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10年9月14日 小野善康先生との電話話の件二件を考えてみた


 今晩石川県の実家に飛んで、そこから明日、あさってと金沢に通って、金沢市内の高校で模擬授業と高校訪問。木曜の晩に帰宅して、金曜の晩から上京、土曜日に某学会誌の編集委員会があって、その晩帰宅。一泊したあと、日曜の晩は立命館に泊まって月曜、火曜とゼミ旅行──という強行軍です。こんな状態なので、この時期いろいろ学会大会があるのですが、今年はコメンテーターも頼まれていないので、みんな無視です。関係者のみなさまはご了解下さい。

 さて、こないだ3日に神戸大学大学院時代の足立英之先生のゼミのOB研究会があったので神戸大学に行ってきたのですが...。
 いやいや、編集者様から拙著『不況は人災です!』の自虐ネタ禁止と言われているのですが、後輩から指摘されちゃって。
 「はじめに」の書き出しで、読者の「ツカミ」のつもりで、幕末の「攘夷論」になぞらえたたとえをしましたけど、一般人は「攘夷論」なんて知らないからこの時点でもう読まなくなるって。ベストセラーってのは、普段本を読まない人が買うからベストセラーになるのであって、普段本を読まない人が知らないことを冒頭に書くなんてほんとに売る気があるのかって言われてしまいました。
 そうだったのか。い...一応、「攘夷論」の意味とか、簡単な歴史的経緯とかは読み取れるように書いてはあるのだが...。
 まあ、今の学生は、昭和初期が戦前だってことがわからなかったくらいだから、「攘夷論」知らなくても当然ですけど。「倒幕側が近代化側だから開国側、幕府が昔を守ろうとしているから攘夷側」ぐらいに勘違いしていても全然不思議じゃない。うーむ、反省。…なんかこんな反省ばかりしているのですけど。
 一般書書く才能ないから学術書書いてた方がいいと言われました。OΓ乙。
 本当にそういう気がするから、やっぱり今度は絶対、数式いっぱいの難解な学術書を書いてやるんだ!この数日、学会誌の編集の仕事の関係で線形代数の勉強をやり直したけど、知らなかったことがいっぱいあって、ちょっとは充電できた気がするぞ。

 ところで、このOB研究会には、置塩ゼミの先輩で、今ではすっかり新古典派に転向している大阪大学の二神孝一さんもいらっしゃって、懇親会ではリフレ論をネタにさんざんいじめられてしまった。もう無敵の露悪ネタ全開で、とてもかないません。足立先生までも突っ込まれてて、もう誰にも止められない(笑)。
 で、二神さんから、師匠を「降霊するぞ」と言われて「それだけは勘弁を」と頭を下げていたのですが、二神さんの方は師匠が「降霊」してきても、「対決する」そうです。本当にできるものか是非見てみたい気もするが。
 いろいろ「対決する」ネタはあるようなのですが、特に師匠のワルラス法則理解は、大学院生当時からおかしいと思っていたそうです。浜田宏一先生のワルラス法則理解も同様に駄目だそうです。この話題、こっちからふったわけではないので、このかんエッセーでとりあげた小野善康先生の、ヒックス=パティンキン=置塩型ワルラス法則への批判は、現代の新古典派動学マクロにかなり一般的な見方のようですね。(というか、多くの人は意識せず使っているんでしょうけど。)

 実は、小野さんのワルラス法則理解、その後ずっと考えていたのですが、前回のエッセーで、「体系が破綻するのではないか」と言ったのは、名目資産額の初期値が所与だと思っていたからで、どうも本当は所与ではなくて内生変数だったようです。これは小野さんにもメールでたしかめてあります。お忙しいところお答えいただいてありがとうございました。
 そうだとしたら数学的には矛盾がないようなのですが、どの市場で何が決まってという決定関係がいまひとつよくつかめないので、もう少し考えてみたいと思っています。

