用語解説:置塩信雄 (1927-2003)
神戸市に商店主の息子として生まれる。神戸商業学校から神戸高商へ進み、敗戦をはさみ1947年に卒業。神戸大学の前身である神戸経済大学に入学する。
在学中は、ヒックスの『価値と資本』、ケインズの『一般理論』を中心とした近代経済学を勉強するが、一時結核をわずらう。ゼミ生の間では、この療養中に『資本論』を読んで目覚めたという、まことしやかな伝説が伝えられている。
1950年、学部卒業と同時に新制神戸大学の助手として迎えられるが、このとき弱冠*23歳の卒論の一部が、今日『現代経済学』(筑摩書房)第4章第1節「ヒックス、サムエルソンの比較静学」として読める驚愕の処女論文、「収束条件とWorkingの問題」である(ただし、この中の利子率の運動方程式は後に撤回)。卒論自体には、このほかに後年1970年代に流行したクラウアーの再決定理論と同じことがすでに書いてあるという噂がある。
その後、理論経済学の幅広い分野で多くの偉大な業績を残し、経済理論学会では1966年以来約4半世紀にわたり幹事を勤め、1977年から1年間は理論・計量経済学会(現日本経済学会)の会長も勤めている。1990年に神戸大学を定年退官後は、大阪経済大学に勤務するが、晩年は体調を崩して退職し、長くて厳しい闘病生活の末、2003年11月に死去。
置塩の学問的業績は多岐にわたるが、特に最重要と思われるものだけをあえて選んでまとめると次の通りになる。
1. 投下労働価値概念の数理的定式化と「マルクスの基本定理」
いずれも1955年に公表された。投下労働価値概念の数理的定式化は、ドミトリエフやメイも行っているが、置塩は彼らとは独立に得ている。「マルクスの基本定理」は、この価値概念を用いて、正の利潤の存在と正の労働の搾取との同値性を世界で最初に証明したものである。
2. マルクスの傾向法則命題の検討
『資本論』で述べられた「利潤率の傾向的低下」や「相対的過剰人口の累積」の傾向法則への批判に対して、有機的構成が高度化する限り、利潤率の上限や雇用の上限が低下することを証明して、マルクスの推論が成り立つことを厳密に示した。ただし、この議論の前提である「有機的構成の高度化の進行」については、現実には長期歴史的に一定であるとして、これらの傾向法則を否定した。
3. 生産価格と均等利潤率について
投下労働価値から生産価格へのいわゆる「転化問題」については、『資本論』で示唆された手順を繰り返すことで生産価格に収束することを示し、この場合にもいわゆる総計一致二命題は両立しないことを確認した。また、実質賃金率が均等利潤率や生産価格に及ぼす影響や、この問題と技術変化の関連について厳密な分析を行った。特に、現行価格のもとで費用を削減する技術革新の結果、新たに成立する均等利潤率は以前よりも低下することはないという命題は、利潤率低下法則を否定する「置塩定理」として世界に知られている。
4. 企業の生産決定態度と実質賃金率の決定
置塩は、ケインズ理論を批判的に摂取し、その背景の利潤追求という資本家の供給決定態度(雇用決定態度)を明示する。それに基づき、実質賃金率は労働市場で決まるのではなく、需要が先決する財市場によって決まることを示した。特に、支配階級の剰余生産物への需要、中でも設備投資需要が、財市場を通じて雇用や実質賃金率を決定する主因となる。置塩はここに資本制経済の階級矛盾を見いだし、いわゆる限界原理や、価格変動を通じた財市場均衡を、それを示すための不可欠の論理として積極的に用いた。
5. ハロッド=置塩型投資関数と不安定性論
置塩によれば、財市場で生産や雇用を決める主因が設備投資需要であるが、この投資が資本家の分散的私的意思決定にゆだねられているところに、資本制経済の不安定性の原因がある。この問題意識から、置塩はハロッドの不安定性論の論理を厳密化して、必ずマクロ的に不安定をもたらす投資関数「ハロッド=置塩型投資関数」を定式化した。そして、これに基づく経済動学の分析を、様々なバリエーションで行った。また、これにとどまらず、様々な要因を考慮に入れて投資決定理論を追求し続けた。
