松尾匡のページ10年8月30日 小野先生のワルラス法則論がここまでわかった
◆ 某学会の雑誌の査読締め切りをすっかり忘れていて、昨日朝になって編集委員の先生から電話がありました。「今日編集委員会だから11時までに報告書を送れ」とのこと。ってその時点でもう9時前なんですけど...。仕方がないので大急ぎでやっつけて、11時15分ぐらいに送りました。投稿者もまさか2時間で審査されているとは思うまい。まあ、一回ざっと目は通してあったのですけど。
ああそれから、昨日の毎日新聞12面に、
『不況は人災です』の書評が載っていました。「わかりやすさで右にでるものがなさそうな」とか「貧困や格差問題に興味のある人に、ぜひ読んでほしい」とか書いてあって、とってもうれしいです。
また、そろそろこれまで存じ上げてなかったブログで、拙著ご紹介いただけるようになってきました。「コンパクトな学説解説が見事」とか「とても分かりやすい」とかと好意的なご書評をいただき、本当にありがとうございます。いずれもコメント欄がありますので、ご迷惑をおかけしないために、ご紹介はひかえさせていただきますことをご容赦下さい。
◆ ところで
前回のエッセーの「
最後の追記」での説明、田中秀臣さんはやっぱり納得されていないみたい。終身雇用制の擁護なんてしていませんとのことです。
そうだったっけ。ご著書『日本型サラリーマンは復活する』(NHKブックス)では、日本型雇用慣行のことたしかにさんざん批判してはいたけど、最後には、やっぱりよかったみたいな締めになっていたような気がするけど…、と思って読み返してみたら、たしかに「終身雇用」とは書いていないです。でも長期雇用と年功制が「人的資本」蓄積にとって役立つもので、成果主義とか雇用流動化とかいってそれを壊す改革はよくないとは言っているように思いますけど。
まあいろいろ書くとまた違うと文句言われそうだから、ご関心のみなさんはこの本を読んでみて確かめて下さい。戦前の歴史記述はさすがの本職だし、当時は渦中だった小泉改革とデフレ不況への批判は全くその通り。警告した通りの世の中になったねという感じです。
◆ しかし田中さんと濱口さんが表で同じ欄になったら笑えるネタだと思ったけど、やっぱり無理があったようです。すみません。
その濱口さんですが、こんなことを書いて下さっています。
「ネーション共同体」をまともに論ずるのなら ちょっとだけまじめにコメントしますと、19世紀英国の自由主義国家は、市場対抗というよりは市場そのものに必然的に伴う民法的秩序のシステムで、工場法による労働基準もその一環だと思います。この限り、個々の官僚や政治家は、共同体意識や愛国心にかられて制度を作ったかもしれませんが、その範囲は国民国家である必要はなくて、同胞共同体意識も必然ではないと思います。だから、当時はネルソン提督像をプロレタリアの入れない屋内に置いて拝観料をとったり、交戦国ロシアがロンドンで戦時国債を起債するのを放置したり、ブルジョワたちが戦争をネタに罰当たりな投機をするのが横行したりしていたのだと思います。
20世紀の帝国主義時代になって、無頼の大衆を引き入れなければならなくなって、はじめてナショナルな共同体幻想が必要になったのだと思います。そしてそれが市場対抗的になってかえってブルジョワを困らせ、ときには暴走することになる。フランス大革命もそうだったかもしれません。
今私が考えているのは、19世紀的な市場補完的民法秩序の方の延長線上で、ソーシャルな基準を充実させるという方向がないものかということです。例えば、国際資本移動のために労働条件のダンピング競争が起こっているのを防ぐために、世界的な労働基準を広め、高めていくことなどです。
◆ それから、前回のエッセーに関して、id: Apemanさんからお返事のエントリーをいただいています。
お返事 「お詫び」については了解しました。まあ、結局この騒動で売り上げが伸びたみたいだし(笑)。
前回も書いたように、こちらは脱デ議連への支持や特定政治家への投票を求めているわけではなく、私自身も右翼的政治家と組むつもりはないのですから、Apemanさんたちがデフレ容認をするつもりがないならば、私たちの間にはさほどの距離はないものと思います。
しかしなお整理すべきところがあると思いますので、詰められるだけ詰めておきたいと思うのですが、私が訴えたいのは、やはり政府・日銀の政策(無策)は批判すべきだろうということです。自民党時代から現在まで。