 というわけで今回は、小野先生との議論で関連する別の話題を二点。


 
 8月20日のエッセーで、ボクの発言として書いておきましたが、「流動性のわな」に落ちたとしても貨幣供給の変化が影響を及ぼし得るという話について、ちゃんと説明しておこうと思います。
 ここで、流動性のわなと言うのは、世の人々の貨幣保有の増大が、そのまま貨幣需要の増大に向かうので、世の中に出回る貨幣量を増やしても何事も起こらない事態のことです。
 ところが、ヒックス=パティンキン=置塩流ワルラス法則の考え方にのっとれば、人々の貨幣需要関数に影響する貨幣の初期保有の時点と、中央銀行が貨幣発行した後の貨幣供給量の時点との間には、厳密には時点のズレがあります。だから、中央銀行が発行した貨幣が、まだ人々の手元にまわらず貨幣需要に影響を及ぼさない間は、市場に影響を与えることができることになります。

 この話は、実は以前、久留米大学のゼミ生が卒業論文で取り上げたことがあって、その後、ボクとの共著の形で、景気循環学会の学会誌『景気とサイクル』に掲載されました。ボクのマクロの教科書『標準マクロ経済学』に、上記の時点のズレを無視している「ごまかし」があるということをこのゼミ生に言ったら、ではごまかさずにやったらどうなるかということになって、論文になったものでした。
松尾匡・堀川智加「流動性の罠のマネタリスト的性格」2003年5月『景気とサイクル』第35号

 久留米大学の学生がやるぐらいのことですから、全然動学とかない、名目と実質も区別しなくていい、ただの「どマクロ」なのですが、実はここで言いたいことは、「どマクロ」以前の、ほとんど予算制約だけから言える話です。論文自体はIS−LM図でやっているのですけどね、その必要すらない。

 今、財は一種類にまとめてあるとしましょう。資産は「貨幣」と「債券」の二種類だけあるとします。
 この三種類の商品を想定して、流動性のわなのブラックホールど真ん中に陥った、極限の事態を考えます。

 「流動性のわな」では、資産の増大を全部貨幣で持とうとして、債券には全くまわさないのですから、その極端な事態では、家計の予算制約はこうなります。
貯蓄=貨幣需要増

 企業は、債券を発行して調達した資金で設備投資をします。すなわち、企業の予算制約は、
企業の債券発行=設備投資

 租税は省略します。政府は、公債を発行して調達した資金で政府支出をします。政府の予算制約は、
公債発行=政府支出

 中央銀行は、債券を買って貨幣を発行します。中央銀行の予算制約は、
貨幣発行=中央銀行の債券需要

 さて、以上の予算制約式を、左辺どうし右辺どうし足しあわせて、左辺を右辺に移項すると、次のようになります。
[設備投資+政府支出−貯蓄]+《中央銀行の債権需要−(企業の債券発行+公債発行)》+{貨幣需要増−貨幣発行}=0

 1項目[ ]は、財の超過需要を表します(わからない人はマクロ経済学の入門教科書の最初の方を見て下さい)。2項目《 》は、債券の(フローの)超過需要です。3項目{ }は貨幣の(フローの)超過需要です。これはヒックス=パティンキン=置塩流ワルラス法則そのものです。

 さて、その三市場の需要供給が均衡すると、
貯蓄=貨幣発行
が成り立ちます。
 これは、中央銀行の貨幣発行によって貯蓄が決まり、それに基づいてGDPが決まるということです。したがって、貨幣発行が増えるとGDPが増え、貨幣発行が減るとGDPが減ることになります。つまり、貨幣供給のストック量そのものでGDPが決まるのではないということです。その増加分によってGDPが決まる。
 だから、GDPを増やそうとしたら、貨幣供給のストック量を増やしても増えるわけではないわけです。その増え方が一定ならばGDPは一定になるにすぎないということです。GDPを増やそうとしたら、貨幣供給の増え方自体が増えなければならないわけです。
 逆に、貨幣供給量のストック量を減らすまでもなく、ただ単にその増加のいきおいを弱めるだけで、GDPは減ってしまうことになります。

