09年5月23日 どマル経教育どうすりゃ委員会
【マル経共通教科書の努力の方向は...】
さて、どマル経の原論講義科目は、「社会経済学初級α」という名前で、同じ内容を三人でクラス分けして担当している。テキストも共通、試験も共通。去年の共通テキストは一応この三人の名前がついているが、一年目ということもあって、私は事実上何も口出しをしていない。
ただ一点どうしても反対したかったのは、「貨幣−商品−貨幣」という取り替えの列を表す記号が、英語のマネー(貨幣)とかコモディティ(商品)とかの頭文字を取って、「M−C−M」になっていたこと。
普通これは、『資本論』はドイツ語だから、そこに書いてある通り、ドイツ語のゲルト(貨幣)とヴァーレ(商品)の頭文字を取って、「G−W−G」と書くものである。
同様のことなのだが、「剰余価値」をあらわす記号が、英語の「サープラスバリュー」の頭文字を取って、「S」になっている。普通はドイツ語の「メーアヴェルト」の頭文字を取って「m」と書く。「C+V+m」とかいうやつ見たことありませんか。あれが「C+V+S」になっているわけ。
なんとか時代にマッチしたものに変えなければならないという努力に水を差したくはないんだけど、ドイツ語が学生になじみがないとか古くさいとかいう配慮でこんな変更をするのは、ちょっと努力の方向が違うんじゃないかという気がするんですけど。
今時マル経を学ぶ意義の大きな一つは、応用各論に進んだときに、過去のマル経ベースの人の業績を読んで意味がわかるようにするということがあると思う。そんな本は「G−W−G」とか「C+V+m」と書いてあるのだ。応用各論のマル経の先生の講義の場合も同じだ。理論に触れてくれたならば、当然そのときは「G−W−G」とか「C+V+m」とおっしゃるはずだ。そのときチンプンカンプンになったらいけないじゃない。
と言ったら、「M−C−M」が最初に出てきたときに、ドイツ語では「G−W−G」となるという旨の注釈を一言入れて下さった。うーむ・・・。
それと、講義をして初めて気づいたのだけど、テキストに「搾取」という言葉が一言も出てこないことに仰天した。こっちの感覚では、じゃあ何のためにマル経やるのって感じだけど。
なんかこれも、変えようとする努力の方向が違うような気がするなあ。
【金貨幣論は苦しい】
基本的に『資本論』にそった講義を半年やってわかったけど、最初は投下労働価値どおりの価格を前提する話が苦しいかと思ったら、それはそれほどでもなかった。
社会一般の立場からの規範状態だとか、第一次近似で単純商品生産社会モデルなのだとか、一番公正な等労働量交換だとしてもなおかつ搾取があるという「だとしても論理」だとか、ごまかしよう説明のしようはいくらでもある。(流通の話とか再生産表式とか、あきらかに資本主義なのに投下労働価値価格で交換する話になっているのは苦しかったが。)
一番苦しいのは、金貨幣論だったと思う。
投下労働価値にしても、生産価格にしても、何らかの深いところで、常に今日の現実とつながっている。そりゃ、間にたくさん媒介項があったにしてもだ。
でも金貨幣論は、『資本論』の当時はそうでしたというだけの話である。歴史的経緯として一回触れればいいだけの話である。
しかし『資本論』の中では金貨幣論はかなりの分量を取っていて、まともにフォローするとそれなりにエネルギーをとる。去年計算問題を解いたりしたけど、それほど深入りしても今後に役立つことは、ほとんどないように思うのだが。
むしろ、貨幣の必然性の論証から出てくる「物神崇拝」などの性質が、金貨幣だけでなくて、金廃貨後にも不換銀行券とか今日的な預金通貨に至るまで、ずっと貫いていることを確認することの方が有益だと思う。
【「労働力再生産」という考え方をどうする】
それと、もうひとつ扱いに悩むのが、「労働力再生産費」という賃金論について。
『資本論』の労働搾取の説明、有名なんですけど知ってますか。賃金は、「労働力の価値」、すなわち、労働力の再生産に必要な労働に対応しているってこと。早い話、人間が生きて明日も働けるようにするための、食料とか衣類とかの生活物資の労働価値が、賃金の正体だというのだ。資本家が労働者から買うのは「労働力」なんだから、労働力の価値通りに賃金が払われれば、なんら不正なことのない等価交換なんだと言う。
ところがそれに対して、実際に働く労働量そのものは、労働力の価値とは無関係にひきのばすことができる。この労働量と、労働力の価値との差が、資本家が労働者から搾取する労働、すなわち「剰余労働」であって、これが利潤の正体である。──こういう話である。
それで、伝統的マル経のみなさんは、「労働」と「労働力」は違うってことを、マル経の核心と考えて強調なさることになる。「労働力の再生産」という見方こそが、近経にはないマル経の「科学」としての正しさのあかしだとされてきた。