なお、この過程で、資本設備一定の短期における稼動関数と、資本設備可変の長期における技術選択関数との生産関数の区分が明確化され、両者の接点として正常稼動概念が定式化された。これは、今日米国の気鋭の研究者が取り組んでいる、生産関数が長期にはコブ・ダグラス型なのに短期にはそうでないのはなぜかという問題の先駆だった。この定式化は、足立英之、下村・越智、河野良太、吉田博之、拙稿などによって取り上げられ、置塩後期門下生の標準解釈になっている。
6. 利子決定諸学説の統一的説明
置塩は1986年、利子率は債券市場の需給に応じて運動するものとした。ケインズ的不完全雇用のもとでは、財市場、債券市場、貨幣市場の超過需要の和が恒等的にゼロになるので、財市場と貨幣市場の同時均衡(IS−LM均衡)が成り立てば、その裏で債券市場が均衡して利子率が決まる。流動性選好説をとらない新古典派の場合は、積極的貨幣需要がないので貨幣市場を除く、財市場、債券市場、労働市場の超過需要の和が恒等的にゼロになるので、完全雇用(労働市場均衡)のもとで財市場が均衡(貯蓄=投資)すれば、その裏で債券市場が均衡して利子率が決まる。
7. 為替レート決定諸学説の統一的説明
置塩は1986年、為替レートは国際収支に応じて運動するものとした。そしてそれに基づき翌年、為替レート決定の諸学説を統一的に説明した。不完全雇用のもとで貿易を考慮に入れると、財市場、債券市場、貨幣市場の和は恒等的に国際収支に等しくなる。もし小国で国内に独自の債券市場がなければ、財市場と貨幣市場が均衡すれば、その裏で国際収支が均衡して為替レートが決まる。これがマンデル・フレミングモデルである。また、もし財市場調整がまだ動かない短期で見ているのなら、債券市場と貨幣市場が均衡すれば、その裏で国際収支が均衡して為替レートが決まる。これがアセット・アプローチである。さらに債券市場調整がまだ動かない超短期で見れば、貨幣市場が均衡すればその裏で国際収支が均衡して為替レートが決まる。これがマネタリー・アプローチである。
8. 決定の所在としての所有概念
置塩が多年にわたる研究で認識した重要な論点のひとつは、資本制経済のワーキングの階級的本質は、生産や設備投資に関する基本的決定を資本家が排他的に握ることにあるということだった。ここから、生産手段の私有の本質は、その法制度的な規定にあるのではなく、生産手段運用の決定の所在にあるとする認識が導かれた。よってこれによれば、株をほとんど持たない日本の大企業の経営者も、生産手段を私有する資本家階級であることになる。逆に、生産手段の共有に基づく社会主義社会は、法制度的に国有化して実現できるものではなく、生産に関する勤労大衆の共同決定がなければならない。置塩はこのように考えて、ワーキング可能な社会主義像を追求しはじめる。やがて間もなくソ連・東欧体制の崩壊を迎えることになるが、すでにこの認識に到達していた置塩にとっては何ら動揺する事件ではなかった。
推薦著書
『蓄積論』筑摩書房
置塩経済学の最も標準的入門書。
『経済学』鶴田満彦、米田康彦との共著 bk1 amazon yahoo!ブックスショッピング
『蓄積論』では若干数学が難しい人向き。
『資本制経済の基礎理論』
置塩経済学の主要部分が厳密かつ体系的に把握できる最重要著作。
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勝手にリンク
「置塩信雄に贈る鎮魂歌」(09年6月末現在リンク切れ)
尊敬する兄弟子、鷲田豊明さんのホームページにあったエッセー。学問上も運動上もはるかに業績不足の私が言うのは全くおこがましいけど、書いてあることには本当に共感します。
* 当初「若干」と書いてしまっていたところを、高原様のご指摘にしたがって改めた。ありがとうございます。なお、ご指摘によれば、「弱冠」とは本来二十歳の形容詞だそうである。また、鷲田さんのエッセーのリンク切れもご指摘いただいた。──09年6月29日
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