日本経済にも総需要政策が有効だということにはなりません」と、ご持論がケインズの認識とは違うことを自覚されています。
 さらに、実質利子率が下がらないことに不況の主因を見る拙著の立場に関して、「これにはケインズにも、さらにいえばケインズに影響を及ぼしたヴィクセルにも「責任」があります。利子率を消費や投資の主要変数として理論構成したのが、ヴィクセルやケインズやハイエクだったからです。……ケインズはそう考えていたかも知れません。しかし、わたしに言わせれば、ケインズのこの構想/認識はまちがっています」と明言されています。
 景気拡大策としてのインフレ目標政策を最初に唱えたクルーグマンの論文について、これは本人が言うようなケインズの理論ではなくて、ウィクセル理論だと評したものをどこかで目にしたことがありますけど、全く筋違いで、ウィクセル理論だからこそケインズ理論であるわけですね。さすが塩沢先生!

 では、ご批判の論点の一番目。「リスク・決定・責任の一致が必要である」とする拙著の命題を「第一命題」と呼んだ上で、次のようにおっしゃいます。

第一命題を生かすには、「必要である」だけではなく、次のような諸問題を考える必要があります。
(1)第一命題が適用可能な領域はどういう場面か。
(2)適用しにくい場合に、どのような制度設計をすれば、適用可能な状態に近づけるのか。
(3)適用が困難な状況・場面ではどう考えるべきか。

いやまったく、そのような精緻化が今後必要な議論の方向であることはおっしゃる通りだと思います。
 ただ、塩沢さんは、「第一命題」が適用可能なのはスケールの小さな人間関係に限られ、スケールが大きくなるとあてはまらなくなるとされます。
 私は、スケールが大きくなってもあてはまるからこそ、スケールが大きな人間関係ではリスクが大きい判断には手をだしてはならないのだということが、「第一命題」から導かれるのだと思っています。ただし、そうはいってもリスクと決定と責任が離れているからこそ大規模・迅速に事業が展開できるということはあると思います。だからそれが避けられない時には、公的規制とか、労働組合や住民団体による事業決定への影響力によって補正がされるべきだと思っています。

 もっとも、例としてあげられている、「不景気で失業が多いとか(いまは、逆転傾向も見られますが)、非正規・劣悪労働とかを解消するために、黒田方式の量的緩和を猛烈に進めるとき、ひとつのリスクはインフレ・ターゲットが成功しそうになってオーバシュートして、最悪の場合、ハイパーインフレーションになり、日本経済がめちゃめちゃになるというシナリオです」というのは、全くありえない「リスク」で、デフレ不況が現実に人々に押し付けているリスクの方がよほど重大だと思いますが。

 もちろん、その内容の当否がここで問題なのではなくて、一般的に、国政のようなスケールの大きい決定からリスクをゼロにすることはできない、その責任をどうするのかということを問題にされたいのだと思います。繰り返しになりますが、だからこそなるべくリスクがないようにすべきで、拙著では公共のやることは「事前的ルール」に徹して、民間人が事前に読めない裁量を減らすことで、民間人にとってのリスクを抑えられるのだと書きました。
 しかし、なおここには、二種類の「決定」レベルで問題が残ると思います。

 一つは、「事前的ルール」自体を新しいものに切り替えることに決定したときのリスクです。塩沢さんのあげられた「インフレ目標」の例も、その例のおつもりだと言えるかもしれません。
 これは、結局のところ民主的意思決定によって民意に基づいて決めるほかないのですが、それを決めた大衆に責任を負わせるわけにはいかないと思います。形式的にそのようにしたとしても、現実には誰も責任をとらないことになるだけだと思います。やはり、提案した人が失敗したら信頼をなくすことで責任をとるほかないと思います。

 もう一つは、「事前ルール」が決まっていても、なにもかもガチガチに規定するわけにはいかない以上、それを実現するための手段としての行政判断は、その場その場での臨機応変な判断をせざるを得ない部分が残ると思います。やはり、民間人が予想していなかった判断が事後的になされるリスクはゼロにはできません。これはやはり、できるかぎり裁量の余地を少なくした上で、どうしても残る判断については行政が賠償責任を持つしかないと思います。

 冗談半分で考えているのですが、総理大臣は年齢上限をつけて、やめたあとは一切俸給職につくことを禁止し、議決権無しで報酬が払われる名誉参議院議員にして、三年の参議院選挙ごとに全員信任投票にかけて、信認されなかったら次の信任投票までの三年間名誉参議院議員資格を停止して報酬がストップされることにしたらどうでしょうか。

 次に論点の二点目です。「予想は大事だ」との拙著の主張を「第二命題」として、「第二命題は、もっと問題があります」と論じておられます。
 このご議論こそ、「塩沢先生ならこうおっしゃるだろう」という議論の典型でした。経済学において、予想という概念が「いまの経済学におけるほど重要視されていていいのか」と言われるのです。ただし、これがもともとケインズの中にある考えかたであることを、よくご理解のうえ、批判されています。

 「予想」の問題は、ケインズが死んだ後、世に広まったケインジアンの間ではほとんど忘れられた問題でした。
 それを、後年、ケインジアンを批判した新しい古典派に連なる論者たちが使い出したのです。だからこの当時は、ケインズ的立場に立つつもりの人たちが、やっきになって「予想」概念を重視する議論を攻撃するのが典型的な論争の構図でした。
 その構図は間違っていて、ケインズ的な、資本主義経済の不均衡性を認識する立場の者こそが、「予想」の問題を重視しなければならなかったのだ──ということが次第に理解されていったのが、その後の経済学の歩みだったと思います。塩沢さんはこのような現代的な経済学の見方について、「経済学(の現在のあり方)が我々の想像野を構成・限定している」と批判されますが、私から見ると、塩沢さんは、今から二、三十年前の経済学の論争の枠組みに、想像野が限定されてしまっているように思えます。

