用語解説:マルクスの基本定理
正の利潤と労働の搾取との同値性を数学的に示した定理。
置塩信雄は1954年に自分が最初に証明したと言っている。これは、1955年に『神戸大学経済学研究』に論文「価値と価格」として発表された(置塩の著作『マルクス経済学』(筑摩書房)に所収)。英文では、Weltwirtschaftliches
Archiv に1963年に発表された"A Mathematical Note on Marxian Theorems"が最初である(誤って「1961年」と書いてしまったいたものを、2004年11/29ご指摘によって訂正)(註)。「マルクスの基本定理」とは、これに対して森嶋通夫がつけて世界に広めた呼び名である。
森嶋は、森嶋・カテフォレス『価値、搾取、成長』の中で、この定理の証明は1960年代初めの自分と置塩の同時発見と言っているが、日本語での発表を含めれば置塩が森嶋に先駆けていることは明らかである(森嶋の『マルクスの経済学』では置塩が最初と書いてある)。もっとも、戦後間もないころ、この二人は京阪神の同世代の経済学徒とともにひんぱんに研究会を行い、深夜まで痛飲しながら議論をかわしていたわけだから、おそらく置塩の発見であることに間違いはないだろうが、森嶋もまたその創出に大きくかかわっていたのであろう。(長く神戸とロンドンに遠く隔てられてきた両雄は、今天上で何を議論しているだろうか。)
【マルクスの基本定理の意義】
マルクスは、というよりすでにリカードも、価格が投下労働価値に比例する前提のもとで、正の利潤の源泉が労働の搾取にあることを示していた。マルクスはさらに、価格が投下労働価値ではなく、均等利潤率が成り立つ「生産価格」になったとしても、利潤の源泉が搾取された労働だと言えることを証明できたと考えた。これがいわゆる「転化問題」における「総計一致二命題の両立」である。しかし後年、転化問題を最後まで解いてみると、残念ながら「総計一致二命題」は両立しないことが明らかになった。
現実の価格は投下労働価値に比例していないのが常であるから、これによって、以降、利潤の源泉が労働の搾取だと言うことは、客観的立証不可能な信念の表明にすぎないことになってしまった。
ところが、置塩が証明した「マルクスの基本定理」は、投下労働価値に比例した価格はおろか、均等利潤率をもたらす生産価格である必要すらなく、ともかく正の利潤を発生させるような価格ならどんな価格であったとしても、そのもとで労働が搾取されていることを示したのである。このことは、マルクス主義的イデオロギーを抱こうが抱くまいが、厳密な客観命題として、この定理の示す結論を万人が承認することを迫るものである。
【マルクスの基本定理の意味】
マルクスの基本定理の数学的証明はこちら。行列計算の分かる人用の最も分かりやすい証明をあげておいた。生産手段と消費材の二部門におとした簡単なモデルでの証明については、下記『蓄積論』か『経済学』を参照のこと。
この精神を数式をなるべく使わないで言葉で表すとこのようになる。
社会全体でなにがしかの純生産を年々行うためには、その純生産物を作るための労働と、その純生産のための生産手段を作るための労働、さらにその生産手段を作るための生産手段を作るための労働…と、各段階での労働投下をそれぞれ年々行わなければならない。もしこれらの労働を投下した労働者達が得た賃金で、出来上がった純生産物がすべて買い取られてしまうならどうなるか。利潤は一円も存在しない。なぜなら、売上から生産手段コストを引いて、さらに賃金コストを引いた残りが利潤なのだが、社会全体の純生産物を価格で表示すると総売上(総生産)から総生産手段投入額を引いたものになるから、ここから総賃金コストを引いたものは総利潤にほかならない。これがプラスであるためには、純生産物の総価額は総賃金より大きくなければならない。
よって、正の利潤が出るということは、すなわち、純生産物のうちに、それを作るために各段階で労働投下している労働者達の、誰の手にも渡らないものが、必ず含まれていなければならないということである。これを「剰余生産物」と言う。
すなわち、世の中の労働者達は、年々それぞれの持ち場で労働投下して、社会全体でなにがしかの純生産物を生み出すのだが、そのうち一部は自分達の間で分けとって、残りの部分は自分達以外の者に貢ぐというわけである。これをみんなで頭割りしてみれば、各自の労働のうちある時間は自分自身のために働き、残りの時間は他人のために働いているということになる。中世の農奴が、週に三日自分の土地で働き、残り三日は領主直営地で働くというのと同じである。