こんなに失業や貧困が蔓延するひどい世の中を作っていることの責任を追及しなければ、何のために左翼があるのかということになります。今も円高が進行して日々新たな貧困が生み出されているわけですし。
そしたら、一旦批判するということになると、どういう方向から批判するのかが直ちに問題になるわけです。
そのとき、「金利を上げろ」とか、ましてや「ゾンビ企業退治」とか「競争強化」とか言っては困りますよと。それはまず大前提だし、さらに一歩踏み込めば、総需要拡大策で雇用を増やすことを求めてほしいわけです。その際、再分配や社会保障を充実させることは重要なことですが、失業者が次から次と出てくる状態を放置しておくかぎり、対処療法になってしまうと思います。それは、たとえれば、政府が戦争を遂行している中で、戦没兵士の遺族や戦災被災者がとてもひどい窮乏の中にあるから保障を充実しろと要求するようなものです。戦争反対といっしょに言わない限り、戦争政策を支えるものになってしまう。それと同じです。
今は「ケレンスキー臨時政府はツァリー政府の始めた戦争を継続している」という状態ですね。どうするか。ボルシェビキ革命の結末が良かったとは決して思いませんが、他にこれを問題にする勢力がない以上はそうなるのも自然の流れだったでしょう。
同様に、けしからん勢力がリフレ論を唱えているかもしれませんが、人々の差し迫った暮らしの事情に応える政策を掲げた勢力が他になければ、それが勝ってしまう可能性が高いのです。だから、左翼・リベラルこそがリフレ論を掲げるべきだと主張しているわけです。
◆ 今、大学生協のクリーニング屋さんから電話があって、こないだ洗濯物を出したまま支払い手続きを忘れていたことを知る。OΓ乙。
冒頭のとはまた別の学会の仕事で、ちょっと難しい勉強をして決着つけなければならない問題が。これをアップロードしたあと着手するぞ。
さて、
前々回のエッセーで小野善康さんからお電話をいただいた話を書きました。その中で、小野さんが、ボクの依拠する「ヒックス=パティンキン=置塩=浜田」のワルラス法則理解は間違いだとおっしゃったということを言いましたが、そのときは小野さんの考え方がよくわからなかったのですが、その後すこしわかったので今日はその報告を。
まずワルラス法則というものの説明をしておきますね。
ワルラス法則というのは、一言で言うと「諸商品の超過需要の和はゼロ」ということですが、要するに、ある商品で売れ残りがあれば、別の商品で品不足があり、世の中全部の商品で足しあわせたら相殺されてゼロになるということです。この「商品」というのは、財だけではなくて、労働や債券や貨幣も含む、取引の対象になるありとあらゆる商品のことです。
なぜこれが成り立つかというのは、よく考えたら当たり前のことです。人々は、一般庶民も大金持ちも、企業も政府もみんな、当初、資産や生産物や労働力といったいろいろな供給物を持っていて、それを売りに出して、自分が持ちたい資産や消費財や生産手段などいろいろな商品に交換するわけです。それゆえ、これを全員について足しあわせてみると、いろいろな商品の総供給が、交換後持ちたいいろいろな商品の総需要になります。すなわち、
いろいろな商品の総供給≡いろいろな商品の総需要
三本線のイコール「≡」は、ここでは、いついかなるときにも必ず成り立つ等号を意味します。
この式の左辺を右辺に移行すると引き算になりますね。これを、各商品ごとにまとめると、需要から供給を引いたものが超過需要ですので、
いろいろな商品の超過需要の総計≡0
となります。これがワルラス法則です。
ここからすると、いろいろな財や労働などがみんな超過供給(需要不足)で売れ残っている(マイナスの超過需要)という今の日本のような状態は、唯一貨幣だけがプラスの超過需要になっていることを意味します。貨幣を持ちたいという額が貨幣の存在量を超過してしまっているということです。
だから、貨幣の超過需要を解消するために、貨幣の供給を増やしてやりましょう。そうすれば、その裏で自動的に財や労働の売れ残りもなくなりますよ。というのが、浜田宏一先生や私などの言っている一番ざっくりとした主張になるわけです。
それで、小野さんは、このワルラス法則理解が間違っているから、浜田さんの言う通りにはならないとおっしゃるのですが、まずおさえておくべきだと思うのは、小野さんのモデルで貨幣供給を増やしても景気がよくならないのは、このワルラス法則理解をとるかどうかとはさしあたり関係がないということです。浜田さんやボクのワルラス法則理解をとったとしても、小野モデルの流動性のわなの状態では、貨幣供給が増大するとそれと同じだけ貨幣需要が増大するのでやはり無効です。