 さらに、
貨幣発行=貯蓄=設備投資+政府支出
となりますから、貨幣供給の増やし方が変わらないのに、政府支出を増加させたら、その分民間の設備投資がクラウディングアウトされて減ってしまうことになります。つまり、金融緩和の拡大を伴わない政府支出の増大は無効であるということになります。

 以上の話は、貯蓄が全く債券にまわらないという非常に極端な想定をして言えたことです。しかし、
・中央銀行の出した貨幣の総額ではなくて、その増加率が景気に影響する。
・金融緩和の拡大効果は小さいが、金融緩和をペースダウンしたときのマイナス効果は大きい。
・金融緩和の拡大を伴わない財政政策単独の効果は小さい。
という最近の観察事実に、うまく合っているような気がします。



 さて、8月20日のエッセーで触れたもう一つの話題。
 小野さんが、昔「消費税増税は景気を悪くする」と言っていたのが、実は撤回されていたという件ですけど。

 もうすぐボクの新著、『図解雑学』シリーズのマルクス経済学入門が出るのですが、その冒頭のところで小野先生のこともちょっとだけ触れていて、この「撤回」を知る前のイメージで書いてしまっています。もう校正もだいぶ進んでいて、図を変更するとかなり迷惑な状態だったのでそのままになっているのですけど。

 非常に残念な結論なのですが、モデルの整合性に関する限り、全く今の小野さんのおっしゃるとおりで正しいことがわかりました。
 命題は、消費税を増税しようが所得税を増税しようが、景気効果にかんしては変わりはないということです。したがって、所得税を増税してその分消費税を減税することで景気にプラスになるという以前の主張は間違いということです。

 これは、新古典派モデルでなら成り立つことは容易にわかります。
 簡単化のために、「現在」と「将来」の二期だけ考え、現在の所得からの貯蓄を将来に持ち越して、将来その元利合計を消費するとしましょう。所得に課税すると、現在の消費、貯蓄双方に課税され、将来は利子分に課税されます。消費に課税すると、現在の消費と将来の消費に課税されますが、将来の消費というのは、現在の貯蓄プラス将来の利子分と等しいのですから、結局、どちらも同じことになります。

 ところが、小野モデルでは、貯蓄は利子のつかない貨幣で持つ可能性があって、人々は、貨幣で持つこと自体に喜びや安心を感じることになっています。
 そうした場合、小野さんもボクも最初どう考えたかと言うと、消費に課税すると、所得全体に課税した場合と異なり、人々が消費を減らして貨幣保有にまわす動きが出ると思ったわけです。その分は、将来利子を生みませんので、所得に課税する場合と比べてズレが出ると思ったのです。

 ところがそうではなかったというのが8月20日のエッセーの話です。
 つまり、貨幣保有は実質貨幣で考えることになっているのですが、これは、貨幣をただの物価で割るのではなくて、消費税込みの物価で割らなければならないというわけです。「この貨幣で財が何個買えるか」が貨幣のありがたみなわけだから、それは、消費税も含めて計算しなければならないということです。
 もしそうだとすると、消費に課税された場合、消費も貨幣保有も同じだけコストが上がるわけですから、どちらがより有利ということもないです。人々が消費を減らして貨幣保有にまわす動きなど出てこないことになります。

 うーむ。全くそのとおりだ。モデルの定式化を受け入れるかぎり、この推論には非の打ち所がありません。
 でも納得しがたい。いったい何がひっかかるのだろうかと考えてみたわけです。
 無限に生きる合理的な「リカーディアン家計」という前提にケチをつければいくらでもつけられますが、そんな問題ではなさそうです。ボクはなぜ最初、間違った定式化をすんなり納得したのでしょうか。そこに何かあるに違いない...。