要するに、搾取である。資本主義経済というのは、自由で対等な交換で利潤を得ているように見えるが、実はその本質では、社会全体でみれば中世の荘園と同じような搾取がなされているのである。
【マルクスの基本定理への批判】
マルクスの基本定理は、経済学世界に衝撃を与え、最初は次々と批判が出されたが、それらのほとんどはことごとく論破された。例えば、ときどきこの証明がレオンチェフ的な固定技術を前提していて、技術代替が考慮されていないように誤解する思い込みが見られるが、全くそんなことはない。固定技術であろうが可変技術であろうが、ともかくある技術のもとで正の利潤が出ていたならば、その技術のもとで搾取が存在するのである。また、固定資本を考慮しようが、技術進歩を考慮しようが、この定理は成り立つことも証明されている。
しかしなお、現在まで残っている批判は次の二つである。
1. 結合生産される財のうち一部の種類だけを資本家が取得する場合。
2. いわゆる「一般的商品搾取定理」
以下でこの二点を一つずつ紹介しよう。
【結合生産とマルクスの基本定理】
結合生産とは、一つの工程によって二種類以上の財が生産される事態を指す。スティードマンは、結合生産を考慮した場合、正の利潤が存在しても搾取が負になる数値例ができることを示し、マルクスの基本定理を批判した。しかし、このときの投下労働価値計算は、結合生産がない場合と同様の連立方程式を用いており、しかもこの数値例では、同一の労働投下に対して、一方の工程の純生産量は他方の工程の純生産量よりもすべての財について少ない想定になっている。このような工程をも含めて連立方程式で投下労働価値を計算すると、「負の価値」が出てきて、そのために搾取がマイナスに計算される。
このような明らかに劣った工程を含めて価値計算するのはおかしい。実質賃金の投下労働価値を測る時も、優秀な工程だけを動かせばより少ない労働投下で生産できるので、それで計算すれば十分である。『マルクス経済学』における置塩や『価値、搾取、成長』における森嶋は、スティードマンの反例をこのように批判した。
そうすると、結合生産を考慮した場合、ある財の組み合わせ全体の投下労働価値は、それを不足なく純生産するための最小限労働として定式化されることになる。労働1単位の見返りに入手できる実質賃金の諸財の投下労働価値も、同様にそれを不足なく純生産するための最小限労働で計算される。それゆえそれが、提供した1単位の労働よりも少なかったならば、正の搾取があるということになる。
すると困った事態が生じる。結合生産によって必ず同時に生産される財のうちの、ある種類の財が労働者達によってすべて取得され、資本家によっては全く需要されないのに、同時に結合生産された別の種類の財は資本家も需要することで全部売れる場合である。この場合、資本家が取得する剰余生産物があり、それに正の価格がついているのだから、当然正の利潤が存在する。しかし、労働者は結合生産された財のうちのある種類の財は全量取得するので、自分が賃金で取得しただけの財を作るための最小限労働も、もとの労働と同じになってしまう。労働者が手にするものだけ生産しようとしても、資本家が取得した分が「余り」としてどうしても生産されてしまうので、労働を減らすことができないのである。よって搾取がないことになってしまう。
森嶋は、資本家の正の蓄積と賃金前払いを前提することによって、この問題を回避した。この場合、蓄積にまわる剰余生産物の中に、必ず次期新たに働く労働者の手にする財が含まれる。よってあらゆる労働者向け財の中に剰余生産物が存在するので、今期働いた労働者が取得した分だけを生産するには、働いた労働よりも厳密に少ない労働で生産可能である。搾取があるということになる。
しかし、この前提をはずしたならばこれは成り立たない。例えば資本家が蓄積せず、実質賃金財生産の「余り」として出る財を、資本家がすべて消費するために需要する場合、利潤があるのに搾取がない事態が発生してしまう。
【一般的商品搾取定理】
マルクスの基本定理に対する、いわゆる「一般的商品搾取定理」による批判は、一般にはボールスとギンタスが1981年にReview
of Radical Political Economicsに発表した論文が最初と考えられている。
ところが、実はこれと同じ議論は、すでに1966年の『季刊 理論経済学』(第16巻第3号)において、置塩の『資本制経済の基礎理論』への書評の中で、村上泰亮がしているのである。私はこれを立命館大学の森岡真史氏から知らされて、調べてみたら本当にそうだった。やっぱりこの世代はすごすぎるぞ。村上はそこで次のように書いている。