ボクも今の日本はこうなっていると思いますので、たしかに一時的な貨幣供給増大ぐらいでは無効だと思っています。
さて、小野さんは、浜田さんのワルラス法則は、フローとストックを混同しているとおっしゃいます。フローというのは、ある一定期間で生み出されたり消えたりする量、ストックとはある一時点で存在している量のことです。財の生産や消費などはフローの量です。貨幣や債券の供給量や需要量はストックです。両者はいっしょにできない量なので、財と貨幣と債券の超過需要は足しあわせることができず、三者の和がゼロになるというワルラス法則はナンセンスというわけです。
これは、大昔、ヒックスがマクロ経済学でワルラス法則を持ち出して以降からもう見られた批判で、パティンキンがこれに対してこの上もなく明瞭な反論をしています。『痛快明快』本にも書いておきましたのでご存知の読者も多いと思います。すなわち、貨幣や債券の供給とは、期首に人々がもともと持っていた量、需要とは期末に持ちたい量であって、両者の間には、生産が行われ所得が発生するまでの時間がある。両者は時点がズレているので、その差である貨幣や債券の超過需要というのは、一定期間の間に、貨幣や債券をどれだけ変化させたいかを表すフロー量である。だから財や労働の超過需要と足すことができる。──こういう議論です。
ところが前回のエッセーに書いたとおり、小野さんはこの議論をよく知った上で批判しているのですね。
小野さんのお考えは、『貨幣経済の動学理論』(東京大学出版会, 1992年)の、第14章、第15章に載っています。
さしあたって、見た目でわかる特徴は、上記パティンキンの説明が、例えば「去年、今年、来年…」といった一定間隔をおいて飛び飛びで進む「離散時間」モデルであるのに対して、小野さんのモデルは、時間が連続に進むモデルです。離散時間モデルならば、運動は数学上「差分方程式」で表されますが、連続時間モデルならば、「微分方程式」で表されます。
たしかに、今日の多くの経済理論モデルは、連続時間モデルを採用しています。しかしボクはこれを、数学的便宜のためと解釈しています。本来は、各企業も政府も、毎月や毎年の会議があって、そこで月ごとなり年ごとなりの会計を締めて、月ごとなり年ごとなりの計画を立てて意思決定しています。これは離散時間で意思決定しているということです。だから本来は離散時間モデルで表すことが現実的なのですけど、差分方程式よりも微分方程式の方が数学的な取り扱いがよほど楽になるので、やむなく連続時間にしているのだと思います。(授業などでは、微分ができない人が多いので、かえって差分方程式を使いますが。)
連続時間モデルが数学的便宜のための離散時間モデルからの近似にすぎないのならば、連続になったからといってパティンキンの説明と何ら変わるものではありません。時間間隔の取り方をどんどん短くして、無限にゼロに近づけただけです。
この場合、フロー量は、ある一瞬の間の微小な変化を、そのままの勢いで仮に1年続けたらどれだけ変化するかということです。「瞬間時速」とかと同じような概念ですね。だから、大小比べて引き算することもできます。それに対してストック量は、各瞬間での存在量になります。だから、債券や貨幣といったストック変数の超過需要というのは、一瞬前の量からその一瞬後の量を引いたもので、両者ほとんど量は変わらないので常に差はゼロになります。つまりストック市場というのはあり得ないということです。
一番簡単な例で、全員が自営農家で財はコメ一種類しかない世界を考えてみて下さい。あとコメの貸し借りのための債券があって、世の中の商品はこの二種類だけとします。そうすると、各自は、コメの純生産から消費と作付け拡大用の種もみを引いて、余りが出たならばそれを他人に貸して債券保有を増やそうとします。足らなければ、その分債券を発行してコメを借りようとします。
そうすると、世の中全体で総計すれば、コメの純生産(供給)から消費と拡大用種もみ(需要)を引いたものは、とりもなおさず社会全体での債券保有計画の純増であり、それがすなわち債券の超過需要のことですから、この二種類の商品の間で、ちゃんと我々のワルラス法則が成り立っています。これは連続時間にしても同じです。