 私は、合理的期待とか完全予見とかを前提して(好況と不況などの)複数均衡を議論する枠組みこそ、塩沢さんがいつもおっしゃる「ミクロ・マクロ・ループ」の典型なのではないかと思っています。塩沢さんは、主流派経済学の、個々人の選択(ミクロ)から積み上げて全体を説明する「方法論的個人主義」も、それに対抗する、全体的な制度や文化などから個々人の行動を説明する「方法論的全体主義」も、ともに批判されて、個々人の選択が全体を生み、全体が個々人の行動を規定する「ループ」としてシステムを把握することを提唱されているのだと理解しています。

 合理的期待や完全予見の方法を取入れたケインズ理論が言っているのは、インフレが持続しているというマクロな状況を人々が共有の予想にしているときには、それに規定されたもとで、ミクロの個々人が最適に行動して気前よく支出した結果が積み上がって、インフレの持続というマクロな状況が実現し、もとの予想が再生産される。デフレが持続しているというマクロな状況を人々が共有の予想にしているときには、それに規定されたもとで、ミクロの個々人が最適に行動して支出をしぶった結果が積み上がって、デフレの持続というマクロな状況が実現し、もとの予想が再生産される…ということです。まさに「ミクロ・マクロ・ループ」になっています。

 つまり、ここで完全予見みたいな想定が意味しているのは、予想が自己実現されて維持されるということです。確率を入れて合理的期待にするのは、例えば、3%のインフレ率が人々の共有の予想になっている時、現実のインフレ率が、去年は3.1%、今年は2.9%になっても、人々がそれを誤差と認識して、3%のインフレ予想の共有が慣習的に維持されるということです。

 もちろん、今日の段階のこのような手法の経済学では、まだ解けていない問題はあると思います。それは、期待が変化するプロセスが説明できていないということだと思います。以上の話があてはまるのは、去年も今年もだいたい3%のインフレ率だったから来年も3%だろうと予想して、本当にその通りだいたい3%だったというような定常状態の上にあるケースです。一定率でバブルが進行するような不均衡な話だとしても、そのバブルの率が一定で持続しているような状態です。
 (よくある、定常解の上になくて、ステーブルアームの上を動いていくプロセスの説明は、モデルの数学的性質を示すためのもので、あれが直接に現実の経済の動きを示すものとみなすのはナンセンスだと思います。)

 私は、現実の個々人の選択は、習慣の模索的な変更かもしれないし、もっと直感的なものかもしれませんが、結局長い目で見れば、だいたい合理的最適計算をしているものと近似してもいいと思っています。これは、モデルを扱いやすくする工夫として許されるレベルだと思います。
 しかし、どうしてもそれで説明できないのが、「予想」だと思います。定常状態ならば、過去が将来も続くと予想してそのとおりになるのでいいのですが、それが切り替わる場合はどう説明できるのかが問題になると思っています。

 これは、やはり進化的なプロセスだろうなと思っています。以下は『痛快明解経済学史』の最後の章で少し示唆した話ですが…。
 人々の共有予想が、さっき述べたように、3.1%でも2.9%でも3%のまま安定的に維持されるような「ゆらぎ」を許す性質があるために、例えば3.4%というような現実が出たときに、4%という予想をする「突然変異」が現われるのだと思います。しかし、システムが安定的な間は、その予想に基づく行動は全体の状況を変えるに至らず、やっぱり3%付近の状態が維持されて、その「突然変異」の予想は頭中から「淘汰」されるのだと思います。
 しかし、複数均衡があるうちの、現実の均衡の「穴が浅く」なり、もう一つの均衡が近接して「穴が深く」なり、両者を隔てる「尾根」が「低く」なっていくと、ある程度まとまった「突然変異」の予想が隣の均衡に移動したら、なだれをうって残りも隣に移動するというような移行が起こるのだと思います。
 これは、ごく単純な例について拙著『「はだかの王様」の経済学』の第7章で説明していますが、このへんをちゃんと定式化するのがこれからの課題だと思っています。

 ともかく、塩沢さんに拙著読んでいただき、詳しい感想までいただいたことは光栄に思っています。こっちは塩沢さんが去年お出しになった自信作『リカード貿易問題の最終解決』を、読まなければならないなと思いつつ、目の前の仕事で忙しすぎてなかなか手をつけられないことを恐縮に思っています。たぶん肯定的な評価というわけにはいかないと思いますが、それだけに時間をとりそうで先延ばしになっています。まあ、ピケティ本よりは先に読もう(笑)。

 さて、このエッセーも9日に書きはじめたのだけど、締め切り間近の共著論文のやりとりの合間をぬって書いていたら、やっぱり足かけ三日かかってしまった。
 今日は昼間組合の「退職者を送るつどい」、そのあと教授会で、夜は、春から経営学部が大阪新キャンパスに行ってしまうので、「お別れ会」みたいな組合系の非公式な懇親会。自宅のある福岡県久留米で確定申告しなければならないので、明日にはそっちに帰らないと。21日が卒業式なのでそれまで久留米にいる間に、手術一年後の検査を受けないといけない。そのあいだに昔講演会役員やっていた市議会議員の選挙事務所に挨拶にもいかないとね。
 28日が半日たっぷり組合の会議で、29日は子どもの引っ越しの手伝いなので、経済教育学会には行けません。ご了解下さい。



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