ところが、現代の「マルクスの基本定理」は、「労働」と「労働力」の区別など必要としない。賃金が、「労働力の再生産費」で決まろうが、限界生産力で決まろうが、労資の勢力で決まろうが、もう何でもいい。ともかく、ある賃金のもとで利潤がありさえすれば、その背後に労働の搾取があることが論証できるという、極めて強力な定理なのである。
だいたい、「労働力の再生産」って、昔からどうもうさんくさいと思ってきた。身だしなみに無頓着でも生きていけている人がいるならば、その一方でしょっちゅう服を買い替えている人は再生産を超えた消費をしていることになるのだろうか。車がなくても生きていける人、持ち家がなくても生きていける人、旅行しなくても生きていける人…人間それぞれ違うから、こういうのは探せばきりがないが、そしたら、車を持つこと、家を持つこと、旅行すること等々は再生産を超えていることになるのだろうか。いったいどこまで労働力再生産水準の内に入るのだろうか。
そもそも、今はワーキングプアと呼ばれる人が、それこそ文字通り生存維持的賃金で労働力を再生産させている一方で、中流上層のサラリーマンがその何倍もの消費をしている。では中流上層のサラリーマンは再生産を超える消費をしているのだろうか。彼らは賃上げ闘争を控えるべきなのだろうか。ワーキングプアと呼ばれる人達の生活水準を、中流上層の水準にまで引き上げることは目指してはならないことになるのだろうか。
【労働力再生産概念は搾取論否定論かも】
「マルクスの基本定理」への批判に、「一般化された商品搾取定理」ってのがある。詳しくはこちらを参照のこと。要するに、「マルクスの基本定理」が、利潤の存在と同値になる条件として、「労働1単位分の労働力を生産するために直接間接に必要な労働が1単位よりも小」というものを見つけ、それに「労働の搾取」なる解釈をつけるならば、全く同様に、「バナナ1単位生産するために直接間接に必要なバナナが1単位よりも小」という条件も利潤の存在と同値になり、これを「バナナの搾取」と呼ばなければならないことになる。だから「搾取」などと言う価値判断を込めた読み込みはおかしいというわけだ。
私は最近、こんな妄論が出現した諸悪の根源が「労働力再生産」概念にあるんじゃないかというところにまで気分がいっている。
「一般化された商品搾取定理」って、実は言っている張本人はみんな概して非主流派の人だ。主流派近経の人たちは、ろくに式を読まずに結論だけ聞いて、そうだそうだと拍手しているだけで、こんなことは主流派の人たち自身にとっては絶対に思いつかなかった議論だと思う。
さっきのブリタン・オブ・ポリティカルエコノミー誌に載ることになった論文は、上のリンク先の拙エッセーの内容を英語にしたもの(数式展開はだいぶ改良してすっきりした)なのだが、言っていることは要するにこういうことだ。「労働の搾取」の裏にはごく当たり前の純生産概念がある。ところがそれに対して、「バナナの搾取」の裏には実にへんな「純生産」概念がある。バナナの木に投入される肥料やバナナ生産のための労働が「純生産」とされる一方、労働者の消費する消費財は「純生産」に含まれないのだ。ごく当たり前の純生産概念とつじつまが合う搾取概念は労働の搾取以外にはない。
つまり「バナナの搾取」の見方では、労働というのは、普通の財と同様、食料や衣料などを生産手段として投下して生産されるモノというふうに扱われるわけだ。
「一般化された商品搾取定理」の論者が、"「搾取」と呼ばれる概念など「石油1単位掘り出すために直接間接に必要な石油が1単位より小さい」という当たり前の効率性条件にすぎない"と言うと、主流派の人は「そりゃそうだそうだ」と納得するのだが、このとき主流派の人が理解した話はおそらく正確ではないだろう。石油1単位掘り出すために、純粋に技術的に必要な石油を思い描くだろう。これは、当たり前の純生産可能条件の言い換えにすぎない。
ところが「一般化された商品搾取定理」が言っているのはそうではないのだ。石油を掘り出すために投下される労働も考慮に入れて、その労働者が消費するために直接間接に使う石油も含めて、「必要な石油が1単位より小さい」と言っているのである。こんな発想は、「労働力」なるものを、他の財と同様、食料や衣料を投入して再生産するものという考え方に慣れた者にしてはじめて思いつくものである。
労働搾取論で用いる投下労働価値概念の裏に数学的に前提されている純生産概念は、主流派経済学の純生産概念と全く同じ、ごく当たり前のものである。総生産からそのための物的投入を引いたものだ。これは、人類のあらゆる社会に共通する「本質」である。