では、資産として債券の他に貨幣がある場合はどうなるでしょうか。
この場合も同じように考えることができます。今、小野さんがなさっているのと同じ簡単化の想定をして、企業が労働も何も使わずに
Yの金額の純生産を行い、家計は企業に貸した債券の利子所得だけを所得として消費している場合を考えてみましょう。このとき、企業の予算制約式は次のようになります。
Y+d
BS/dt≡
RBただし、
BSは債券供給、
Rは名目利子率、
Bは債券のストック量、tは時間です。この式は、企業が生産を
Y行って売り、d
BS/dtだけ債券を新たに発行して、その合計を家計への利子払い
RBにあてることを意味します。
家計の予算制約式は次のようになります。
d
MD/dt+d
BD/dt≡
RB-
Cただし、
MDは貨幣需要、
BDは債券需要、
Cは消費額です。この式は、右辺の
RBの利子所得から消費を引いた残りが、左辺の貨幣保有の増加と債券保有の増加にあてられるということです。
この企業の予算制約式を家計の予算制約式に代入すると、次のような式が出ます。
d
MD/dt+(d
BD/dt-d
BS/dt)≡
Y-
C (*)
左辺第1項は貨幣の超過需要、左辺第2項は債券の超過需要、右辺は財の超過供給を表します。すなわち、ヒックス=パティンキンのワルラス法則そのものです。
ところが、小野さんのモデルはこれとは違う定式化をしています。資産の増減は、貨幣とも債券とも区別せずに両者の合計
A≡
M+
Bの増減としてなされ、各瞬間では、この与えられた
Aの枠のなかで、各人が自分の望む
Mや
Bの配分を、自由に量をジャンプさせて決めることができる想定になっています。これは、パティンキンの説明したような予算制約そのままで期間間隔をゼロに近づけたのではなくて、全く違う時間構造を想定しているのです。つまり資産の中の保有割合は、各瞬間でジャンプさせられるほど早く調整できるが、資産全体の増減は、生産や消費と同じく、時間を通じてゆっくり動くとする想定です。
この場合、債券ストックの需要と供給が事前的には乖離し得るので、企業の予算制約式は次のようになります。
Y+d
BS/dt≡
RBS 上の家計の予算制約式は、
A≡
M+
Bの時間微分をとっても等式が成り立ちますから、次のように書き換えられます。
d
AD/dt
≡
RBD-
C この両予算制約式を合わせると、次のような式が出ます。
d
AD/dt
-d
BS/dt≡
R(
BD-
BS)+(
Y-
C)
小野さんの本の表現に合わせておくと、次のように変形できます。
d
AD/dt
-d
BS/dt≡
R(
MS-
MD)+(
Y-
C) (**)
ただしここで、需要・供給双方で各瞬間、
A≡
M+
Bを満たすことから、資産ストックについてのワルラス法則、
BD-
BS≡
MS-
MD (***)
が成り立っていることを使っています。つまり、債券と貨幣の超過需要の和はゼロということです。
さて、小野さんは(**)にあたるものを、フローのワルラス法則とおっしゃいます。つまり、フローとストックとで、ワルラス法則の式が別々になるというわけです。これまでトービンから始まるフローとストックの二分法は、IS−LMの教科書的説明のように、このような処理をしてきましたが、アドホックでちゃんとした根拠を説明してこなかったとおっしゃいます。それというのも、新古典派的モデルでは、フローのワルラス法則の中にストック量が入ってくることがなかったのでそれを考えなくてもよかったが、(**)では右辺にストック変数が入ってくるのでちゃんと考えなければならないということのようです。
その上で小野さんは、(**)についてこのように説明されます。すなわち、右辺第1項は貨幣ストックの超過供給、第2項は財の超過供給です。ところが、左辺は「残差」であって、市場に影響しないとおっしゃいます。
この点がどうにも腑に落ちないのです。今の例は貨幣供給は一定としていましたが、もし貨幣供給の増加を考慮に入れれば、それは(**)の左辺にマイナスで入ってきます。つまり、(**)の左辺は資産全体の需要の増加から資産全体の供給の増加を引いたものなのです。一瞬前後のストック量の差はゼロですから、これは資産全体の超過需要にあたります。
小野モデルの想定では、各瞬間に与えられた資産全体の枠内で、人々は貨幣と債券の保有を瞬時に調整できます。しかし資産全体は、予算制約にしたがって運動しますので、資産の増加の需要計画と供給計画は事前的には一致せず、何らかの市場調整でそれを一致させないと体系が破綻するはずです。