…置塩氏は資本制生産が可能であるための条件を「剰余条件」とよび…、そのためには剰余労働が行われていること、あるいはその意味で「搾取」が行われていることが必要であることを論証している。マルクス経済学の正統性が見事に証明されたようにみえる。ここに、いわゆる「一般的商品搾取定理」が言っていることはすべて言われている。要するに「バナナ1単位生産するための直接・間接投下バナナ量が1より小さいことも正の利潤の存在と同値なのだから、労働の搾取という言い方が許されるならば、利潤の源泉はバナナが搾取されることなりという言い方もできることになってしまう。労働だけ特権化して搾取呼ばわりする筋合いはない。」という批判である。
しかし、われわれははやまってはならない。49ページに示された置塩氏の定式化をみればわかるように、労働と他の通常の財とは形式的にはまったく同資格である。したがって、労働以外のある特定の財をとり、他の財の価値をその生産に直接・間接必要なかの特定財の量として定義すると、労働以外の財を規準とした投入価値説が得られる。このとき資本制生産の必要条件として、この特定財について剰余部分が生み出されることが要求される。要するに、資本制生産のための条件は、労働を含むすべての財について剰余部分が作り出されることである。置塩氏の与えた形式的な体系から出発するかぎり、労働価値説は資本制生産を説明するための不可欠な用具ではなく、可能な説明方法の一つにすぎない。労働以外の財をとっても「投入価値説」を作り上げることができる。そして、それらはいずれも置塩氏の提示する命題を説明する力をもつのである。置塩氏の分析とまったく等価の形式的分析を行いながら、まったく異なった印象をつくり出すことが可能なのである。
【効用関数による労働価値規定】
私は、1994年と1997年の経済理論学会年報論文(業績一覧論文No.22,
33)において、労働者の効用関数を導入した労働価値規定によって、上記結合生産の問題をクリアするやり方を提案した。すなわち、財配分に関して厳密に増加関数である効用関数(財評価関数)を導入して、ある財の組み合わせの投下労働価値を、その財の組み合わせよりも効用が低くならない財の組み合わせの純生産のための最小限労働で規定することにしたのである。この場合、搾取とは、1単位の労働の見返りとして入手できる財の組み合わせよりも、効用が低くならない財の組み合わせが、1単位よりも少ない労働投下によって純生産できる事態を指す。
こうすると、結合生産を考慮しても、マルクスの基本定理が破れることはもはやなくなる。いかなる正の諸価格においてもどこかの工程で正の利潤が発生するという条件と、厳密な連続の増加関数であるいかなる効用関数を使っても搾取が存在することとが、同値であることが証明できたのである。(研究内容3の2節)
ところで、この価値規定にのっとれば、「一般的商品搾取定理」による基本定理批判もまたクリアできる。ここでは労働者の効用関数が考慮されたが、このやり方と同じやり方で労働以外の商品の投入価値規定をやろうとすると、それと整合する効用関数はその商品自身の効用関数になってしまう。投下バナナ価値規定の場合にはバナナの効用関数を考慮しなければならない。バナナ生産者の効用ではなく、バナナ自身の効用である。これは明らかにナンセンスなのであり、経済的に意味のある「人間の効用」と整合するものに分析を限るならば、投下労働価値規定を採用するほかない。労働だけを特権化することに根拠はあるのだ。
【労働以外の財の投下価値規定は意味がない】
なお、このことは本当は効用関数を持ち出すまでもなく言える。投下労働価値規定と数学的に双対関係にある数量体系においては、純生産物の構成は、資本家の取得する剰余生産物と労働者の取得する財からなっている。つまり、人間の自由に利用可能な財である。これをなるべく増やすことが経済の目的になる。これは経済的に意味がある。
しかし、例えば投下バナナ価値規定と数学的に双対関係にある数量体系においては、純生産物の構成は、資本家の取得する剰余生産物とバナナ生産のための投入物からなる。労働者の消費物資は含まれなくなる。この定式化では、このような純生産を増やすことが経済の目的になってしまう。これは経済的に意味がない概念である。経済的に意味のある純生産物概念と整合的な投下価値規定は、労働のものしかない。労働だけを特権化することに根拠はあるのだ。