 そもそもなぜ貨幣の効用は、物価で割った「実質貨幣」から得ることになっているのでしょうか。
 「そりゃ物価が二倍になったら、200円でも前の100円で買えたものしか買えないから、前の100円とありがたみは同じになるじゃないか」と考えて今まで納得してきたわけです。でもこれ、逆でも成り立つでしょうか。物価が半分になったら、50円でも、前の100円と同じありがたみを感じるのでしょうか。たとえ物価が半分になって買えるものは変わらないとしても、50円のありがたみは、前の100円のありがたみよりもやっぱり小さく感じられるのではないでしょうか。なんだかインフレのケースを想定して納得した前提で、デフレを論じるモデルを建てている気がしてきます。

 そこでいったい「流動性選好」って何だという根本に立ち返ってみたいと思います。

 「流動性選好」というのは、広い意味で安全な資産である貨幣を持ちたがるということにつきると思うのですが、「危険」「安全」って何でしょうか。モノの価値を測るのは、何で測ろうが変わらないはずなのに、なぜ貨幣で測るのでしょうか。

 次のような簡単な例を考えてみて下さい。「貨幣」と「債券」の二種類の資産があります。どちらも100円です。貨幣は1年後100円です。債券は、50%の確率で50円の利子がついて150円になりますが、50%の確率でマイナス50円の利子がついて50円になります。さあ、どちらが「危険資産」で、どちらが「安全資産」でしょうか。
 貨幣が安全資産で債券が危険資産に決まっていると思われるでしょう。はたして本当ですか。

 私たちはよく、期末価値を現在価値に直して評価します。それは利子率で割り引くという計算をします。
 今のケースの場合、1年後の価値を1+利子率で割ることになります。
 すると、貨幣の現在価値は、利子率50%の場合は100円を1.5で割って66.67円、利子率-50%の場合は、100円を0.5で割って200円ということになります。つまり、この現在価値は50%の確率で66.67円、50%の確率で200円に変動します。
 それに対して、債券の現在価値は、利子率50%の場合は150円を1.5で割って100円、利子率-50%の場合は50円を0.5で割って100円となります。つまり、現在価値は100円という一定値になります。
 ということは、貨幣は「危険資産」、債券は「安全資産」ということにならないでしょうか。貨幣は、得られ得べし利得を50%の確率で得られない危険資産ということになるのです。もし、この資産を選択する人が、危険回避的な効用関数でもって、期末現在価値の期待効用を最大化する問題を解いたならば、全部債券で持つという結論を導くでしょう。
 しかし同じ人がこれを現在価値に直さず、1年後の価値そのものの期待効用を最大化する問題を解いたならば、全く逆に、全部貨幣で持つことになります。

 利子率で割り引くということは、実は、価値を債券で測るということを意味します。それに対して割引をせず、1年後の価値そのもので評価するのは、貨幣で測ることを意味します。
 私たち経済学をかじった者は、価値をどの商品を使って測るかは、どれでも同じことで、均衡に影響しないと思い込みがちです。
 ところがそんなことはなかったのです。価値をどの商品で測るかによって、「安全」「危険」が変わってくるのです。ある商品でもって価値を測るということは、その商品を「安全」とみなすということだったわけです。

 ハイパーインフレーションのとき、人々は、なるべく貨幣を手放して、財に換えようと思います。これは、貨幣を危険資産とみなしているということです。このようなケースでは、ものを貨幣で測るのはやめて、財で測るのが適当でしょう。
 しかし逆にデフレの場合は?
 この場合は、貨幣こそ唯一安全とみなされて、みんな財もなるべく買わず、債券も持たず、貨幣で持とうとします。これこそ「流動性選好」ということ。一番極端になったのが「流動性のわな」です。
 だったら、これとつじつまの合う測り方は、「貨幣で測る」ということのはずです。
 つまり、デフレを論じるときのモデルとしては、財の個数に直した実質貨幣ではなくて、名目貨幣そのものが効用関数に入る想定の方が適切ではないかという気がしてくるわけです。

 まあこの件についても、今後引き続き考えていこうと思います。


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