ボクは、(**)と(***)のもとで、独立な需給均衡条件式は二本たてられるので、それで均衡の名目利子率と実質利子率の二変数が決まるというのでいいように思います。つまり例えば、名目利子率によって(***)にしたがって債券市場/貨幣市場が均衡し、それで(**)式の右辺第2項が消えたもとで実質利子率によって財市場均衡/資産増減の均衡が成り立つというように。
小野さんはおそらく、財市場で超過供給があって(**)の両辺がプラスになったとき、左辺に引き算で入る貨幣供給増加を増やせば左辺をゼロにできて、その裏で財市場の需給も均衡させられるという読み方ができるのが気に入らないようです。だから左辺は「残差」とおっしゃっているのだと思います。
しかし、流動性のわなでは、貨幣供給の増大が貨幣需要の増大で相殺される事態なので、そのもとで一時的な金融緩和が無効になることは、別にこのワルラス法則の読み方のいかんとは関係なく言えることです。
ところで、ワルラス法則の説明をしたついでに、小野さんとボクの見解が一致している、「流動性のわなとは実質貨幣需要の実質資産効果が1」ということについて説明しておきます。
ワルラス法則とは、貨幣も含むすべての商品の超過需要の和が必ずゼロということでしたよね。
今、貨幣以外にn種類の商品があるとします。すると、n種類の商品の市場がすべて均衡すれば、ワルラス法則が成り立つ限り、残り一つの貨幣の市場も必ず均衡することになります。だから、独立な市場均衡式は第1商品から第n商品までのn本たてればいいことになります。貨幣市場均衡式は省略してもいい。
さて、各商品の需要や供給を決めているのは、様々な商品の価格です。第i商品の価格をp
iと表すと、p
1からp
nまで、n個の価格があります。そうすると、貨幣以外の各商品の市場均衡式は、第i商品の超過需要関数を
fi( )で表すと、
f1(p
1,p
2,p
3,…,p
n)=0
f2(p
1,p
2,p
3,…,p
n)=0
・・・・・
fn(p
1,p
2,p
3,…,p
n)=0
となって、式の数がn本、変数の数がn個で一致し、一般均衡解が解けます。
しかし、ちょっと考えてみると、へんな気がしませんか。缶コーヒー240円といったら高く感じますが、給料も何もかも2倍になっていたらそんなものですよね。ものを買うかどうかというのは、賃金(労働の価格)とか別のものの価格とかとの比較で考えるわけです。売る方もそうです。コストに対する売値の比較で、供給するかどうか考える。そうすると、需要や供給は、価格どうしの比、「相対価格」で決まることになります。
相対価格は、とりあえず何を基準にして表してもいいので、第n財を基準にすることにすると、p
1/p
nからp
n-1/p
nまでn−1個あります。
あれ。そうすると、需要や供給が相対価格で決まるものならば、式の数がn個、変数がn−1個ということになってしまいませんか。
いや、普通は大丈夫なのです。というのは、他の価格との比較ではなく、絶対価格そのものが効いてくるルートがあるからです。それが「実質資産効果」です。つまり給料とかとは別に、もともと資産としておカネをもっていたらどうでしょうか。すべての商品の価格が2倍になったら、給料も2倍になっているかもしれませんが、もともと持っていたおカネは2倍にはなりません。そのままです。だとしたら、その価値は半分に目減りしてしまいます。
私たちは、もともと持っている資産をあてにしてものを買うかもしれません。そうすると、物価水準が一般的に上がれば資産が目減りして消費を減らします。物価水準が一般的に下がれば、その分リッチになって消費を増やします。借金を背負った人にとっては逆に働くかもしれませんが、プラスの資産の人と借金を背負った人の行動を相殺させれば、貨幣そのものの裏には誰もその分借金している人はいませんから、人々が貨幣をもともと持っている分については、物価が上がれば支出を減らし、物価が下がれば支出を増やす効果が働きます。
これが「実質資産効果」です。
そうすると、やはり絶対価格水準が需要や供給に効いてくることになります。絶対価格水準を第n財の価格で代表させておくと、上の連立方程式は、
f1(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n, p
n)=0