このようなことを2004年の『季刊 経済理論』論文(業績一覧論文No.47)で述べたら、そこで批判した吉原直毅氏が氏のサイトの中で反批判を書かれた。拙稿を詳しくご検討いただいたことは光栄であり、深く感謝したい。反論はおいおいさせていただくとして、ここでは誤解について一言弁明しておきたい。私が「吉原氏らは投下バナナ価値はバナナの立場と言っている」と書いているように、認識されているが、そうではない。投下バナナ価値はバナナの立場と言っているのは私であって、吉原氏らがそんなことは言っていないことは承知している。吉原氏ら「一般的商品搾取定理」をもちだした基本定理批判者は、むぞうさに労働以外の財で投下価値規定を作ってみせるが、それがいったい何を意味するのか自覚していますか、自覚してないでしょう、その財の立場に立つということなのですよ、ということを言いたかったわけである。当然ながら、バナナの立場に立つことは意味がなく、人間の立場に立つことだけが経済的意味があるのだから、投下労働価値規定だけが正当化される。他の商品の投下価値規定は正当化されない。そういうことが言いたかったのである。
追伸:上記吉原氏の反批判論文の内容について、2ちゃんねるで議論になったので、解説を書き込んだ。258番以降。
http://money3.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1085226784/
ちなみに、この掲示板の中でのJimmy氏の情報によれば、一般的商品搾取定理と同じことは1962年段階で竹内靖雄が言っており(玉野井編『マルクス価格理論の再検討』確認済み)、さらにその源流はクープマンスにあるのではないかとのことである。
追伸2:吉原氏の反批判論文は雑誌に掲載された。下記サイト内リンクのエッセーを参照。
追伸3:一般的商品搾取定理についての批判文をこちらにアップロードした。06年8月31日。追記06年9月15日。修正08年7月24日。
註) 「価値と価格」ではすでに価値通りでない価格について証明がなされているが、n部門一般については、拡大投入係数行列の首座小行列式が正ということを示すにとどまり、そこから労働の搾取を導くのは、生産手段と消費財の二部門モデルによっている。"Mathematical
Note.." では、n部門一般について、拡大投入係数行列の首座小行列式が正ということから労働の搾取を導いている。なお、『資本制経済の基礎理論』の元になった学位請求論文、「労働生産性・利潤率及び実質賃金率の相互関連に関する量的分析」は、"Mathematical
Note.."に二年先行する1961年に提出されており、この時点では未発表であったが、n部門における一般的な証明はすでにこの中でなされている。さらに、支配労働量が投下労働量より大という条件については、n部門一般について、すでにそれに先立つ1958年時点で、「労働生産性と実質賃金率」『国民経済雑誌』において公表されており、これが証明されたならば、剰余条件はすぐに出る。実質賃金率ベクトルを支配労働価値で評価すると1になるからである。この同じ論文においては、搾取率が均等利潤率よりも大という証明もn部門一般でなされている。すなわちこのとき、均等利潤率が正であるためには正の搾取がなければならないという証明は一般的になされている(これは森嶋−シートンの1961年の証明と同じものである)。
推薦著書(用語解説「置塩信雄」のページと同じです)
置塩信雄『蓄積論』筑摩書房
置塩経済学の最も標準的入門書。
置塩信雄『経済学』鶴田満彦、米田康彦との共著 bk1 amazon yahoo!ブックスショッピング
『蓄積論』では若干数学が難しい人向き。
置塩信雄『資本制経済の基礎理論』
置塩経済学の主要部分が厳密かつ体系的に把握できる最重要著作。
用語解説「置塩信雄」のページを御覧いただいた方から下記の復刊投票の呼びかけをいただいています。
http://www.fukkan.com/group/?no=1178
中谷武『価値、価格と利潤の経済学』勁草書房 bk1 amazon yahoo!ブックスショッピング
数理マルクス経済学の精緻化のフロンティア。基本定理については、等値諸命題、異質労働の場合、国際関係を考慮した場合など。
森嶋通夫・カテフォレス『価値・搾取・成長』創文社
結合生産のもとでの「一般化されたマルクスの基本定理」を展開した本。
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