それに対して、「労働力」なるものがあたかも他の財と同様、食料や衣料を投入して再生産されるように見えるのは、資本主義経済という特殊な社会で、資本家階級の目に写っている「現象」である。宇野理論あたりも強調することだが、蓄積が行き過ぎて失業が枯渇すると、たちまちこの仮象の姿は消えてしまう。
「マルクスの基本定理」がやっているのは、この「本質」の立場から「現象」を見ると、そこに労働搾取が見て取れるということである。だからこの「現象」は労働力再生産賃金でもいいが、それに限らず限界生産力でも何でもいい。利潤がありさえすれば労働搾取が出てくるわけである。
ところが、多くの伝統的マル経の人の常識では、労働力再生産概念の方が「本質」で、主流派経済学同様の純生産概念の方が「現象」ということになっているらしい。全く逆なのだ。
うーむ。ここまで書いて、これは大変なことだと改めて認識した。こっちにとっては搾取概念の根幹にかかわることなのだが、それは向こうにとっても同じなのだ。ガチで議論始めると収拾がつかないぞ。困った。
こっちの思い込みかもしれないが、「消費」などと言う言い方を避けて「労働力再生産」にこだわったり、「搾取」という言葉が出てこなかったりするところには、何か、人間の意識を超越した客観法則志向があるように感じられるんだけど…。これまでのマル経はイデオロギー的だったというところを反省して、客観科学を目指すのが変わるべき方向で、そしてその点においてマル経は近経よりも優れているんだって言うような…。違うかな。
私から見れば、現実を説明する客観科学としては、なんだかんだ言って主流派経済学が一番先に進んでいるし、これからも現実に迫るよう進化しつづけていくと思う。そこに価値判断を持ち込むのがマル経の存在意義だと思っているのだが。
そもそもマル経教員はよるとさわるとみんな実は価値判断を語っているんだから、それを隠さずに意識化してちゃんと論理的につじつまのあったものにするのが大事なんじゃないだろうか。
【学生も難しい。ボクも難しい。】
一部の先生からは、「マルクスの基本定理」をやれと言われる。
『資本論』の順番にこだわらず、投下労働価値どおりの価格など最初から前提せずに、「マルクスの基本定理」で押していければこんな楽なことはない。しかし、前任校のある講義で「マルクスの基本定理」を説明しようと、初回『蓄積論』の二部門モデルで、投下労働価値の定義式を足し算とかけ算だけで書いたら、翌週から出席者が一人だけになった。そんな苦い思い出があるので乗り気がしない。
立命館の学生も、数学のできない層の数学のできなさの具合は、前任校のそれとたいして変わらない。去年の「社会経済学初級α」の授業でも、「再生産表式」程度の数式を書いても、「数学できないから社経とってんのになんで数式出すんだよ」という圧迫感をヒシヒシと感じた。実際、出席票に書いてもらうコメントでは、「わからない」「難しい」というのがいつもより多く返ってくる。(言い訳すると「よくわかった」と書いてくれているのもそれなりの数ありますよ。でも「わからない」系が10枚も出ると、教師オシマイって感じになる。)
昨年度の担当者の間では、定期試験の結果がよくなかったことに、共通に衝撃を受けていて、抜本的な組み直しが必要という点では合意がとれている。まあただでさえ難しくて大変って言っているそんなところに、数学展開を増やす話などあり得ないわな。
今のところ、ミクロやマクロと比べて理論水準の低いことはしないでおこうという点では完全に意見は一致している。『資本論』ベースをとっぱらったとたん、見るも無惨な姿になった旧マル経原論をいっぱい見てきたから、まともな理論水準をたもつためには『資本論』ベースもしかたないと思う。それでいて、現代的問題にも役立つことが学生に実感できるものでないといけないということでも一致している。まわりを怒らせないように、日和りながら働きかけていったら何年がかりになるかな。
1) マンキューの「経済学の十大原理」
アメリカのニューケインジアンの経済学者、グレゴリー・マンキュー教授(ハーバード大)が著書の教科書の冒頭に掲げた次の原理。
原理1:人々はトレード・オフ(あれかこれか)に直面している。
原理2:あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である。
原理3:合理的な人々は限界原理を考える。
原理4:人々はいろいろなインセンティブ(誘因)に反応して行動する。
原理5:取引は全ての人をよりよくすることができる。
原理6:通常、市場は経済行動を組織する良策である。
原理7:政府はときどき市場のもたらす結果を改善することができる。
原理8:一国の生活水準は財とサービスの生産能力に依存する。
原理9:政府が紙幣を発行しすぎると物価は上がる。
原理10:社会はインフレーションと失業の間の短期トレードオフ関係に直面している。
「エッセー」目次へ