f2(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n, p
n)=0
・・・・・
fn-1(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n, p
n)=0
fn(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n, p
n)=0
と書き換えられます。つまり、
式はn本、変数は、n−1個の相対価格と1個の絶対価格の合計n個で、式と変数の数が一致するわけです。
ところが、「実質貨幣需要の実質資産効果が1」となったらどうなるでしょうか。これは、手持ち資産が増大したら、それを消費にも債券増にもまわさず、全部貨幣で持とうとすることです。物価が下がって余裕ができたら、余った分を全部貨幣で持つ。
ということは、貨幣以外の商品の需給には、資産効果が影響してこないことになります。つまり、絶対価格が影響しないということです。よって、上の連立方程式の各関数の中からp
nが消えて、
f1(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n)=0
f2(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n)=0
・・・・・
fn-1(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n)=0
fn(p
1/p
n, p
2/p
n, p
3/p
n,…, p
n-1/p
n)=0
ということになります。これは、式の数がn個、変数がn−1個ということになり、連立方程式が成り立たなくなります。
そこで最も調整の遅い商品の均衡が破れます。ここでは第n商品がそれだということにしましょう。すると、第1商品から第n−1商品までのn−1本の市場均衡式で、n−1個の均衡相対価格が決まります。しかしその相対価格のもとでは、第n商品の均衡式は成り立たず、不均衡が放置されることになります。
この第n財は、現実的には労働であり、失業を出したまま経済が均衡してしまうわけです。そしてそれを前提として需給行動がなされるので、第1商品から第n−1商品までと貨幣とのn種類の商品でワルラス法則が成り立ち、独立な均衡式の数はn−1個ということになるわけです。
これが一般均衡で見た「流動性のわな」状態の説明です。同じことを裏の貨幣市場に着目して説明した説明については、
こちらをご覧下さい。
この場合、労働市場で失業が出ているので、p
nつまり貨幣賃金率は下がり続けます。しかし、相対価格は決まってしまっているので、他のすべての商品の絶対価格が、貨幣賃金率と同率で下がることになります。そしてどれだけ下がっても何事も起こらず、失業は解消されないことになります。
もっと現実に近づければ、この一時点での一般均衡にとって、将来の価格は外生変数として影響します。人々が将来のデフレを予想して支出を減らすならば、多くの失業を出すところで均衡が成り立つかもしれません。その結果起こる賃金下落、デフレが、その予想と整合していたならば、延々とここから抜け出せないままになってしまいます。
ところで拙著『不況は人災です』で、最低賃金の引き上げを唱えたことに対して、やはりご批判の声が上がっているようです。誤解があるようですが、ボクはこれを、直接の生活保障のために言っているのではありません。貧しい人の生活をなんとかするためには、それこそ無から貨幣をつくって、給付金としてみんなにばらまいた方が、誰の損にもならず効果も絶大です。
ボクが最低賃金の引き上げを唱える最大の目的は、将来の引き上げスケジュールを示すことでインフレ予想を作ることにあります。
今説明したように、流動性のわなにおいては、絶対価格水準は未決定になります。だからそれは人為的に操作する余地があります。何か一個でも絶対価格を適当に操作してやれば、他のすべての価格がそれに比例して動くことになります。
ただしこれは、実質貨幣供給量が減るという意味で金融引締めと同じ効果を持ちますので、金融緩和と合わせて行わなければならないのですが、一番極端に言えば、最低賃金の引き上げにともなう資金需要が、日銀の貨幣発行で融資されるようなシステムを作れば、その点のマイナス効果は完全に相殺されると思います。
「エッセー」目次へ ホームページへもどる